本論文は、一九三一年九月から一九四一年末、宣戦布告なき戦闘行為を通して獲得した実質的な中国占領地に対し、日本がいかにして自らの統治を浸透させようとしたのかを検討するものである。近代において中国は、国内体制と対外関係の両面において、西欧列強の強い影響力のもとにあり、国内には条約や契約関係を基とした列国の在華権益が多数存在していた。それらの在華権益の一部が、一九二〇年代以降の中国によって実力で回収されていったことはよく知られているが、一九三〇年代において依然として列国に所有されていた在華権益についても、南京国民政府の国内基盤の強化とともに、同政府の行政のもとに再編成されつつあった。

 このように、南京国民政府との関係が密になりつつあった在華権益をめぐって、それらの所在地から南京国民政府のガバナンスが排除されていったとき、いかなる問題が発生したのだろうか。満洲事変以降、日本は「満洲国」や「冀東防共自治政府」、「北平臨時政府」、「維新政府」など、新たな統治主体を創出し、統治を担わせていった。このことは、イギリスやアメリカの在華権益の観点に立てば、本国政府が承認しない支配者の行政下に置かれることを意味していた。したがって、在華権益を中心にみた時、新たな地域政権の施策を受け入れるのかどうかをめぐり、国際問題が生じていったのである。

 在華権益をめぐる国際問題は、日本にとっても、やや複雑な様相を呈するものとなった。一九三一年九月から一九四一年末にかけて日中両国は軍事衝突を繰り返しながらも、両国ともに宣戦布告は行わなかった。そのため、両国間の既存の条約関係は破棄されず、日本は獲得した占領地で軍政を施行することもできなかった。ゆえに日本は容易に在華権益を自らの便宜にあわせて再編することはできない状況にあり、諸外国の在華権益をめぐる条約を読み替えたり、在華権益に巧妙に影響力を浸透させたり、在華権益それ自体が日本の中国侵略を支持するように策を講じる必要性に直面していた。

 以上、日本の占領地支配をめぐる構造を明らかにしたうえで、本論文においては、満洲・華北・華中という三部構成をとり、各地域における最も特徴的な在華権益を取り上げ、それらのガバナンスをめぐる日本、イギリス、中国の間の攻防の過程を、多言語からなる史料を用いて分析した。

 第一部は満洲を対象とする。第一部第一章「「満洲国」創出と門戸開放原則の変容」は、満洲の統治主体が南京国民政府から「満洲国」に転換したとき、同国内で活動していたイギリスの保険・煙草・石油企業をとりまく環境が変化したことで生じた国際問題を取り上げた。そこから、満洲国と九ヵ国条約の関係について、とくに、満洲国における経済統制の実施と門戸開放原則の尊重という建て前との間で生じた矛盾を、日本外務省がどのように処理しようとしたのかをめぐり、一九三二年の満洲国成立から一九三〇年代半ばまでを対象としながら考察した。本章では、日本外務省が門戸開放原則の意味を巧みに読み替え続けたこと、そのような条約の読み替えは満洲国の政策との間に矛盾も生じさせ、リース・ロス=ミッションの際に日本が取り得る選択肢を狭めていた可能性もあったことを示した。

 第一部第二章「英国産業連盟視察団の日本・「満洲国」訪問」では、一九三〇年代前半、満洲国から外国企業が排除される一方で、満洲国経済にイギリス人がいかに参入を試みたのかについて、一九三五年のイギリス産業連盟の満洲国訪問を例に検討した。同連盟の満洲国訪問は、満洲国が実際に門戸開放原則に配慮を見せ、イギリスへの発注を行うかを占う試金石にもなったものの、結果として満洲国は十分な受注を行わず、満洲国経済へのイギリスの参入は進まなかったことを指摘した。

 第二部は華北を対象とする。第二部第一章「日中戦争初年の天津海関」は、日中戦争初年における、マイヤーズ天津海関総税務司の行動を跡付けるものである。当時海関には多くの外国人官吏が勤務し、海関収入は外債償還や賠償金支払いの財源となっていたなど、列国の利害が深く関わる機関だった。一九三〇年代半ば以降、天津は日本の圧倒的な軍事力の下に置かれ、従来の海関行政はほとんど機能不全の状態に陥っていた。このようななか、イギリス人税務司であるマイヤーズは現地日本陸軍に海関制度の改変を迫られたとき、大連海関接収の事例を想起しつつ、メーズ総税務司からの命令を拡大解釈することで、天津海関の北平臨時政府による接収に対応したこと、メーズは中国を説得しきれなかったために、イギリス本国の意に沿う決着を付けられなかったことを明らかにした。

 第二部第二章「日本の華北支配と開灤炭鉱」は、華北分離工作から太平洋戦争開戦までの間、日本が開灤炭鉱に影響力を及ぼそうとしたとき、同炭鉱の経営にあたっていたイギリス人であるネイサンが、「正当な支配者」たる南京国民政府と、「事実上の支配者」たる冀東防共自治政府・北平臨時政府のどちらに帰属すべきかをめぐり、揺れ動く過程を考察したものである。日本の占領地内に置かれたイギリス人が、本国イギリスや、現地日本人との関係の調整に苦悩しながら、最終的に「事実上の支配者」に帰属していく過程が描かれた。

 第三部は華中を対象とする。第三部第一章「一九三五年の『新生』不敬記事事件」は、治外法権という特権に守られた存在である上海の日本人居留民が、日本による中国侵略の深化に際して、彼らをとりまく環境が不安定化したとき、いかなる反応を示したのかを検討したものである。現地陸軍が『新生』不敬記事事件を利用しつつ、巧みに日本人居留民を動員したこと、華北分離工作を推進した磯谷廉介が、中国情勢の変化を受けて、一転して外務省と共同歩調をとるようになり、日中戦争の直前に日本外務省の対中路線は強化されていたことを指摘した。

 第三部第二章「日中戦争前半期の上海海関」は、日中戦争が始まってから維新政府に接収されるまでの間に展開された、上海海関をめぐる日本・イギリス・中国・海関の駆け引きを検討した。上海海関をめぐる交渉では、天津海関の前例が参照されていたこと、イギリスは外債の償還を確保しようと日英関税協定の締結に踏み切ったが、結局中国を説得することができず、当初の目的は実現できなかったことを指摘した。アメリカを交渉の場に引きずり込むことができないなか、日本とともに海関制度の改変に踏み切ろうとしたイギリスの目論見は、中国の抵抗ゆえに実現できなかったことが明らかになった。

 以上の考察を通じ、在華権益をめぐるガバナンスの変更という問題について、以下のような結論を導いた。まず、日本は「平時」の中国を地域政権に支配させるうえで桎梏となっていた既存の条約を読み替えることにより、法的な整合性をつけようとしていたということである。次に、日本人居留民はもちろん、在華権益の運営のために中国に存在していた外国人に対して、日本側が巧みに影響力を浸透させ、彼らを地域政権のもとにからめとってゆく、その過程が日本側、イギリス側、中国側史料の博捜から浮かび上がった。マイヤーズ(天津海関)、ネイサン(開灤鉱務総局)、メーズ(海関総税務司)、ローフォード(上海海関)などのイギリス人は、少なからず「正当な政府」と「事実上の政府」の間で葛藤しつつ、程度の差こそあれ最終的には、「事実上の政府」との距離を縮める道を選んでいったのだった。

 それではなぜ、イギリスやアメリカという在華権益保有国の目があるなかで、権益をめぐるガバナンスの変更が進展したのだろうか。その背景として、以下を指摘できる。すなわち、中国に莫大な権益を有していたイギリスは、自らの帝国内統治と整合性をとる必要があり、さらに、国際的に未承認の地域政権との関係構築を忌避したため、日本に強硬な姿勢をとることはできなかった。そして時としてイギリスは、日本による在華権益の再編に抵抗を見せるよりも、在華権益をめぐる秩序の再編に参画していこうとする立場をとった。アメリカはといえば、在華権益をめぐる問題の存在を認識していたものの、イギリスとの共同歩調には踏み切らなかった。日中戦争が始まった当初、国民政府を率いる蔣介石は、日本側による第三国権益侵害が進展すれば英米側もまた日中戦争に介入せざるをえないとの見通しと希望を抱いたが、それは実現されなかった。英米の介入がみられなかった歴史的背景については、本論文の最後に展望として述べた。