視覚系において運動は格別に顕著な刺激属性であり,観察者の注意をひきつける.この顕著性は様々な視覚現象に運動刺激の優位性をもたらす.両眼視野闘争では運動刺激が静止刺激に対して優位に知覚され(Blake, Zimba, & Williams, 1985; Breese, 1899),視覚探索では静止刺激中の運動ターゲットは運動刺激中の静止ターゲットより速く,かつ容易に検出される(運動/静止ターゲットの検出非対称性,Dick, Ullman, & Sagi, 1987; Royden, Wolfe, & Klempen, 2001; Verghese & Pelli, 1992).しかし,視覚的な運動は網膜(網膜座標系)のみならず,他の視覚パタン(相対座標系)や観察者(実空間座標系)に相対するものとして定義することができる.過去の心理物理学的,神経生理学的研究により,視覚系は網膜上の輝度分布では説明できない高次の運動・位置表現をもつことが示唆されている.本研究では,運動刺激と同じ方向に,かつ同じ速度で,注視点及び刺激の背後の参照枠(または空間窓)のうち片方あるいは両方を同時に移動させ,さらに観察者が注視点に視線を合わせる(動く場合は追視する)ことにより,刺激が運動する座標系を切り分け,座標系ごとの運動の効果を調べることを可能とした.本研究の目的は,視覚運動情報のもつ顕著性に網膜,相対,実空間という三つの座標系における運動がどのように貢献しているのかを検討することであった.
第2章では,矩形波縞刺激を用いた両眼視野闘争において,異なる組み合わせの座標系で運動する刺激間の優位性が拮抗するコントラスト比を求めた.この結果,運動刺激の知覚的優位性は網膜座標系だけでは決定されず,参照枠に対する相対座標系や観察者に対する実空間座標系にも依存していることが明らかになった.この定性的な結果は,座標系ごとの重み付けによる運動の効果の加算モデルに基づき推定された,視野闘争の優位性に対する各座標運動の定量的な貢献度の関係とも一致した.さらに,刺激コントラストが上がるにつれて,相対運動の貢献は大きくなるが,網膜運動の貢献は小さくなった.一方,実空間運動はほとんど一定の貢献を示した.これらの貢献は,二重課題による注意の全般的な低減下でも認められ,眼球運動分析の結果より固視または追視中に意図せず生じていた微小眼球運動が影響したとも考えにくい.
第3章では,ガボール刺激を用いた視覚探索において,運動ターゲット検出の反応時間が,ターゲットとディストラクタの運動の座標系とセットサイズにより,どのように変化するかを測定した.この結果,運動/静止ターゲット検出の非対称性は,網膜上の運動だけでは決定づけられず,刺激窓に対する相対運動に強く依存していた.比例モデルに基づき,各座標系における運動の貢献度を推定したところ,相対運動の貢献が特に大きいこと,また実空間運動の貢献は網膜運動より大きく一定の貢献を果たしていることが明らかになった.第2章の視野闘争実験の結果より推定された貢献度との差分が,視野闘争と視覚探索という二つの視覚現象のメカニズムの違いに由来しているのか,それとも実験刺激の違いに由来しているのかを検討するため,刺激をガボールパタンに置き替えて視覚探索実験の刺激と揃えた上で,視野闘争実験を再度行った.実験の結果,視野闘争の優位性は第2章の視野闘争実験の結果と類似の傾向を示した.各座標系における運動,特に相対運動の貢献は,視覚現象を支えているメカニズムに依存して変化する可能性が高い.情報処理の水準(階層性)という観点からみると,視野闘争には両眼から入力された神経表現の競合と選択の過程が含まれており,視覚探索と比べるとより低次の処理過程が深く関与していると考えられる.第2章及び第3章の結果を考え合わせると,少なくとも本研究で用いた実験刺激において,視野闘争と視覚探索という視覚現象の違いに関わらず,網膜座標系だけではなく,相対座標系や実空間座標系が運動刺激の顕著性に寄与していることが明らかになった.ただし,それらの定量的な貢献度は,コントラストや明瞭性といった刺激の性質,視覚現象の背後にある情報処理メカニズムの処理水準の違いなどの要因に依存して変化するものと思われる.
第4章では,第2章や第3章で見出された相対運動の貢献が,相対運動刺激がもつ物体としての不自然さに基づくものであった可能性に着目した.実世界では物体の輪郭と内部のパタンは,たいてい同じ方向に,かつ同じ速度で移動するという制約条件をもつ(Marr, 1982).物体内部における相対運動はその定義上,こうした物体表現の時空間的一致性と矛盾するものであり,刺激に不自然さや非合理性をもたした可能性がある.この問題について論じるため,ガウス窓と内部の縞パタンが異なる速度で運動/静止し,それらの間に相対運動を含みつつ移動しているガボール刺激がどのように知覚されるかを観察した.この結果,物体全体に対する縞パタンの相対運動が,実空間座標上における縞と窓の間の運動方向の矛盾と一致するとき,刺激全体が点滅しつつとびとびに移動するように知覚されること(錯覚的跳躍)が明らかになった.この錯覚的跳躍には,縞の運動信号が輝度で明瞭に与えられる一方で,窓の運動がぼけたコントラスト変調などにより曖昧に定義されることが必要であった.これらの結果は,視覚系が,物体内部のパタン運動と物体全体の移動の間で蓄積される高次の運動・位置信号の乖離を,ほぼ一定の間隔で解消するメカニズムをもつことを示唆している.このことは,座標変換後の高次の運動信号間における相互作用により,空間的,時間的な物体認識が支えられていると解釈することもできるだろう.第2章や第3章で見出された相対運動の貢献も,その程度は刺激の性質や視覚現象のメカニズムに依存して変化しつつも,本質的には相対運動刺激がもつ物体としての不自然さに基づき生じていた可能性がある.
本研究の結果は,視覚刺激のもつ顕著性が網膜座標系における運動信号だけでは決定づけられないこと,さらに相対座標系や実空間座標系に変換後の高次の運動信号に強く依存していることを示している.意識的知覚の生成,ターゲット検出,物体認識という視覚系の異なる働きに,非網膜的な座標系が貢献を果たしていることが明らかになった.これらの貢献の程度,特に網膜運動や相対運動のそれは,刺激のもつ性質や視覚現象を支えている情報処理の水準の差異に依存して変化するものと考えられる.相対運動の貢献の生成メカニズムに言及すると,視覚系は物体表現の時空間的一致という制約条件をもち,この制約との矛盾が相対運動刺激に不自然さをもたらし,物体の顕著性に結びついている可能性がある.一方,本研究で見出された実空間運動の貢献は,刺激や視覚現象の違いに関わらず比較的安定したものであった.このことは,より広い観点でみると,基本的な視覚体験や物体の空間的・時間的認識において,網膜入力によらないクロスモーダルな感覚運動情報が一定の役割をもつことを例証している.