本論文は「ニグロ芸術(’’art nègre’’, ‘’Negro Art’’)」という呼称及び概念が形成され変容していく過程を分析した言説研究である。論じられる地域は主にフランス語圏であるが、「ニグロ芸術」という呼称と概念の伝播とその文脈化という関心から二十年代から三十年代のアメリカ合衆国も視野にいれている。本論文で検討されるのは、狭義の美術界内部での「ニグロ芸術」像の形成及び変容だけでなく、植民地行政や黒人文化運動等に対し新たな芸術分野がもたらした波及効果も視野に収めている。これら様々な様相の下で考察を行う理由は、「ニグロ芸術」と「プリミティブ・アート」という用語との差異を明らかにし、前者の特殊性を浮き彫りにするためである。もっとも、過度に特別視することはこの二つの呼称に共通するイデオロギー的要素を捨象してしまうため、両者の差異とともにその共通性も念頭において議論を進めている。

 本論文は全一〇章からなる。

 第一部となる第一章及び第二章は、「ニグロ芸術」という呼称と概念とに関し、先行研究を踏まえつつ、本論文の分析方針を示す内容となっている。とりわけ第一章はこの概念が創出された背景やイデオロギーに着目しつつ、この概念が連なる系譜に焦点を当てている。そこで明らかにしたのは、「プリミティブ・アート」を支配する「救済」の原理であり、また「救済」の原理を強調することによって捨象されてしまう「ニグロ芸術」が有する特殊性であった。

 その特殊性を踏まえ、本論文の考察、そして文化表象をめぐる言説研究において重要となるのは、表象される側による表象の利用、援用を考慮することにあり、第二章はこの点について分析している。とりわけ、西洋の側が「ニグロ芸術」をいかに「領有」したか、そして表象される側がどのようにこの概念を「流用」したかという問題を考えるための理論的考察を行った。また、’’art nègre’’という造語がどのような文脈で使われはじめたのか、その初出に関する考察や、本論文で「ニグロ芸術」という訳語を採用している理由について、奴隷制から二十世紀の黒人文化運動へと至る背景を考慮しつつ、また上述の「領有/流用」を視野に入れつつ論じた。

 第二部では西洋の側がどのような文脈で、「ニグロ芸術」を創出したか、という関心のもとにまとめられている。まず第三章では「ニグロ芸術」の最大のプロモーターたる美術商のP・ギヨームを中心に、アフリカ彫刻の「古さ」がいかに言説のうえで形成されていたかを考察した。この考察を通じ、アフリカの植民地化によって「ニグロ芸術」が「退廃」したという消失する文化をめぐる語りをまず確認した。そのうえで、アフリカ彫刻がエジプト以前に製作されたものとみなすG・アポリネールの見解を取り上げ、彼の歴史観を「正当化」する理論的根拠として援用されるA・ド・ゴビノーの人種理論に着目した。当時フランスに逆輸入されていたA・ド・ゴビノーの人種理論の分析を通じ、両大戦間の「ニグロ芸術」論に蔓延する「ゴビニスム」の存在を指摘し、ゴビノー当人の理論との差異が明らかとなった。

 ゴビノーの人種理論の検討と「ゴビニスム」の蔓延に関する分析を経て、第四章ではゴビノーの人種理論の影響下で自らの壮大な美術史を展開したE・フォールについて考察を行った。とりわけ二十年代以降、彼がゴビノーの理論を吸収する過程で前景化させた「ニグロ芸術」の特質と見なした「リズム」概念に焦点を当てた。フォールにとって「リズム」という特質は、黒人種の人種的特徴として措定され、人種間ないし文明間の「混血」を通じた「黒人的リズム」の伝播という歴史観を土台に、フォールの「ニグロ芸術」論及び世界美術史が成立していることを明らかにした。

 「ニグロ芸術」という新たな芸術ジャンルに巻き込まれていたのは、狭義の美術界の面々ではない。この呼称と概念の特殊性を考えるため、第五章では植民地行政に深く携わったG・アルディに着目し、彼の植民地行政観のなかでアフリカの「芸術」がどのように語られたのかを考察した。植民地行政の分野では「ニグロ芸術」だけでなく「原住民芸術」一般も問題となるが、アルディがそれらに共通して見出していたのは、植民地化による「芸術」の「退廃」ではなく、植民地化による「芸術」の「刷新」であった。その背景には、植民地支配の正当性を強調しようとする植民地行政に携わる者としての意図が働いている。つまりアルディが試みたのは、「進歩」と「保存」という矛盾するかに見える「ニグロ芸術」の将来像のなかに植民地行政を織り込むことであり、家父長主義的な仕方での「ニグロ芸術」の分析であった。

 第六章では、「消失」し、死んだ「芸術」とみなされてきた「ニグロ芸術」の文脈に、突如として現れた「ニグロ絵画」というジャンルに着目し、世界的にも研究が皆無であるK・シディベについて考察した。第五章で扱ったアルディも着目したこの画家の事例は、「未開」と「文明」、「ニグロ芸術」の「消失」と新たな展開という両極の狭間に位置している。同時代の多岐にわたる美術評の考察を通じて、この画家の両義的な位置付けられ方、つまりときに「未開」の芸術家として、ときに「文明化」の影響を受けた芸術家という位置付けられ方を指摘した。

 第三章から第六章が、主にフランスを中心とした「ニグロ芸術」の文化的領有の過程であるとするならば、黒人の側による流用の過程に考察が割かれたのが第三部である。第三部で主題となるのは、「ニグロ芸術」という概念がどのように黒人文化運動の内部で文脈化されたのかという点である。また、フランスからアメリカへ、そしてフランス領植民地地域へと伝播されるなかで「ニグロ芸術」の内実がどのように変容したかに着目している。第七章ではハーレム・ルネサンスと呼ばれる文化運動の内部で、いかにこの呼称と概念が受容され変化したかを考察した。ギヨームからA・バーンズへ、そしてA・L・ロックへと伝えられた「ニグロ芸術」は、アフリカ系アメリカ人らがどのように現代世界へ貢献したか、そして貢献しているかという関心を伴い議論されていた。この議論に着目し、奴隷制の歴史を経たアメリカの地で、「ニグロ芸術」がフランス美術界とは異なる様相を呈し始めたことを多角的に論じた。

 大西洋を横断した「ニグロ芸術」が、アメリカの地で新たな展開を迎えた後、黒人文化運動を通じ、再びフランスへと再輸入されることとなる。第八章はこの伝播の過程で「ニグロ芸術」の特質として語られた「リズム」概念に着目し、この概念を基盤とするパン・アフリカ的文化像が形成されていく過程をバーンズ、及びフランス語圏の新聞雑誌メディアの記事を中心に検討を行った。この過程でとりわけ注目したのが、アメリカを中心とする奴隷制のイデオロギーを帯びた「リズム」概念と、イギリスからアメリカへと伝播した形式主義的造形分析における「リズム」概念との重なりであり、その交点に「ニグロ芸術」の流行が存在していたことを詳細に分析した。

 第八章の議論を受け、第九章は「ネグリチュード」運動の中心的人物であり、「ニグロ芸術」を雄弁に論じたサンゴールの思想の考察を行った。本章では、「リズム」を基盤とした彼の黒人文化像の基盤が、主客の融解にもとづく「リズミカルな態度」というサンゴールが想定する黒人の世界観にあることを論じた。さらに、「ニグロ芸術」像と「リズム」概念が、サンゴール自身の哲学的考察を経ることで、一〇年代以降変容を続けた「ニグロ芸術」概念が一つの極致へと達していたことを明らかにした。

サンゴールのパン・アフリカ的文化像はネグリチュード概念へと結晶化することとなるが、第二次大戦以降自らのネグリチュード概念、そして「ニグロ芸術」観の変化が迫られることとなる。第十章で論じたのは、ファノンを中心とする若い世代の現実主義的批判に直面し、サンゴールが自らのネグリチュード概念と「ニグロ芸術」観を、脱植民地化の主題へと接続していく過程である。この過程の分析で明らかにしたのは、脱植民地化の文脈との接合を経て歴史化され、正当化されていくことになる、「武器」としての「ニグロ芸術」という性格であった。

本論文全体において考察の対象としてきた「ニグロ芸術」という呼称と概念は、フランス、アメリカ、カリブ、アフリカを横断し、人種主義と植民地主義とが蔓延するそれぞれの文脈のなかで様々な様相を呈していた。「ニグロ芸術」の古さと新しさ、この概念に対する同意と拒絶、それぞれの場面において、「ニグロ」という蔑称は支配者・被支配者双方の言説の内部で主題化され、意味を充填させられていた。本論文で詳細に検討に付したのは、二十世紀の前半から後半にかけて様々な文脈と個別的な議論の内部で形成され、伝播し、変容し、生きられていた「ニグロ芸術」という呼称であり概念であったといえよう。本論文はこの概念の特殊性を明らかにしたと同時に、「プリミティブ・アート」にまつわる呼称の「系譜学」に必要な視座とは、個々の文脈の内部で領有され流用される実態を辿ることにあるとの見解を示した。そして本論文が示した立場と分析はこうした呼称の「系譜学」の再検討とその新たな可能性の提示となっている。