毘沙門天は、古代インドでは護法神である四天王の一として、のちに中国やわが国においては独尊としても信仰された尊格として知られる。四天王のうちで最も高位の存在として、各時代・地域において天部系尊格のなかでも特殊な信仰と造像が行われた。関係経典は不空訳『毘沙門天王経』など複数が知られており、実際の造像例も多数に及ぶ。

 主な先行研究としては、1929年に源豊宗氏が「兜跋」毘沙門天の図像は西域に由来し、ホータンを経由して成立したという伝播ルートを提示した。1930年に松本榮一氏が敦煌の作例を中心に経軌や作例を整理し、服飾・鎧・剣などの要素から、それを裏付けている。また、1998年には岡田健氏と松浦正昭氏が東寺毘沙門天像を中心とする論考を発表した。岡田氏は、東寺像は空海が請来し羅城門に安置したものであるという従来の通説を否定し、いっぽうで松浦氏は東寺像が最澄によって請来され、羅城門に安置されたと主張した。

 源氏や松本氏らが提唱し、後も支持されてきた伝播モデルは近年中国のチベット美術研究者によって修正が主張され、東寺像をめぐる議論も決着を見ていない。また従来は関係経典の多くが偽経と考えられたことから、毘沙門天信仰そのものが単なる民間信仰に過ぎないとの位置づけが一般的であった。しかし、最近では皇帝などの支配者側にとっても毘沙門天信仰が重要であった可能性が新たに注目されている。たとえば中国で唐時代に毘沙門天信仰が流行したきっかけは玄宗(在位712~756)や憲宗(在位805~820)にあったとする説があり、わが国では毘沙門天信仰が受容された契機は聖武天皇(在位724~749)や称徳天皇(在位749~758、764~770)にあったと考えられる。したがって毘沙門天信仰は王権の側から広まったという見方も成り立つため、毘沙門天像の制作背景と機能を改めて見直す必要が生じている。なおここでいう王権とは、大陸においては統一王朝の皇帝および周辺諸国の王など、7~12世紀の東アジアの各時代・地域において掌握された政治的権力や、わが国では奈良・平安朝における天皇および院・摂関家、比叡山や東寺に代表される顕密仏教勢力など寺社勢力のような王権を補完する存在を含む。本論ではこうした王権と毘沙門天信仰との関係性が課題となっている。

 本論は毘沙門天像の伝播ルートというかたちの問題、及び王権・舎利信仰との関わりにみられる機能の問題に着目し、7世紀から12世紀における毘沙門天像について考察する。西域・中国・韓国・日本の毘沙門天像の図像学的・様式的・思想史的研究を中核としつつ、それらの問題を補強するために、請来品にまつわるかたちの伝播と再生産、受容と変容についての問題もあわせて言及する。インドから西域を経て中原から伝えられた仏教思想・信仰と、それを表象する仏教文物の図像・様式というかたちが、いつ、どのように受け入れられ、各地域で変容したのか、毘沙門天という一つの視点を通して具体的に位置づける。中央から周辺へ仏教文化が拡がるときの発信・受容・変容・発展のメカニズムに注目しながら議論を進めたい。これはインドから西域を経由し、中国・中原を起点として放射状に一つの事象が伝わる空間的な広がりと、7世紀から12世紀にかけての時間的な広がり、という三次元的な構図におけるそれぞれの作品の座標を求める作業ともいえる。

 研究の問題点は以下の五点にまとめられる。第一に、東寺像系の位置づけについて。東寺像はいつ、誰が請来したのか、そして羅城門に安置されていたのか否か、という岡田・松浦氏らの議論は解決していない。また東寺像の模刻として知られる京都・清凉寺像、奈良国立博物館像、鞍馬寺像の制作年代や背景についても議論の余地は大きい。第二に、国内作品の位置づけについて。天台系と考えられる成島毘沙門堂像・善水寺像や、観世音寺像、石山寺像などに関して専論が従来提出されてはいるが、それぞれが独立した議論となっており、見解の一致には至っていない。第三に、「兜跋」毘沙門天図像の源流について。それがホータン周辺にある、との見方が優勢であるが、吐蕃(チベット)にあると主張する研究者も近年増えており、さらに議論が必要である。第四に、中国・韓国・中央アジアの各作品についての位置づけと、わが国の作品との関係性について。上述の問題を解く手がかりは大陸作品の把握と、国内作品との比較にあると考える。第五に、十二世紀以前の毘沙門天信仰における機能について。従来は武神や境界神としての機能が強調されてきたが、舎利信仰や王権との関わりもその根本的な性格の一つといえる。

 以上の問題点を踏まえ、本論はわが国の毘沙門天像に関する第一部と、大陸の毘沙門天像を扱う第二部とで構成されている。第一部で清凉寺像をはじめとする奈良時代から平安時代後期の毘沙門天像の受容史を論じる。第二部では日本に伝わる以前の源流を辿る形で、3~4世紀の毘沙門天図像の誕生から12世紀までの展開、すなわち中央アジアから韓国までの伝播ルートを探る。このように時代・地域が交錯する構成とした理由は、はじめに論じる清凉寺像に、中国の唐・宋時代からわが国の奈良・平安時代の毘沙門天像に関する上述の一・三・四・五等の問題が凝縮されているからである。

 清凉寺像が制作された11世紀前半は、9~10世紀までに摂取した外来文化と、それが「日本化」及び「地方化」した文化、そして同時代に受容した外来文化とが同時に存在し、新たなかたちと意味が再生産された時代であった。清凉寺像の最大の特色は、それが唐から請来された東寺像の正確な模刻であり、その上で北宋の美術を部分的に取り入れた点にある。清凉寺像の造立を企画した盛算は、中国で密教を学び、わが国における空海以来の真言密教の伝統をさらに強固なものとすることを目指した。その結果、唐代密教の不空と明確に結び付けられ、護国的性格が濃い西域風の東寺毘沙門天像を模刻して清凉寺へ安置し、同時に、本尊である「三国伝来」の釈迦如来瑞像と、その中核をなす舎利の守護神としたと考えられる。

 上述した五つの問題点に対し、本論ではどのような結論が得られたのかをまとめると以下のようになる。第一に東寺像について、その甲制は9世紀後半以降にしか類例が見出せないことから、制作年代を下げる見方があったが、9世紀前半の敦煌で類例が確認できるため、中原ではそれ以前すでに同甲制の図像が流布していたと考えられた。東寺像を羅城門に安置したか否かという点について、8世紀半ばには毘沙門天像を楼上に祀る形態は認知されており、東寺像を羅城門に安置するという構想は入唐八家のいずれもが得ることができたといえるため、羅城門安置説を追認した。また請来品・経典の分析から、東寺像の請来者としては空海がもっともふさわしいと改めて位置づけたことによって、岡田・松浦説を修正する結果となった。

 次に、天台系を中心とする国内作品については、比叡山根本中堂像と、その模刻作品と考えられる善水寺像を中心に論じた結果、根本中堂に安置された二体の毘沙門天像のうち一体は「身細」の最澄御願像、一体は「身太」の伴国道御願像で、いずれも「六尺」「屠半様」であること、善水寺像がそれらを強く意識した模刻作品であること、そしてそれが天台系毘沙門天像において主要な図像系譜の一つであることを明らかにした。

 また、「兜跋」毘沙門天図像の源流については、ホータン・ダマゴウ遺跡出土画像(6~7世紀)の分析を通じて、その宝冠にあらわされた鳥の存在により、中原に伝わる前段階の「兜跋」毘沙門天図像の源流はホータン地方にあった、とする伝播モデルを立証した。

 大陸作品の位置づけとわが国の作品との関係性については、法門寺像・長干寺像・感恩寺像や関連史料をとりあげ、7世紀以降の舎利信仰と毘沙門天信仰の具体的な結びつきを明らかにし、わが国の作品も同様の信仰的背景をもつことを明らかにした。

 12世紀以前の毘沙門天信仰と舎利信仰に関わる王権の問題にも注目し、中国・日本及び朝鮮半島の史料・作例をそれぞれ網羅的に分析した。毘沙門天が四天王のうち最も高位の存在として信仰された背景には、毘沙門天がその手に捧げる宝塔内に舎利を護持し、王や皇帝と同一視されうる性格があることが大きな特徴といえる。つまり舎利・王権という切り口によって東アジアにおける毘沙門天の機能の共通性が証明できるのである。以上の五つの問題点をそれぞれ解決したことで、毘沙門天像に関する議論を多角的に補強することができた。

 本論の主題を改めてまとめると、毘沙門天像の伝播ルートというかたちの伝わり方の問題、毘沙門天像と王権・舎利信仰という機能の問題の二点に集約される。前者については、ガンダーラで発生した信仰と図像が、中央アジアとくにホータン地域を経由して中国・中原に伝わり、そこから放射状に各地へ拡散した構造を明らかにした。近年発見された資料や、従来注目されてこなかった作品を新たに考察の対象とすることで、否定されることもあった古典学説を再評価した形となった。後者について、東寺像・比叡山根本中堂像や、それらの模刻である清凉寺像、善水寺像、そして隅寺像、法門寺像、長干寺像、感恩寺像など具体的な作品の制作背景から、毘沙門天と王権との関連性を実証することができた。また、王権と結びつく理由として、毘沙門天が舎利を持つ役割を担っていることを強調し、舎利信仰との関係を指摘したことも本論の新たな視点の一つといえる。