本論文の目的は,社会集団内で行為者が持つ影響力が普及(diffusion)の発生に果たす役割を分析することである.行為者の影響力と普及の発生との関係を分析する理由は,既存の理論枠組みでは,社会集団内で大きな影響力を持つ少数の行為者が,普及の発生に重要な役割を果たすとされているからである.本論文では,既存の理論枠組みを批判的に検討し,行為者の影響力と普及の発生との関係を理論的・経験的に検討する.

第1章では,既存の理論枠組みを紹介し,既存の理論枠組みに問題を提起する理由を述べた.社会集団内で大きな影響力を持つ少数の行為者が,普及の発生に重要な役割を果たすという既存の理論枠組みは,インフルエンシャル仮説(influentials hypothesis)と呼ばれる.インフルエンシャル仮説によると,インフルエンシャルはその定義上,多くの人々に影響を与えることができるので,あるイノベーションをインフルエンシャルが採用(adopt)すると,多くの人々もそのイノベーションを採用するようになり,普及は成功する.しかし,インフルエンシャル仮説は,インフルエンシャルの影響力が普及の成否を左右するメカニズムを明確に示しておらず,またインフルエンシャルの存在を仮定しなくても,集団内で同調が起きるメカニズムを説明することができるので,問題がある.

第2章では,インフルエンシャル仮説の視点から既存の学説を再検討し,インフルエンシャル仮説の具体的な内容,位置付け,問題点を明らかにした.再検討を行った結果は次の通りである.第一に,インフルエンシャル仮説とは,特別な影響力を持つ少数のインフルエンシャルが,普及の初期段階において,自分と同じ集団に属するノン・インフルエンシャルとの個人的接触を通じて,社会の大多数に並外れの影響力を行使し,普及の成否を左右することができるという仮説である.第二に,インフルエンシャル仮説は,普及研究の中心的な理論枠組みとして位置付けられている.第三に,インフルエンシャル仮説は,インフルエンシャルという特別な行為者の属性から普及を説明するという構造になっているため,循環論法に陥っている.

第3章では,インフルエンシャル仮説を理論的に検討するために,理論モデルを構築してシミュレーション分析を行った.本論文が構築した理論モデルは,影響ネットワークモデルに所属ネットワーク構造を導入した,所属・影響ネットワーク(affiliation influence network)モデルである.シミュレーション分析では,所属・影響ネットワークの閾値モデル(threshold model)とSIRモデル,スケールフリー所属・影響ネットワークの閾値モデルとSIRモデルの4つの修正モデルを用いた.分析の結果,第一に,行動決定モデルとしてSIRモデルを用いた場合,カスケード(cascade)の発生は一般的になり,行動決定モデルとして閾値モデルを用いた場合,カスケードの発生が稀になったので,現実社会の特徴をとらえている行動決定モデルは閾値モデルであると言える.第二に,全ての所属・影響ネットワークモデルにおいて,カスケードサイズはカスケードを引き起こした行為者の影響力とは関係がなく,一旦カスケードが発生すれば,それがインフルエンシャルから始まったものであれ,ノン・インフルエンシャルから始まったものであれ,同じサイズまで到達した.第三に,全ての所属・影響ネットワークモデルにおいて,カスケードウィンドウにおけるインフルエンシャルの相対的乗数効果(relative multiplier effect)は1を超えず,インフルエンシャルの間接的影響力はインフルエンシャルの直接的影響力の大きさに比べて,特別なものではないことが分かった.以上の分析結果から,所属・影響ネットワークモデルを用いたシミュレーション分析結果は,インフルエンシャル仮説を支持しない.

第4章では,本論文がインフルエンシャル仮説の経験的検討を行うために置いている,北海道の宿泊業界におけるウェブサイトの普及が北海道の宿泊業界の所属ネットワークを通じて行われたという仮定の妥当性を検討した.そのために,北海道の宿泊業界におけるウェブサイトの普及データを,バスモデル(Bass model)を利用して分析し,その特徴を明らかにした.バスモデルによる分析結果は,スイスとマレーシアの宿泊業界におけるウェブサイトの普及を分析した先行研究の結果と比較し,考察を行った.分析の結果,北海道の宿泊業界における模倣係数(coefficient of imitation)は,スイスやマレーシアに比べて非常に高いことが分かった.模倣係数は,採用者による未採用者への採用圧力を意味するので,北海道の宿泊業界におけるウェブサイト導入の圧力は,スイスやマレーシアよりも非常に高いと言える.ウェブサイト導入への圧力が働く社会的条件として,本章では,国家単位のインターネット普及率と,社会ネットワークの影響を考察した.国家単位のインターネット普及率の場合,スイスの方が日本よりも急速かつ高い水準で進んできたので,国家単位のインターネット普及率は,北海道の宿泊業界における高い模倣係数を説明する要因としては不十分であると言える.したがって,北海道の宿泊業界における高い模倣係数は,北海道の宿泊業界の社会ネットワークが,スイスやマレーシアの宿泊業界の社会ネットワークに比べて,緊密に働いた結果として解釈できる.

第5章では,インフルエンシャル仮説を経験的に検討するために,北海道の宿泊業界の所属ネットワークにおけるウェブサイトの普及過程を分析した.北海道の宿泊業界の所属ネットワークは,北海道の宿泊業関連団体と地域団体の所属情報を利用して構築した.分析の結果,第一に,北海道の宿泊業界の所属ネットワークの次数分布はベキ分布であり,その様子は本論文が構築したスケールフリー所属・影響ネットワークモデルによって再現することができた.第二に,アーリーアダプターの平均次数を分析した結果,インフルエンシャルはアーリーアダプターとして役割を果たしていないことが分かった.第三に,北海道の宿泊業界の所属ネットワークにおけるパラメーターを,スケールフリー所属・影響ネットワークモデルに適用し,シミュレーション分析を行った結果,インフルエンシャルはアーリーアダプターとしての役割を果たしていないこと,インフルエンシャルから始まるカスケードのサイズと,ノン・インフルエンシャルから始まるカスケードのサイズに違いはないこと,インフルエンシャルがグローバルカスケードに及ぼす影響力は,インフルエンシャルがローカルカスケードに及ぼす影響力より小さいことが分かった.以上の結果から,普及の発生におけるインフルエンシャルの役割は経験的に確認できず,インフルエンシャル仮説は経験的に支持されない.

第6章では,インフルエンシャル仮説の理論的・経験的検討を通じて得られた知見を整理し,その含意を考察した.本論文の中心的な発見を,学説の考察結果,理論モデルのシミュレーション分析結果,経験データの分析結果に分けて整理すると次の通りである.まず,学説の考察を行った結果,第一に,インフルエンシャル仮説は,普及研究が誕生した時から,普及研究の中心的な理論枠組みとして位置付けられていた.第二に,インフルエンシャル仮説は,インフルエンシャルという代表的個人(representative agent)を仮定して普及を説明しているので,行為者間の相互作用を無視し,普及の原因をインフルエンシャルという個人の属性に単純に還元してしまう誤謬に陥っている.つまり,インフルエンシャル仮説は,インフルエンシャルの属性がいかに特別かを論じて,インフルエンシャルの影響力と普及の発生との因果関係を説明するという循環論法に陥っている.次に,理論モデルのシミュレーション分析を行った結果,第一に,インフルエンシャルが集団全体に及ぼす影響力は,インフルエンシャルが隣人に対して持つ影響力よりも小さいことが分かった.第二に,インフルエンシャルはアーリーアダプターとして重要な役割を果たさないことが分かった.つまり,インフルエンシャル仮説が想定している状況は,例外的な条件を除いて,理論モデルを用いて再現することができない.最後に,経験データの分析を行った結果,第一に,北海道の宿泊業界における模倣係数は,スイスやマレーシアに比べて非常に高く,北海道の宿泊業界の社会ネットワークは,スイスやマレーシアに比べて,より緊密であることが示唆された.第二に,北海道の宿泊業界の社会ネットワークにおけるウェブサイトの普及は,所属団体が少ない宿泊施設から始まって,所属団体が多い宿泊施設を通じて団体から団体へと広まっていたが,その過程でインフルエンシャルがアーリーアダプターとしての役割を果たすことはなかった.第三に,本論文が構築したスケールフリー所属・影響ネットワークの閾値モデルは,北海道の宿泊業界の社会ネットワークにおけるウェブサイトの普及の特徴を適切に捉えている.以上,インフルエンシャル仮説が想定している状況は,経験データから確認することができない.

このように,本論文では,インフルエンシャル仮説の理論的・経験的検討を行い,インフルエンシャル仮説が理論的にも経験的にも支持されないことを論じた.本論文の意義は次の通りである.第一に,影響ネットワークモデルを経験データにも適用できるように拡張させた.第二に,インフルエンシャル仮説に関する理論モデルの分析結果から得た知見を,経験的水準でも確かめた初めての研究である.第三に,所属ネットワークを通じて発生する普及を説明する新しい理論モデルとして,スケールフリー所属・影響ネットワークの閾値モデルを提案した.