本論文では、19世紀中葉以降に発生した火器および関連技術の大幅な進展とその地域間移転の発生を火器史における「近代」と定義づけ、それが特定地域に与えた影響を明らかにすることを目的とした。具体的には、「長期の19世紀」におけるイランへの武器移転をおもにイギリスとの関係に重点を置いて分析し、あわせてそのイランの歴史的展開への影響を考察した。その際、武器移転を移転元・移転先のそれぞれの政治権力の主導ないし公認のもとに行われる「公式」のものと、政治権力の関知しない「非公式」のものに分類・検討した。また、武器移転の影響の考察に際しては、ガージャール朝の軍事力をなす二大要素、すなわち西欧式軍隊である正規軍と地方勢力より動員される不正規軍が、武器移転の結果いかに新式火器で武装化されたのかという観点を重視した。
第1部では、第1章において研究の前提となる諸事項に関して解説したのち、19世紀初頭から1838年の時期におけるイギリス政府からガージャール朝(1796–1925)への武器および関連技術の供与を、第2章では小銃分野、第3章では大砲分野についてそれぞれ検討した。この時期、イギリス政府は英領インド防衛政策のための「緩衝国家政策」に基づき、自らの影響下にイランの政治・軍事的独立性を保全する必要に迫られていたため、ガージャール朝との条約によってイギリス以外の国家からの軍事援助の可能性を事実上排除したうえで、同王朝の西欧式正規軍創設の試みに包括的な協力を与えた。このうち、小銃分野では現物の供与を中心として若干の製造技術の移転が発生し、大砲分野では主として製造体制の確立のための技術的援助が行われた。また、1830年代半ばにはイラン西北部アゼルバイジャン州においてイギリス人主導の鉱物資源開発も試みられたが、第4章ではこの事業の展開と挫折の問題を考察した。このイギリス政府による各種援助は、ガージャール朝のアフガニスタン領ヘラート侵攻による1838年の両政府間の関係断絶まで続く。
なお、ガージャール朝の軍事制度の面からいえば、この時期は王朝創建当初の部族依存型の軍事組織という性格をある程度脱し、西欧式の歩兵・砲兵隊を基幹とする比較的大規模な王朝軍の創設をみた時期であるといえる。すなわち、王朝権力自体が西欧式の軍制改革によって自らを武装化した時期であり、イギリスの軍事援助はその企てを実現させる手立てを与えたということが出来よう。一方、ガージャール朝の一方の軍事力たる不正規軍、そしてその動員主体となり、武器の自弁という形でその武装に責任を持った部族・地方勢力には、外来の火器および関連技術の影響はいまだ限定的であった。換言すれば、この時期のイランへの武器移転は「公式」のものが中心であり、「非公式」武器移転は未だ注目すべき重要性を有していなかったといえる。
1838年を境にイギリスの対ガージャール朝政策は転換し、ガージャール朝政府は火器および関連技術の有力な供給元を喪失することになった。その直後、1840年代から1850年代初頭の時期には、ガージャール朝政府はイギリス商人を仲介として火器、とりわけ小銃の調達を行なったが、この問題に関しては第5章で扱った。
第2部では、まず第6章で19世紀後半以降のイランへの「公式」の武器移転の事例を扱った。1850年代以降、ガージャール朝政府と西ヨーロッパ地域の諸国家との外交関係樹立とともに、ガージャール朝政府の武器調達、すなわちイランへの「公式」の武器移転は専ら外交ルートを通じて行なわれるようになる。この傾向は、とりわけ1873年から3度にわたって行われたナーセロッディーン・シャーの訪欧によって本格化した。火器の現物供給では、フランス、ドイツ、オーストリア、ロシア等が主な供給元として挙げられる。このうちとりわけオーストリアは、シャーの第2回訪欧(1878)を契機とした軍事使節団派遣と時を同じくして小銃・大砲などを供給し、それらは19世紀末までにガージャール軍の標準的武装となる。このようなガージャール朝政府への火器供給元の多様化は、イギリス政府自体の外交政策の変化も相まって、イランへの「公式」武器移転におけるイギリスの重要性を相対的に低下させることになったが、イギリス政府はその後もガージャール朝政府の火器調達の仲介や輸送手段の(イギリス海運業を通じた間接的な)提供を行なうばかりでなく、武器製造会社とガージャール朝政府を結びつける「場」を準備するという形でイランへの武器移転に関与することになった。
一方、ガージャール朝政府は火器の現物調達と並行して火器の現地製造を試みたが、この問題は火器運用の問題と合わせて第7章で考察した。19世紀後半にこのガージャール朝の試みに援助を与えたのは主にフランス政府であり、とりわけ1860年代の一連の改革によって小銃分野では前装式施条銃、大砲分野では青銅製前装砲の製造が達成された。一方、1870年代以降西ヨーロッパ・北米における火器技術は一層の進展を見せるが、ガージャール朝政府の対応は基本的に1860年代の技術レベルでのものに終始し、それ以上の技術的進歩、たとえば小銃分野における後装式施条銃の大量生産、大砲分野における後装砲の製造には成功しなかった。また、火器製造部門における運営の非効率性や資金調達の不備などの事例も観察されている。他方、火器の運用面ではガージャール朝軍による外来のものを含めた火器の運用は一定の成果を挙げ、また火器製造体制の確立とともに武器行政も整備されたが、弾薬供給の不備や外来小銃配備における「出し惜しみ」など、問題点も少なからず存在した。そしてその背景には、軍事行政そのものの問題点や購入資金調達の問題にみられるガージャール朝政府の財政的苦境等、より根本的な諸問題との関連がうかがわれる。したがって、ガージャール朝は「公式」の武器移転を自らの武装化に利用することに完全には成功しなかったといえる。
第3部では19世紀第4四半期に活発化するイランへの「非公式」武器移転と、その結果としてのイラン社会の武装化の問題について考察を行った。まず第8章では、「非公式」武器移転の端緒となった露土戦争(1877–78)を契機とする小銃拡散と西北イランの武装化の問題を扱った。この小銃拡散は、1880年のクルド系諸部族の反乱の発生にみられるように地域情勢の緊張化を助長したが、一方でガージャール朝政府はその結果として武装化した地方勢力の軍事力を不正規軍の動員という形で利用し、その重要性はガージャール朝正規軍たる西欧式軍隊の弱体化という状況も相まって上昇してゆく。このことは、不正規兵への供給を目的とするガージャール朝政府の弾薬筒調達、すなわち「非公式」移転に惹起された「公式」移転の事例に象徴的にみられる。しかしながら、これら地方勢力はガージャール朝政府にとって、状況次第では容易に地域の治安や王朝権力そのものへの脅威に転化しうる存在であった。
第9章では、ペルシア湾武器交易とその規制への試みを検討した。ペルシア湾の武器取引は1890年代中葉に急激に活発化した。その背景としては、供給元であるイギリス小銃製造業の国際市場におけるシェア縮小と最後の市場たるペルシア湾への注目を指摘できる。この事態に対してガージャール朝・イギリス両政府はブーサイード朝など沿岸の諸政治権力とも協力して国際的規制体制の整備を試みた。この企ては一時的成功を収めたものの、武器交易は不可視化した状態で20世紀に入ってからも継続し、結果として南部イランの武装化と治安悪化を招いた。この規制の失敗は、ガージャール朝内部での関税徴収をめぐる利害関係や武器流通の拠点となったマスカトの存在、フランスの規制への非協力的態度などによりもたらされたと考えられる。
最後に第10章では、イランの武装化の具体例とその帰結を提示するため、イラン立憲革命において重要な役割を果たしたイラン中央部の部族バフティヤーリーの武装化、およびイラン立憲革命(1906–1911)における武器移転と使用の問題を取り上げた。バフティヤーリーは19世紀第4四半期以降の南部イランの全般的武装化という状況下で武装化したが、新式小銃を装備した不正規騎兵からなるその軍事力は、地域内での同部族のプレゼンスを強化するとともに、立憲革命の軍事的展開に重要な役割を果たした。一方、立憲革命については立憲派によるタブリーズ蜂起とテヘラン進軍、および反立憲制反乱の鎮圧と、同時期の南部イランの情勢を検討した。これらの軍事行動はそれまでのイランへの様々な形での武器移転を前提として発生しており、また王朝派、立憲派ともに軍事力の相当程度を地方勢力の動員する不正規軍が占めていた。火器のもたらした影響を革命の発生・展開の原因として過大評価はできないものの、軍事面から見れば立憲革命は19世紀第4四半期から20世紀初頭における武器移転の展開、とりわけ「不正規」移転の拡大とイラン社会の武装化の一つの帰結であったということができよう。
結論ではここまでの論旨を整理したうえで、武器移転の観点から19世紀第4四半期以降のガージャール朝軍制の特色である正規軍の弱体化と不正規軍の重要性増大の問題を考察した。武装の面からいえば、正規軍は政府がその維持に責任を持ったが、武装を自弁する不正規兵にはその必要がなかった。ここには、正規軍創設・維持が十分な財政的基盤を持たない政府の負担となるという、「近代軍創設のジレンマ」ともいうべき問題が浮かび上がる。そしてこの問題は、同時期のガージャール朝の財政状態の悪化も相まって不正規軍事力への一層の依存を招き、結果として地方勢力の相対的な強大化の一つの要因となったと結論付けた。