本研究は、現代中国語の共通語において、視覚動詞がその一部の用法において本来の「見る」あるいは「見える」という意味を喪失もしくは希薄化し、新たに接続詞的な機能や助詞に相当する機能を獲得するという、いわゆる文法化の現象を論じるものである。視覚動詞の文法化は中国語のみならず、他の言語でも確認されている現象ではあるが、文法化を経て獲得した機能や文法化の度合いは言語ごとに異なる。本研究では、現代中国語の複文に用いられる際の“看(みる)”“见(見える)”“看见(見える)”“看到(見える)”“只见(ただ~が見える)”といった一連の視覚動詞の用法に着目し、それらが担う接続詞的な意味機能の内実とその種の機能が獲得されるに至る文法化のプロセスを、構文論および機能論の観点から明らかにする。加えて、本研究では、視覚動詞の“看”が動詞の重畳形(VV)に後接し、“VV看”のかたちで「~してみる」という〈試み〉の意味を表す助詞的用法を取り上げ、意味的に類似する他の〈試み〉の表現形式との比較対象を通じて、“VV看”の意味的特性と統語的特性を明らかにし、併せて、現代中国語における〈試み〉表現の全体像の意味論的な把握を目指す。

 第1章では、本研究が扱う対象と研究の目的を述べる。

 第2章では、“看”“见”“看见”“看到”などの視覚表現が複文に用いられるときの機能について考察する。複文にこれらの視覚表現が使われる場合は「誰からそう見えているか」を明示することが主な機能となる、ということを確認したうえで、「誰からそう見えているか」の「誰から」を「視点」として定義し、複文における視覚表現の機能を「視点明確化機能1」と「視点明確化機能2」とに分けて捉え直す。「視点明確化機能1」とは、後件に使われる場合の〈看见〉の機能を指し、出来事を一貫した視点で語る働きを担う。本章では「視点明確化機能1」の主たる意味機能が「単一視点の維持」という点にあることを、視覚表現が使用されていない複文との比較を通じて論証する。加えて、「視点明確化機能1」からの拡張として「視点明確化機能2」が生じることを指摘する。「視点明確化機能2」とは、視覚表現を複文の前件に用い、前件に生起する視覚感知の対象(もの・こと)を後件の動作行為の〈契機〉もしくは〈原因〉として明示する機能である。とりわけ〈原因〉をマークする際に、視覚表現に後続する内容は意味的に本来の「目に見える、客観的な視覚感知内容」から「(ある行動を引き起こす)心に見える、主観的な判断」に変わることになる。〈看见〉などの視覚表現は、こうした「目に見える」の意味から「心に見える」の意味へと拡張することにともなって、機能的にも〈原因〉を表す接続詞に近い性質を獲得していると考えられる。これらの機能は連続性をなすものであり、「視点明確化機能1」から「視点明確化機能2〈契機〉」と「視点明確化機能2〈原因〉」へと用法が拡張していくにつれ、視覚動詞の動詞性が弱化し、かつ接続詞的性質が色濃くなる傾向が確認できる。一方で、〈原因〉をマークする用法においても、中国語の視覚動詞にはなお動詞性が残っており、英語の“seeing that/as”とは異なって、なお完全な接続詞になり切っていないという事実も明らかになる。最後に、本章では、中国語の視覚動詞によって担われる以上のような意味機能、すなわちある特定の登場人物の目に映った物事、もしくは判断した事柄を次の行動を引き起こす原因として表現するという機能は、中国語の小説で因果関係を表すのに視覚表現を多く用いる傾向とも深く関連していることを指摘する。

第3章では、〈看见〉との比較を手がかりに、“只见”の接続機能について考察する。とくに「視点明確化機能」と「注視点明確化機能」の対比を通じて、両者の違いを明らかにする。第2章で論じた〈看见〉は「単一視点の維持」という意味機能を担うものであり、そこでは「見る主体」が強く意識されるため、視点人物の主観的な判断が後続する用法、すなわち「視点明確化機能2〈原因〉」が拡張的に派生した。それとは対照的に、“只见”では「ただ~が見える」という本来の意味の影響により、客観的な「見える対象」が前景化し、それと呼応して「見る主体」は後景化する。そのことは、“只见”の直前に主語が現れないという統語的事象からも明らかである。さらに、本章では、現代語において“只见”に後続する成分が文形式の目的語に限られることや、“只见”の前に否定詞をつけられないこと、さらにはアスペクト助詞の“了”が後続できないことなどの統語的事実を根拠に、“只见”がすでに動詞性を失い、文と文をつなげる接続詞の機能を獲得していることを論証する。最後に、先行研究の論考を踏まえつつ、“只见”が、特定の時空軸に新たな事態を位置づけるための視覚的実存化機能や後続部分の事象を新たな焦点として登場させるための接続機能をも併せ持つことを新たな知見として提示する。

第4章では、〈見究め〉の意味をもつ動詞“看”と〈試み〉の語気助詞である“看”を取り上げる。先行研究の多くは、《試みの“看”》は《見究めの“看”》に由来し、両者は相互に置き換えられるものとするが、通時的な考察においても明らかにされているように、《試みの“看”》は《見究めの“看”》に由来する用法ではない。本章では、両者の間には、何らかの動作を手段とし、ある未知の事柄を究明するという点において共通性が見られるということを示したうえで、なお相違点も少なくないことを複数の事象を通して明らかにする。また、手段となる動詞表現の意味特性によって両者の置き換えが不可能になるケースも存在することなど、いくつかの新たな事実を指摘し、《試みの“看”》と《見究めの“看”》の共通点と相違点を意味論、構文論および談話分析の観点から明らかにする。

第5章では、〈試み〉のマーカーとしてはいまだ広く容認されていないが、一部の用法に〈試み〉を表す文法的マーカーとしての機能が確認できる“试试(少し試す)”という表現について考察する。本章では、“VP试试”を、VPの形式およびVPと“试试”の間の意味関係に基づき、5つに分類し、連動構造(VP1VP2)の典型性という観点から各類の違いについて分析を行う。分析の結果、5つの類の“试试”には、動詞本来の実質的な動作表現を担う類から、もはや動詞としての機能を失い、前方のVPに対して「試しに行う」という〈試み〉の意味を加えるだけの文法形式に再分析されている類に至るまでの、文法化の度合いを異にする段階的な連続性が存在することが明らかになる。

第6章では、“看”と“试试”と動詞の重ね型が〈試み〉を表す際に、それぞれどのような特徴を呈示するかを整理し、現代中国語の〈試み〉の表現の全体像の把握を目指す。まず、文法化の過程において、“看”と“试试”が相反する拡張方向を見せていることを指摘する。“看”は最初に探求義のある動詞と共起し、「見る」から「確かめる」へと意味変化が起こり、やがて探求義のない動詞と共起するようになることで、〈試み〉のマーカーとしての機能を獲得する。一方、“试试”は探求義のない動詞との共起が文法化の始まりとなる。また、“试试”の用法にはしばしば脅迫の語気が含意されるが、これもまた探求義のない動詞との共起に起因する可能性があることを本章では明らかにする。次に、先行研究の論考を踏まえたうえで、動詞の重ね型であるVVと“VV看”および“VP试试”が表すそれぞれの〈試み〉の意味について考察する。まず、重ね型という形式で明確な〈試み〉の意味を表せる動詞は、本来探求義を持つものに限られるため、VVの形にしても必ずしも〈試み〉の意味が付与されるわけではないということを確認する。それに対し、“VV看”の“看”や“VP试试”の“试试”は〈試み〉の語気助詞として前方の動詞(句)に〈試み〉の意味を付与する強力なマーカーとしての機能をもつが、“VV看”のVが単音節の動詞に限られるため、使用範囲は限定的である。一方、“VP试试”に関しては、数量的な広がりは認められないものの、VPという動詞句に数量表現が伴わない“V(O)试试”の用法の増加に伴い、使用範囲が広がりつつあることが認められる。最後に閩南方言における〈試み〉のマーカー“看”の用法を取り上げ、それらの用法が台湾の共通語である台湾国語へ及ぼした影響について分析する。加えて、台湾国語における“V(P)看看”と現代中国語の共通語における“VP试试”の用法を対照させ、〈試み〉を表す文法的なマーカーには二音節化する傾向があるという、これまで触れられることのなかった事実を指摘する。

第7章では、本研究の内容をまとめたうえで、今後の研究課題を提示する。