1970年代の近世史研究においては、いわゆる幕藩制国家論が盛んになり、多様な要素を含み込む形で、近世の国家像を豊かにしようと試みられた。近年ではそれに対する反省がなされつつある一方、朝廷・幕府・藩の三者相互の関係によって、近世国家の構造を解明しようとする朝幕藩関係という視点が提示された 。

そうした70年代以降の近世史研究における動向の中で、大きく進展した研究分野の一つが、天皇・朝廷に関する研究である。現在では近世における天皇・朝廷を、幕藩制国家において一定の役割を果たす一部・身分集団であるとする認識が通説となるにいたった。

しかし、近年の天皇・朝廷研究は、公家や門跡らの活動が江戸や京都にとどまらないことが明らかにされつつありながらも、朝廷を構成する公家や門跡らの全国的な動向には不明な点が多く、依然として天皇・朝廷の、近世の国家や社会における位置づけをどのようにとらえるか、が大きな課題となっている。こうした課題を克服するためには、天皇家や公家の家などに伝来した史料群はもちろん、これら以外の史料群における天皇・朝廷関係史料にも目を向ける必要があり、本論文では、特に近世において天皇・朝廷と様々な関係を有した大名家に伝来した史料群に含まれる、天皇・朝廷関係史料に注目したい。

近年では、大名家、あるいは藩に関する諸研究においても、朝廷や公家の存在が認められつつある。近世国家が幕府や藩はもちろん、天皇・朝廷をもその構成要素としており、前述のような課題が存在していることを踏まえれば、近世国家の構造を解明する上で、大名と天皇・朝廷との関係を検討することが大変重要な課題として浮上する。

しかし、大名と天皇・朝廷との関係は、幕府が関与しているケースも多く、その影響力は絶大である。従って両者の関係を、単に二者の関係としてのみ捉えることは必ずしも適切ではない。加えて天皇・朝廷との関係は、各大名家の抱える種々の問題との連関の中で捉える必要があると考えられることから、朝幕藩関係という視点から、各大名が置かれた状況を丁寧に分析しつつ検討することが重要となり、こうした分析によって近世の国家像をより豊かなものとすることが可能となるのではないか、と考えられる。大名と天皇・朝廷との関係は、諸研究の中で、公家と大名の間には、大名や旗本との交際と同様に「通路」や「両敬」の関係があり、儀礼や文化交流、婚姻、財政援助など、様々な関係の存在したことが明らかにされており、大名諸家と公家との関係は、各家によって異なった様相を呈している。こうした研究成果は、大名と天皇・朝廷との関係を、大名家の動向全体に位置づけ、幕府や他大名らとの関係を踏まえつつ論じることの必要性と重要性を提起していると考える。だが大名と天皇・朝廷との関係は、近世国家を論じる上で重要な論点でありながら、研究が進んでいない分野であると言わざるを得ない。

本論文では上記の問題を解決するため、①公家との縁組、または交際の存在を確認でき、その過程を再現可能な史料が伝存していること、②幕藩関係や藩政の問題など、御家や藩政、幕藩関係などに関する重要な課題について十分に検討可能なだけの史料が伝存していること、以上の条件を満たす大名として、加賀藩前田家、中でも五代藩主綱紀の時代以降を事例として分析する。天皇・朝廷との関係はもちろん、前田家の動向を考える上で、綱紀の時期が重要な画期になったと考えられるからである。

以上を踏まえて、特に①大名と公家との交際および縁組の実態とそのシステムを明らかにし、朝廷との関係がどのような背景のもとに形成されたのか、②大名と天皇・朝廷との関係の在り方がよくあらわれる事例として儀礼を取り上げ、両者の関係の中で儀礼が持った意義は何か、そして儀礼に際してどのような対策を講じていたのか、③天皇・朝廷との関係を下支えしていたと考えられる、京都藩邸の実態について検討し、それが天皇・朝廷との関係の中でどのような意味を持ったのか、といった点について検討を加えた。

加賀藩前田家と公家との交際(「通路」)および縁組は、時期によってその内容が変化し、幕藩関係および藩政や朝幕関係といった要素に左右される側面を有していた。そして公家との「通路」は藩主家との縁戚関係や旧縁、公家家職の有用性などに基づいて形成され、大名家の運営に影響を与えていた。さらに京都における儀礼および公家・門跡らとの交際は、血縁関係などを介して、江戸や地方城下町における大名らとの交際とも連動していた。京都は公家・門跡との交際などに加え、武家との交際においても、江戸とともに一つの中心軸(結節点)として機能した。

そして儀礼上の前田家と天皇・朝廷との関係は、江戸幕府による大名編成の問題、そしてその中での前田家の序列をめぐる問題と非常に密接に関連しながら展開していった。将軍を頂点としながら、天皇・朝廷を含みこんだ儀礼によって大名の編成がなされたことで、複雑かつ曖昧な公武間の秩序が形成され、前田家と天皇・朝廷との関係をめぐる動向もこれに大きく左右された。特に前田家では、前田綱紀が御三家並の家格を将軍綱吉に認められて以降、次代へその家格を継承することが課題として浮上し、家督相続儀礼や書札礼の整備などによってこれへ対処した。

家督相続時における禁裏・仙洞などへの献上は、前田家が御三家に準じる家格であることを示す儀礼であり、将軍を頂点とする武家領主間での儀礼の一環であった。また書札礼にあらわれたような近世における公武の序列は、公武それぞれが別の序列体系を形成する方向に向かいながら、公家と武家の序列体系はある程度の対応関係を有していたといえよう。この点にも天皇・朝廷を取り込むことで成立し、公家と武家との様々な関係が持続した 、近世における公武の序列の特質が表れている。こうした近世における公武の序列は、近世の国家や権力編成、そして政治問題や対外関係などとも連動する問題であった。

儀礼や公家らとの交際を行う上では、有職故実や京都の動向などに関する情報や知識が必要とされ、各大名家は有職故実や京都の動向に関する知識や情報を求め、その収集を担わせる存在を必要とした。そうした存在が有職方をつとめた平田内匠家や呉服所などであった。しかし、現実の交際と前田家の家格意識は、必ずしも一致していたわけではなかった。家格意識と現実の交際は別の論理によって展開し、家格意識に必ずしもとらわれない柔軟な交際が行われたと考えられる。

加賀藩による儀礼や交際、そしてそれらに関わる情報の収集において、平田内匠家や呉服所などとともに重要な役割を果たしていたのは、京都藩邸をはじめとした畿内近国の藩政機構であった。京都藩邸は財政上の拠点であるとともに、儀礼や政務を担うスペースが単独では存在しないながらも、儀礼的な役割も求められていた。そして加賀藩が京都藩邸および京都詰の藩士に期待した役割を簡潔に述べるならば、幕府役人との折衝、公家との交際や加賀藩から禁裏への使者派遣時の対応などに加え、大坂および大津から銀を収納・管理すること、そして贈答品や衣服および調度品などを京都において調達することであったと考えられる。加えて大津などに存在する蔵屋敷の管理や年貢米の売却などもその一環であった。西国における情報の収集などに関わっていた点も京都藩邸および京都詰藩士の特徴であったといえる。そして19世紀初頭には幕府役人との折衝や京都を中心とした儀礼および交際への対応も重要な役割となっていた。公家との交際が拡大し、儀礼の中に天皇・朝廷の存在が含みこまれたことで、公家や寺社への助力や物品の購入などを行っていた京都藩邸の役割は大きくなっていき、その機能は、時代が下るにつれて多様化していったといえる。京都藩邸など、畿内近国における藩政機構が連携し、公家や寺社との交際、および京都以西における儀礼などに対処していたのである。

近世における大名と天皇・朝廷との関係は、経済的・身分的安定の中で、江戸と京都を中心とし、地方城下町を含みこむことによって、広範囲にかつ長期的に展開した。幕府が諸集団を編成する手段として用いた儀礼においては儀礼を滞りなく執行するため、歴史的な由来や慣習、文化などを異にする交際相手との情報交換や相互補助が必要不可欠となり、全国規模で拡大した公家、大名、寺社の交際は、大名家の運営などの問題にも影響を及ぼすようになった。そうした中、大名と天皇・朝廷との関係は、様々な存在を抱え込み、時には大名側が公家らへ経済的な援助などを行い、京都藩邸に一定の役割を担わせることで安定的に維持されていたといえるであろう。

以上が近世における大名家と天皇・朝廷との関係をめぐる基本的構造であった。そしてこのように形成された関係は、幕末にいたって変質しつつも、京都が政治の表舞台となる中で機能し続けたと考えられる。しかし、近世において展開していたこのしくみは、明治維新によって、江戸幕府によってつくられた制度とともに崩壊し、華族となった旧公家や旧大名による活動は、江戸時代からのつながりを残しつつも、かつてとは異なった形で展開していくことになるのである。

しかしながら、本研究では、①加賀藩以外を中心軸とした検討、②加賀藩との関係のみに特化せざるを得なかった存在、③加賀藩における事例の普遍性と特殊性という問題について大きな課題を残した。これらは今後研究を進めていく上で重要になる論点である。