本論文は、中国南部(広東省、広西壮族自治区、湖南省)に分布する漢語である「粤語」及び「桂南平話」について、共通祖語を再建すると共に、粤語・桂南平話内部の系統関係を推定することを目的とする。第一章では、漢語系諸語で比較研究を行う意義や目的と、比較言語学的分析を実践する際の課題につき、第二章では漢語系諸語の系統に関する先行研究につき、略述した。第三章では、漢語系諸語の系統論に分岐学を導入する意義や、分岐学的分析を行う方法、その導入にあたって生ずる理論的問題について論じた。第四章では、粤祖語を再建し、粤祖語の娘言語同士の系統関係を推定した。第五章では、得られた粤祖語が漢語系諸語全体の中で如何なる位置づけが可能なのかを、分岐学的視点から考察した。第六章では全体の議論を総括した。

言語的に多様な地域である華南を代表する言語である「粤語」や「平話」は、研究が活発に行われてきたが、その歴史について今なお未解明の部分が多い。漢語系諸語の通時的研究に於いては、隋唐代の音韻資料から復元される「中古音」が、多くの漢語系諸語の遡り得る体系として参照されるのが一般的であるが、中古音を唯一の参照点としてしまうと、現代の漢語系諸語同士の親疎関係を解明するのが困難になる。また、比較言語学的分析を通じて各地域の現代語の共通祖語をそれぞれ再建し、中古音と現代語との間に新たな参照点を創出しようとした場合、漢語系諸語は中国大陸内部で話者の度重なる人口移動が発生するなどの原因で相互に影響を及ぼし合っているため、通常の比較研究を漢語系諸語に適用しにくい。異なる系統に属する言語同士が互いに類似した特徴を並行的に獲得している可能性が高いため、共通祖語を再建するための娘言語の選択においてすら妥当性を担保する事が難しい。そこで本論文は、系統推定を困難にしている異系統間の相互影響を排除する方法として、生物分類において発展した分岐学(cladistics)を導入して系統関係を推定する事を提唱した。

ある言語・方言集団について共通祖語の再建を行うには、当該の集団が単一の系統をなす「単系統群」であることが前提となる。しかし、異系統間の類似が疑われる漢語系諸語内に単系統群を正確に見つけだす事は難しい。本論文の分析対象とする粤語や桂南平話は、方言分類上ではそれぞれ分類群としての単位を与えられているが、系統と分類は互いに異なる原理に基づいた別個の概念であり、既存の方言分類が粤語・桂南平話の共通祖語を再建する妥当性を保証しない。相互に類似した言語集団から単系統群を発見する方法は、分岐学に求める事が出来る。分岐学は、最節約性(maximum parsimony)に基づいて、想定しなければならない改新の数が最少で済む系統樹を発見する。本論文は、分岐学の要求する膨大な量の離散数学的計算を、計算機によって粤語・桂南平話に対して行う事によって、粤語・桂南平話内部の系統の推定を試みた。

分岐学が直接の分析対象とするのは、形質行列(character matrix)という行列の形に数値化されたデータである。粤語・桂南平話の系統推定を行うには、粤語・桂南平話の通時的変化を形質(character)として数値化する必要がある。分岐学的分析を言語学に導入して通時的変化を数値化するには、いくつか解決せねばならない問題がある。一つ目は、通時的変化を数値化するのに先立って、当該集団の共通祖語の姿がある程度分かっていなくてはならないという事である。本論文ではこの問題を、粤祖語と中古音との間に想定される対応関係を事前に解明する事で解決している。二つ目は、分岐学では形質の状態が変化する順序は無視されるが、言語学に於いては体系の要素が変化する順序が極めて重要な意味を持つ、という問題である。本論文では、逆転不能の形質を選択した上で、形質間に形質樹(character tree)を用いる方法をとってこの問題の解決を試みた。

粤語・桂南平話内部の系統を推定した結果、祖語からの最初の分岐で五つの単系統群が生じる系統樹が示された。各単系統群に属する方言は、珠江デルタ周辺、広東省北部~西部、広西壮族自治区北東部、広西壮族自治区中央部、広西壮族自治区南西部にそれぞれ分布している。本研究の示す系統樹によれば、粤語・桂南平話として呼称されてきた集団の中には、系統的に他と隔たった方言は目下確認されない。また、珠江デルタ周辺の粤語と系統を同じくすると考えられる諸方言が、南シナ海沿岸地域にも分布している事から、粤語の一部方言は閩南語と同様に、海伝いに分布域を拡大していったという言語史が推定される。他にも、四邑片という特殊に見える方言が、五つの単系統群のうちの一つに内包されてしまっている事から、四邑片が系統の上では必ずしも独自の位置を占めている訳ではない可能性が示された。さらに、粤語・桂南平話という広域にわたる諸方言全体を対象とした系統推定が、分岐年代の浅い方言同士の関係を必ずしも上手く推定出来るとは限らない事もまた、系統推定の実践の中で確認された。

分岐学的に推定された系統樹は、単に粤語・桂南平話の各方言の系統関係を示すにとどまらず、粤語・桂南平話の共通祖語である粤祖語そのものの再建の情報ももたらす。漢語系諸語の方言には、単一の起源に遡るにもかかわらず互いに異なる形式を取っている二重語(doublet)が存在するため、漢語系諸語の研究では、各方言は複数の時代の要素を受容して成立していると考え、各時代の要素の集合を「言語層」と呼んでいる。しかし粤語・桂南平話に見られる言語層の違いを、粤祖語に認めるのが妥当か否かは、通常の比較言語学的分析のみでは判断し難い。そこで本論文では、この判断を行うにあたって直接的根拠として系統樹の樹形を利用する。即ち、もし言語層の違いで説明される語の対・組が限定的な系統にしか観察されないならば、粤祖語に当該の対・組が存在していた蓋然性は低く、一方こうした語の対・組が複数の系統に観察されるならば、粤祖語に当該の対・組が存在していた蓋然性は高く判断される。このような樹形に基づく判断の結果、粤祖語には、中古音との対応関係からは本来存在が想定されない主母音*-ɛ-の存在が推定されている。

本研究は、分岐学にて行われている祖先段階の形質状態の復元アルゴリズムを、系統の推定にとどまらず、調値(声調の具体的形式)に適用する方法を開発した。アルゴリズムに則って中央値(median)や最頻値(mode)を計算し、粤祖語の各声調がとっていた蓋然性が最も高い調値を推定した。

粤祖語の音韻体系は現代の粤語・桂南平話とは大きく異なり、現代の漢語系諸語の分類基準では粤語・桂南平話とは分類し難いため、粤語的とされる言語特徴は、粤祖語よりも後の時代に並行的に獲得されたものと考えられる。本論文は粤祖語の系統に関する問題として、①粤祖語が破擦音・摩擦音の二系列化や舌尖母音の獲得、中古音の複数の韻母(rhyme)の合流(魚韻・虞韻)など、唐代後期よりも新しい時代の特徴を既に有していたと考えられる事、その一方②粤祖語より古い系統の漢語に由来すると思しき成分が、粤祖語の中に混入している可能性がある事の二つを示した。この二点から、①華南に漢語が伝播したのは一回限りではなく、現在の粤語・桂南平話につながる系統が生じたのは、二回目以降の伝播によってであると考えられること、②粤語・桂南平話の系統は、唐代後期よりも新しい時代に於いて北方の漢語系諸語から分岐した言語が、華南に伝播して事によって生じたことが導かれる。さらに、③現在の粤語・桂南平話の系統に連なる漢語が華南に伝播する以前から、華南の非漢語話者が自立的に漢語を使用していた可能性を指摘した。

本研究は分岐学的分析の導入によって粤語・桂南平話の系統樹を描く事を可能とした。そして、系統樹を推定する方法が得られた事で、方言間の親疎関係を論じることを可能にしただけでなく、共通祖語に於ける言語層の問題について比較言語学的に考察する方法を生み出し、客観的議論の対象とし難い調値についての反証可能な再建の議論を可能とした。系統樹によって漢語系諸語の通時的研究を行うtopology-based dialectologyが実践可能である事が、本論文に於いて確認された。