本稿では、律令国家が流通経済をどのように位置づけ、取り込もうとしたかという論点を皮切りに、国家と流通経済との関係や中央および地方の社会実態について検討した。以下、本稿で述べたことを簡単にまとめ、それらを相互に関連づけていきたい。

第一部「律令国家と市」は、律令国家による市の支配のあり方を主に法制面から検証したものである。ここでの検討が本稿全体を貫く私見の基礎となっており、第二部や第三部で行なう実態的な考察の前提ともなるものである。

まず、第一章「律令国家による市の支配」では、律令の日唐比較から日本における市の支配の独自性を明らかにした。唐では両京や諸州県に市を設置して官司に統轄させたのに対し、日本は律令制導入により京のみに官の市を置くこととした。市司管下の市は天皇の居所である京のみに置かれ、天皇による支配と密接な関係を有したのである。その結果、諸国府には官設市が置かれず、国司が郡司ら地方豪族を通して諸郡の市を利用する形態をとった。このように、律令国家が既存の流通経済に依拠していたからこそ、国府の機構が変質し充実していくとともに、経済が国府中心に再編成されていくのである。

第二章「都城と市―日唐坊制・時刻制の比較よりみる東西市―」では、日本が律令制を導入して市を置く際、日本の都城のあり方に適応するよう工夫が施されたことを指摘した。このことは、律令国家が京のみに市を設置したとする前章の考察結果を裏付ける。律令国家が置いた市は都城を象徴する施設であり、首都機能の一部であった。以上、第一部の考察を通して、律令国家は市を都城の施設として設置し、地方の市の支配は地方豪族に任せたことを確認しておきたい。

第二部「王権と流通経済」では、第一部で述べた律令国家の市支配の前提となる王権と市との関係性を検証した。それらの関係は先述した令制下の市と都城との関係に継承される一方、都城の市とは別に残存し続けたのではないかという見通しのもとに検討を加えた。

第一章「ヤマト王権の王宮と市」では、令制以前の市と王権との関係を考察し、王権が交通の要衝に形成された衢の市を利用していたことを述べた。それらの市は、王宮が近辺に営まれたことで政治的に使用されるようになり、その過程で王権の儀礼空間となった。こうして王権は市を王宮の付属施設として取り込んでいき、王宮とその周辺に所在する市が一体となって政治の場を形成した。やがて、律令制が導入されると、それらは都城の中へ吸収されていったのである。

第二章「大和国の交易拠点と「宅」」は、前章でみた大和の市と王権との関係が律令国家成立以降もみられることについて、貴族や寺院の交易拠点である「宅」の検討から迫ったものである。正倉院文書にみえる宅は下級官人の交易拠点とされてきたが、王権の所領が施入されて成立したものもあった。それらの宅は、律令国家の東西市のみでは果たすことのできない交易機能を担っており、令制以前から存在するチマタの付近に置かれていた。こうした交易拠点としての宅は、王権とのつながりの中で形成されていったものである。王領と市との関係は、八世紀の寺院造営に利用された宅の交易活動にその名残をみることができる。逆にいえば、王族・貴族や寺院の交易拠点である宅は、かつての王宮とその市利用のあり方を継承したものといえるのではないだろうか。

第三部「流通経済と地方社会」では、第一部で大枠を述べた地方における流通経済の実態について、交易価格を題材に分析した。交易価格は交易をする者たちの力関係や、彼らと国家との関係性を知る上で一つの指標となるものである。その検討を通して、律令国家と地方流通経済との関係性や地方社会の実像に迫った。

第一章「八世紀における地方の交易と「估価」」では、諸国において律令の估価制が適用されていなかったことを述べ、交易価格の実態を検討した。諸国の交易価格には中央政府が提示する標準価格と、それに従って国司が郡司に指示する価格、さらには郡司や郡雑任が実際に交易する際に用いる価格の三段階が存在した。国司は中央政府が示した標準価格を郡司に指示し、そのまま帳簿に記す場合が多かった。これに対し、郡司らが交易する際の価格は標準価格の通りとは限らず、帳簿上の価格との齟齬が問題化していった。流通経済の管理・編成に携わっていたのは郡司や郡雑任など地方豪族であり、国司は彼らほどその実状を把握できていない。八世紀における地方の流通経済は、従来考えられてきたような国司を中心とした支配体制のもとに展開したのではなかった。むしろ郡司など地方豪族のもとで展開したのであり、地方の流通経済は帳簿に依拠した国務運営から乖離していったのである。

第二章「九~十世紀の交易価格と地方社会」では、地方の流通経済をめぐる国司・郡司らの動きが九世紀以降はどのように展開していくのか検討した。従来、国司の受領化に伴い流通経済に対する彼らの影響力が増大すると考えられてきたが、実際には地方豪族の動きに連動するように流通経済が形成されていった。地方豪族が下級官人として国府へ取り込まれていき、そこで国務運営上の慣例を形成した。交易価格に関しても同様であり、慣例的な国例の価が形成されていった。つまり、彼らの動きが国府を中心とする流通経済の形成を促したのである。

ここまで述べてきたことを簡潔にまとめておきたい。律令国家はヤマト政権下における王宮と市との関係を京に集約し、首都を象徴するものとして東西市を設立した。ただし、官司運営や京での生活において東西市のみでは事足りず、各地に設置した宅を拠点として交易を行っていた。元来、それらの宅は王宮や王領、豪族の所領などを引き継いだものであり、交通の要衝に形成された市が近接していた。つまり、律令制下の流通経済は、ヤマト政権下のそれを継承するものでもあったといえる。一方、地方の流通経済の管理は地方豪族に任されており、国府の交易も郡司らが請け負っていた。律令制が導入されてしばらくは令制以前から続く交易拠点を利用していたのであり、それが国府を中心として再編成されていくのは九世紀以降であった。その頃になると、国府にはかつての郡司・郡雑任たちが国雑任のような形で結集し、彼らの間で国務運営上の慣例である国例が形成されていく。地方の流通経済は国府行政に便利な形に再編成されていくのであり、この頃ようやく「国府交易圏」ともいうべきものが形成されるのである。

 以上のことから、律令国家の流通経済はその大部分が令制以前のものを継承していたことが言えるだろう。律令制の導入により政府は京に市を置き、中央官司の運営や都城での生活に必要な物流を作り出した。同時に、京の市は刑罰執行の場として機能することを期待され、都城の儀礼的な空間として設けられたものでもある。このように律令国家が流通経済の管理を京に特化した理由は何であろうか。おそらくこの疑問を解く鍵は、律令国家の経済的特質とも言える中央への貢納システムにあるだろう。律令国家財政を確立するためには、地方から中央への貢納を早急に確立する必要があった。国家にとっての緊急の課題は、とにかく地方の物資を中央へ集めることであったと考えられる。この目的を達成するためには、地方の物流に介入するよりも既存の流通経済をそのまま取り込むことの方が近道であった。すなわち、すでに地方豪族が形成していた流通経済を取り込めばよいのであり、実際に令制以前の王権は地方豪族と結びつきながら流通経済を利用していた。律令制の導入以後も、政府は既存の流通経済の管理は地方豪族に一任しつつ、財政に取り入れる方針を採ったのである。

したがって、かつて考えられたように流通経済が未発達であるがために実物貢納経済が形成されたのではなく、むしろ実物貢納経済創出のために流通経済への介入政策を採らなかったということになるだろう。それこそが律令国家の統治方針であり、古代日本独自の施策ということになる。

この後も地方の流通経済は政府の干渉を受けず、国府行政の充実化にともない、国府中心に編成されていく。平安時代後期から国府の都市化が顕著になっていくが、そうした地方社会の変容は国府津の形成や発展からもうかがうことができ、国府行政の効率化を目指して流通経済が再編成されていったことが分かる。栄原氏が述べるような「国府交易圏」はこの段階になって形成されるのであり、具体的には八世紀末以降、大方は九世紀頃に展開したと考えられるのである。

最後に、これまでのまとめと中世への見通しを述べておきたい。かつてヤマト王権が地方豪族と結びつきながら開発した交易拠点は、律令国家財政を支えるものとしてそのまま取り込まれたが、古代社会の変容にしたがって形を変えていった。やがて、地方では国府を核とした流通経済が編成され、中世社会の基盤を形成していく。古代社会から中世社会への転換を考えた時に、このような流通経済の再編成を一つの側面としてみることができるのではないだろうか。