本論文は、ドイツのユダヤ人思想家フランツ・ローゼンツヴァイクの前期思想の研究である。この人物の前半生の思想的伝記を描くことを通して、彼の思想の中心概念のひとつである啓示概念を明らかにすることを目指す。ここで「前期」とは、彼が大学に入学し思索ノートをつけ始めた1905年から、主著『救済の星』を執筆する1918年までの期間を指す。この時期以降、彼の思想は『救済の星』に対する自己批判や生における様々な出来事をきっかけとして変化するため、「前期」とそれ以降は思想の内容的に区別することができる。
これまでのローゼンツヴァイク研究は『救済の星』を偏重する傾向にあった。その結果、その他の様々な時期に書かれたテクストは軽視されるか、同書を理解するための手掛かりとして用いられることが多かった。これに加えて、同書に対して様々な研究が様々な解釈を奉げてきたために、ローゼンツヴァイク自身がこの主著に込めた意図も見えにくくなっていた。さらに、彼が、晩年にいたるまで継続的に取り組んだユダヤ教の宗教教育の改革は、彼にとって哲学的な思索と等しく重要であったにもかかわらず、彼の哲学的な仕事との関係において考察されることは少なかった。このような研究状況を踏まえ、本稿は、遺された様々なテクストを年代順に分析し、彼の思想の発展を段階的に明らかにしていく。こうすることで、ローゼンツヴァイク自身の問題関心の所在を見定めつつ、彼の思想、とりわけその中心にある啓示概念を彼の思想や活動の全体の中で明らかにしていく。
彼の前期思想の中には一つの大きな転機が存在する。1913年7月に、キリスト教徒の友人オイゲン・ローゼンシュトックとの対話をきっかけとして、彼はキリスト教に改宗することを決意したのだ。しかし、彼はその3か月後にはこの決断を撤回し、改めてユダヤ人として生きていく覚悟を決める。本稿は、この出来事を基準点として三部に分かれる。第1部ではキリスト教への改宗を決意する以前のローゼンツヴァイクの思想の展開を追う。彼は当初医学生として大学に入学したが、2年後に歴史学に専攻を変えた。まず彼がそもそもどのようなきっかけから哲学や歴史学に接近し、何を求めて哲学的思索を行ったのかを知るために、大学に入学した直後からの彼の思想的関心の推移を追う(第2章)。この時期の日記からは、彼が歴史哲学への強い関心を持ち、自らの生の意味を歴史との関係から理解しようとしていたことが明らかになる。このような歴史哲学への接近は彼をヘーゲルへと向かわせた。ローゼンツヴァイクは、ヘーゲルの国家哲学をドイツ近代史に関する学問的研究の対象とするとともに、自らの哲学的思索の方法としてもその弁証法的な歴史哲学を取り入れたのだった。
第3章では、1913年の転機に至るまでのローゼンツヴァイクの宗教理解を明らかにする。というのも、かの転機はまさに宗教をめぐるものであったからだ。この時期ローゼンツヴァイクは、個人が背負う罪とそこからの救済、そして、相対主義が猛威を振るった19世紀を通して失われてしまった個物と普遍の関係性の回復という問題枠組みの中で、宗教をとらえていた。続く第4章では、ローゼンツヴァイクのヘーゲル研究の成果『ヘーゲルと国家』を取り上げる。1910年頃から1914年頃に至るまで、ローゼンツヴァイクが最も力を注いだのがこの『ヘーゲルと国家』の執筆であった。ローゼンツヴァイクは同書の中で、ヘーゲルの思想における個人と国家の関係の変化に着目した。そして、愛と自由を礼賛した青年ヘーゲルが、いかにして、重苦しい運命論にも比すべき歴史哲学や、個人の自由を国家が制限することを承認する全体主義的な国家哲学を構想するに至ったのかを跡付けていく。ここから、ローゼンツヴァイクのヘーゲル研究が、当時のローゼンツヴァイク自身の思想的関心、すなわち、現代において個人と普遍的なものはいかにして関係を結ぶことができるかという問題関心から行われていたことが明らかになる。
第2部では、改宗をめぐる一連の出来事の直後のローゼンツヴァイクの思想を分析する。そしてここで明らかになることと、第1部で明らかになったことを比較することで、この一連の出来事が彼の思想の発展のために持った意味を明らかにする。従来の研究では、この出来事はローゼンツヴァイクの事後的な回想を基に評価されることがほとんどだったが、本稿はこうした回想を含むテクストを参照しない。というのも、一般に回想というものは新たに獲得された立場からの過去の総括や断罪を含むからだ。本稿は遺された書簡やメモ類を丁寧に分析することで、ローゼンツヴァイクが一連の出来事に際して、宗教に期待していたこと、そしてこの出来事の後に、ユダヤ教に求めたことを明らかにする。まず、第5章において彼がユダヤ人として生きることを決断した直後に構築した護教的な宗教論を分析する。そして、人間の罪とその救済という問題に即して、ローゼンツヴァイクが宗教というものにそもそも何を求めていたのかを明らかにする。続いて、第6章においては、ローゼンツヴァイクが、以前のヘーゲル的な歴史哲学を啓示宗教の啓示を中心とする救済史へと組み替えていく過程を追う。ここで彼は、啓示宗教の啓示に独特な歴史認識を、預言とその成就という形式の中に見出していく。さらに、第7章では、ローゼンツヴァイクが同時代のドイツ・ユダヤ教の諸派に対して向けた批判を通して、この時期の彼のユダヤ教理解を明らかにする。
この第2部を通して次のことが明らかになる。すなわち、一連の出来事の直後、ローゼンツヴァイクは、宗教の重要性をはっきりと自覚した。それは、人間一般にとっても彼自身にとっても欠かすことのできないものとなった。しかし、彼が宗教に求めた役割を、現実のユダヤ教が果たすことができるのかという点については、彼はいまだ確信を抱いていなかった。ローゼンツヴァイクは、彼に改宗を勧めた友人たちに対してユダヤ教の立場を擁護しなければならなかった。しかし、この時はまだ彼はユダヤ教に対する体系的な知識を持っていなかったし、同時代のユダヤ教の諸潮流にも共感することができなかった。そこで彼は、1914年から1917年頃にかけて、ユダヤ教の核としての啓示というものの意味を自ら考察していく。第3部では、とりわけ1916年以降に深められ、部分的には『救済の星』へと結実していくローゼンツヴァイクの啓示概念を分析していく。
まず、第8章において、啓示が一人ひとりの人間に対して持つ実践的な意味をローゼンツヴァイクがどのように考えたのか、ユダヤ教の宗教教育の問題を通してみてゆく。彼は1917年頃からユダヤ教の宗教教育の改革を訴え、いくつかの教育施設の立ち上げに参加している。これは、彼が教育を通して、世俗化した同時代のドイツ・ユダヤ人がユダヤ教と再び関係を結ぶこと、彼の言葉で言うなら、彼らが「ユダヤ人になること」を支援しようと考えたためだ。このような実践的な関心は、啓示に関するローゼンツヴァイクの理論的な考察から切り離すことができない。
続く第9章以下では、啓示に関するローゼンツヴァイクの考察の発展を追う。彼の啓示をめぐる考察は、啓示が一人ひとりの人間に対して持つ実存的な意味と、救済史の中で啓示宗教が担う世界史的な意味との間で葛藤する。すなわち、彼が描いた護教的な救済史の中では、ユダヤ人とキリスト教徒に対してそれぞれ決まった役割が割り振られる。とりわけユダヤ人は、地上において救済を先取りするとされる。しかし教育実践からわかることは、一人ひとりの人間と啓示との現実的関係はいかなる図式をも逃れるということに他ならなかった。歴史哲学的な問題系と、人間の実存にかかわる問題系はローゼンツヴァイクにとってどちらも重要であった。本稿では『救済の星』の執筆に先立つ時期に書かれたテクストを見ていくことで、もつれ合う二つの問題系を解きほぐしながら彼の啓示概念の諸相を明らかにしてゆく。
第9章では、啓示と対話の関係に着目する。ローゼンツヴァイクは早い段階から啓示と話すことの不可分な関係を認識していた。というのも啓示は言葉を介して与えられ、その真理性は言葉によって証言されるからだ。彼は、書簡の中で啓示を現実的な人間同士の対話になぞらえて考察している。そこでは友人との対話の経験が啓示との関係で分析され、啓示が人間に対して持つ実存的な意味が検討されている。第10章では、啓示と歴史の関係に着目する。ローゼンツヴァイクは救済史についてさらに考察を深めてゆく中で、歴史的出来事として啓示が起こり、啓示宗教が成立したということを重視し、その意味を問うようになる。その結果彼は、啓示宗教の真理性をどのように客観的に主張できるかという問題に逢着した。このような方法論に関する考察の末にローゼンツヴァイクは、理論的な問題と実存的な問題を分けて論じるようになるが、決して二つの問題を分けて考えていたわけではなかった。第11章では、方法論をめぐる困難を度外視したところで、彼が人間と啓示の関係について考えていたことを明らかにしていく。彼にとって啓示とは啓示宗教の啓示であり、人間存在と歴史を同時に問うことは避けられなかったのだ。
以上の分析から、人間の生を定めるものとしての啓示という考え方が明らかになる。歴史の中に生きる人間は、一方では世界史の運命にとらわれているようでもあり、他方では無制約の自由を持つようでもある。ローゼンツヴァイクは、このような歴史の中の人間の生を、啓示概念から捉えなおし、その意味を新たに規定しようとしたのだ。