ナーガールジュナ(Nāgārjuna)作『中論頌』(Mūlamadhyamakakārikā、MMK)の注釈書であるチャンドラキールティ(Candrakīrti)作『プラサンナパダー』(Prasannapadā、PsP)は、MMK諸注釈書のなかで現在唯一完本の形でサンスクリット原典の参照が可能なテキストであり、MMKの詳細な議論を明らかにするために不可欠である。本研究は、分別(vikalpa)、戯論(prapañca)、法性(dharmatā)、真実の特徴(tattvasya lakṣaṇa)などが説かれる、PsPのなかでも最重要章の一つと目される第18章「我(アートマン)の考察」の研究である。

 

本論文はII部構成をとる。

 

第I部は本論であり、第1章序論、第2章『プラサンナパダー』第18章の文献学的研究、第3章『プラサンナパダー』第18章の思想研究、第4章結論からなる。

 

第I部第1章においては、PsP校訂本の問題点や先行研究、および関連文献の近年の研究状況について、最新の研究を中心に概観した。

 

第2章においては、第II部の校訂テキスト作成過程で明らかとなった文献学的問題について考察を加えた。

第1節では、議論の背景となるMMK、およびPsPチベット語訳の翻訳経緯について先行研究を概観した。

第2節では、MMK、およびMMK諸注釈における第18章の章題について考察を加えた。第18章の章題は、PsPサンスクリットテキスト(Skt)およびチベット語訳(Tib)において「我の考察」、一方、『無畏論』、『仏護注』(BP)、Prajñāpradīpa(PP)、Prajñāpradīpaṭīkā(PPṬ)において「我と法の考察」と異なる章題が見られることが知られている。本研究では、PPにおいて「我と法の考察」という章題が第18章末にだけ見られ、また、PPの本文において「我の考察」と第18章のことを指す用例があることを確認し、「我と法の考察」という章題はPPṬの影響である可能性を指摘した。

第3節では、PsP第18章に引用されるMMK、『八千頌般若経』(Aṣṭasāhasrikāprajñāpāramitā、Aṣṭa)、『四百論』(Catuḥśataka、CŚ)とそれらのオリジナルとの異同について考察を加えた。

3.1では、近年新たに同定された新出『中論頌』のサンスクリット写本(MMK Ms.)とPsP第18章に引用されるMMKとを比較すると、第2偈と第8偈において異なるテキストが見られる点について再考した。第2偈における「我所」のテキストが、MMK Ms.では“ātmanīya”と、一方、PsPに引用されるMMKでは“ātmanīna”と異なることは先行研究によって指摘されているが、問題点を整理し、これまでに用いられていない資料にもとづいて考察を深めた。従来“ātmanīya”の用例としてPsPに引用されるMMK第24章第15偈が知られていたが、サンスクリット写本を精査したところ、当該偈は“ātmanīya”ではなく、“ātmanīna”の用例が見られる偈頌であることを指摘した。そして、“ātmanīna”を注釈するPsPのテキストとして、これまでは、“ātmani hitam ātmanīnam”が知られていたが、用例を検証し、“ātmane hitam ātmanīnam”と修正することを提案した。また、第8偈における「〔諸〕仏の教え」のテキストが、MMK Ms.では“etat tad buddhaśāsanam”と、一方、PsPに引用されるMMKでは“etad buddhānuśāsanam”と異なる点について再考したところ、先行研究の解釈が支持されることが明らかとなった。

3.2では、PsP第18章に引用されるAṣṭaについて、PsP Skt、PsP Tib、Aṣṭa Skt、Aṣṭa ロンドン写本(Aṣṭa (L))、Aṣṭa デルゲ版(Aṣṭa (D))を比較考察し、PsP Tibに引用されるAṣṭaは、PsP Sktの翻訳ではなく、すでに完成しているAṣṭaの翻訳が挿入されている可能性を指摘した。そして、その挿入されているAṣṭaは、Aṣṭa (L) とよく一致することが確認された。これによって、先行研究で指摘されているPsPに引用されるAṣṭaの系統分類が支持されることが明らかとなった。また、PsP Sktは、Aṣṭaを「中略」しながら引用するが、「中略」の後に、場面の状況を説明する一文を挟んで引用を再開する、というテキスト編纂の一特徴が明らかとなった。

3.3では、PsP第18章に引用されるCŚについて、PsP Skt、PsP Tib、BP、PP、PPṬ、CŚ、『四百論釈』(Catuḥśatakaṭīkā、CŚṬ)Skt、CŚṬ Tibを比較考察したところ、チベット語訳に関しては、(1)BP、PP、PPṬ、(2)PsP Tib、CŚ、CŚṬ Tibの系統に大別され、また、PsP Skt、CŚṬ Sktは(1)の系統とよく一致することが確認された。この系統分類によって、PsP Tibに引用されるCŚ、およびCŚṬ Tibに引用されるCŚは、PsP Skt、およびCŚṬ Sktに引用されるCŚの翻訳ではなく、すでに完成しているCŚの翻訳が挿入されている可能性を指摘した。また、(1)の系統であるBP、PP、PPṬはルイゲンツェンによる翻訳であり、(2)の系統であるPsP Tib、CŚ、CŚṬ Tibはニマタクによる翻訳であるが、それぞれMMKの「旧訳」と「新訳」の翻訳者に対応する。これによって、CŚにはMMKと同じように、旧訳が存在していた可能性を指摘した。

 

第3章においては、PsP第18章を第1~5偈までの前半部と第6~12偈までの後半部に分け、それぞれを「真実への悟入」と「教説」という観点から【議論1】【議論2】として関連文献とともに考察した。また、PsP第18章におけるバーヴィヴェーカ批判については、【議論3】として論じた。

【議論1】の「真実への悟入」は、端的に第5偈で説かれる。

 

業と煩悩が尽きることから解脱がある。業と煩悩は分別(分析的思考)にもとづく。それら(分別)は、戯論(概念化)にもとづく。一方、戯論は空性において滅する。(MMK第18章第5偈)

 

PsP第18章の文脈を同じくチャンドラキールティ作の『入中論釈』(Madhyamakāvatārabhāṣya)とともに精査したところ、外教徒によって構想された我は、真実としても世間的にも存在せず、また、そのような我に属するものとしての我所も存在せず、それらの我や我所は、非実在的な概念にすぎないものであり、戯論に相当するということが明らかとなった。また、『入中論釈』では、有身見は「<私は>と思うこと」(我執)と「<私のもの>と思うこと」(我所執)からなると説かれ、また、PsPでは我執・我所執なる分別(kalpanā)と説かれていることが確認された。したがって、分別は、我・我所という戯論を対象とする我執・我所執、すなわち有身見に相当するということが明らかとなった。この点を考慮にいれて第5偈を再解釈すると、空性において(空性を見る場合に)〔我・我所なる〕戯論は滅し、戯論が滅することから、〔我執・我所執という〕分別(=有身見)が起こらず、分別が起こらないことから業と煩悩が滅し解脱する、これが真実への悟入であるということが明らかとなった。

【議論2】では、「教説」という観点からPsP第18章後半部の文脈を精査したところ、教説は本来言葉や認識を越えている真実や法性に悟入させるために説かれる、ということが確認された。また、PsP第24章に説かれる二諦について従来あまり指摘されていないテキストの問題を含めて再考したところ、智慧の乏しい者には勝義の教説に相当する自性空だけが説かれればよいというのではなく、その前段階として、世間的な教説に相当する「世間的な勝義」が必要であることが明らかとなった。このような教説の次第という視点をもってPsP第18章の文脈を再考したところ、最終的に到達されるべき「いかなる我もなく無我もない」(MMK第18章第6偈cd句)、あるいは「〔すべては〕正しいのでもなく正しくないのでもない」(同8偈c句)だけが説かれればよいのではなく、教化対象に応じて「我」や「無我」という伝統的教説が(第6偈)、あるいは〔すべては〕「正しい」・「正しくない」・「正しいかつ正しくない」という次第(第8偈)が必要であることが確認された。また、これらの「我」・「無我」、あるいは「正しい」・「正しくない」は戯論であり、究極的には越えられるべきものである。一方、上述の教説の次第は主体の知の相違とも関連するが、真実に関しても言葉や認識を越えている「聖者にとっての真実」と「世間的な真実」とが分けて説かれている。「あるもの(A)に依ってあるもの(B)が生じる」(第10偈ab句)で示される世間的な真実であるが、同じそれは、聖者の知に関連して「不一・不異、不常・不断」と説かれるのである。世人と聖者の知の相違という視点は、これまで『入中論釈』における二諦の文脈で説かれることは知られていたが、本研究により教説や真実についても適応されるべきであることが明らかとなった。

【議論3】においては、PsP第18章に見られるバーヴィヴェーカ批判を再考した。当該の議論は、チャンドラキールティがPPを引用してバーヴィヴェーカの「声聞は空性を了解しない」という解釈を批判する箇所として知られているが、テキストを精査したところ、PsPに引用されるPPとPPオリジナルとの間にはテキストに違いが見られ、さらに、当該のPsP SktとPsP Tibにおいても違いが見られることが明らかとなった。

 

第4章結論では、第2章、第3章で明らかになった点をまとめ、最後にPsP第18章全体の構成および主題を考察した。【議論1】で見たように、PsP第18章前半部では、煩悩の根元としての戯論とその戯論が滅する次第が説かれており、また、【議論2】で見たように、後半部では、教説は戯論を離れた真実への悟入のために説かれていることが確認された。これによって、PsP第18章「我の考察」は、戯論を主題とすることが明らかとなった。

 

第II部は、『プラサンナパダー』第18章の校訂テキストおよび訳注研究である。第1章は、今日参照可能な17本あまりの写本のうち、先行研究で重要視されている6写本を用いた『プラサンナパダー』第18章サンスクリット校訂テキストである。第2章は、チベット語訳の五大版本(デルゲ、チョネ、北京、ナルタン、金写)を用いた『プラサンナパダー』第18章チベット語訳校訂テキストである。第3章は『プラサンナパダー』第18章訳注研究である。