16世紀末、イエズス会は中国への宣教師の派遣を開始し、これらの在華イエズス会士が適応政策のもと精力的に進めた中国研究の成果は、17~18世紀ヨーロッパで続々と出版され、知識人の関心を引きつけた。そして19世紀前半には、ヨーロッパで正式な学科としての中国学が創始される。従来の研究は、この17~19世紀ヨーロッパにおける中国研究を、もっぱら萌芽状態から完成へと至る直線的な過程として捉え、この間一貫して中国研究を牽引した在華イエズス会士における多元性や世代ごとの独自性については、ほとんど議論が見られない。そこで本論文では、特に研究の乏しい18世紀後半の在華イエズス会士に光をあて、彼らと同時代中国ならびにヨーロッパの各思潮との関わりが、いかにその中国研究に従来との連続と断続の両面をもたらしたのか、明らかにする。主な研究対象として、18世紀後半の在華イエズス会士のうち、最も盛んに中国について報告したアミオ(Jean-Joseph-Marie Amiot, 1718-1793)に注目し、その膨大な著述のなかから特にアミオが熱心に論じた問題に関わるものを取り上げ、その思想に対する多角的分析を行った。

 

 第一章「孔子像の創造と典礼論争」の内容は以下の通りである。18世紀前半のヨーロッパには、17世紀の在華イエズス会士の報告に基づく様々な著作が現れたが、その内容と受容状況には、しばしば典礼論争の激化が強く反映されている。典礼論争は、初期の在華イエズス会士が打ち出した、儒教経書における「天」や「上帝」を「天主(キリスト教の神)」と同一視する解釈や、中国人信者による天や祖先、孔子の祭祀を許容する宣教方針の是非を焦点とした。こうした論争性を回避するため、儒教や孔子に関する著作では、孔子を人間道徳の追求者として描き、儒教の世俗性を強調するなどの解釈上の操作がなされた。

 

以上の状況を経て、典礼論争が沈静を迎えた後、アミオ『孔子伝』(1786)が現れる。『孔子伝』は、もっぱら『孔子聖蹟図』や『聖門礼楽統』など、明清時代の中国で出版された孔子に関する文献に依拠して書かれ、また『孔子家語』なども部分的に用いられた。ところが、上掲の諸出版物における記述から大きく逸脱した、すなわちアミオが独自に付け加えた箇所がある。当該の箇所では孔子が上帝と天について論じ、天の祭祀とは目に見える蒼天に対する儀礼を通じた、不可視の創造者=上帝への崇拝を表す祭りだと述べている。これにより、祭天儀礼は典礼論争において批判された如き偶像崇拝にはあたらず、さらに真の崇拝対象である上帝はキリスト教の神に等しいとほのめかしたのである。如上の解釈を通して、アミオは典礼論争におけるカトリック教会の決定に反論し、初期の在華イエズス会士が唱えた「天」・「上帝」=「天主」説を再提示した。

 

第二章「中国音楽における科学(science)の発見」は、アミオの『古代および近代の中国音楽に関するメモワール』(1779)の分析を中心とする。18世紀ヨーロッパでは、新しい科学の探究に対する気運が高まるなか、中国科学も盛んな議論の対象となった。多くのヨーロッパ知識人は、中国における道徳や政治の発達を認める一方で、科学、特に思弁的な科学に関しては停滞論を展開し、歴代の在華イエズス会士も、この見方を否定するには至らなかった。こうした状況において、アミオは古来中国で音律生成の基礎であった陰陽二気の相互生成理論、およびその象徴としての卦に、「科学のなかの科学」を見出そうと試みた。また、アミオは朱載堉『楽律全書』を主な参考文献としたが、中国科学の進歩を証明しようとするアミオの試みは、朱載堉による新しい音楽理論の探究とその広がりという、明清時代の中国における思潮とも深く関わっていたと考えられる。

 

第三章「メスメリズムと陰陽理論の邂逅」では、第二章に引き続き、18世紀ヨーロッパにおける科学的探究と、中国の陰陽理論を結び付けるアミオの試みについて論じた。18世紀末のヨーロッパに大きな反響を引き起こしたメスメリズムとの出会いは、アミオにとって、陰陽理論を従来の在華イエズス会士およびヨーロッパ知識人とは異なる仕方で捉える契機となった。アミオは、陰陽理論とメスメリズムの類似性を示し、陰陽理論に依拠してメスメリズムの有効性を証明しようと試みるにとどまらず、さらに陰陽理論が自然界探究のための理論としていかに有効かという問題へと向かっている。初期の在華イエズス会士は、中国の太極や理、陰陽の概念をキリスト教の神とは全く関わりの無いものと捉えた。これに対し18世紀前半の在華イエズス会士や、彼らと中国に関する文通を行ったライプニッツは、太極や理、陰陽をむしろ神そのものと捉えている。アミオの議論は、上記のいずれとも異なる側面を持つ。アミオは、太極などをあくまでも自然界に属する物質として捉えつつ、それらの上に神を接続した。つまりアミオは、従来の如く中国の陰陽理論がキリスト教の教義と調和可能か否かという問題に拘るのではなく、陰陽理論が科学としていかに有効か、いかに自然界の解明に寄与し得るのかという問題に焦点を移したと考えられる。

 

第四章「清朝の政治運営における公(public)の発見」では、アミオが大量の邸報に取材して記した、清朝の政治運営に関する報告を取り上げた。従来の在華イエズス会士と同じく、アミオもまず中国の最高権力者としての皇帝に注目し、乾隆帝の様々な振舞いについて詳細に伝えている。但しアミオは、皇帝のみならず清朝官僚の政治参与についても詳しく述べ、皇帝が最終的な裁決を下す前に必ず様々な官僚の意見を聞く姿を、しばしば「公(publique)」や「公共善(bien public)」の概念を用いながら描いている。このように、アミオが清朝の政治運営を「公」や「公共善」と結び付けた背景には、当時ヨーロッパで中国政治を専制的とする見方が優勢だった状況がある。さらにフランス革命前の公衆、公論、公共性をめぐる議論の活発化も、アミオの報告に少なからぬ影響を与えたと考えられる。

 

第五章「文芸共和国における普遍語としての満洲語」では、アミオの満洲語論をめぐる言語文化的問題について論じた。清朝成立以降、在華イエズス会士は皇帝に対するヨーロッパ科学の進講を満洲語で行い、また『資治通鑑綱目』などの漢籍をヨーロッパ向けに翻訳する際、しばしば漢文より平易な満文版を参照したが、満洲語を漢語およびヨーロッパ諸語と同等に研究価値のある言語として示すことはなかった。これに対しアミオは、満洲語を、フランス語の如く「明晰な(clair)」言語であり、ヨーロッパ諸語と同等の精密さを持つ言語だと述べ、ヨーロッパの文芸共和国の「学者(savans)」にとって有用な研究対象として提示した。こうしたアミオの主張は、乾隆帝のもとで進められていた満洲語改革、およびその集大成としての『御製増訂清文鑑』(1771)の編纂事業に対する信頼によって強く促された。また18世紀ヨーロッパにおける、公共性に照らして有用であるものを追求する存在としての「学者」の理念も、満洲語をめぐるアミオの報告に強く反映されている。

 

第六章「清朝出版事業とアミオの中国史叙述」では、以下の内容について論じた。ヨーロッパでは17世紀以来、聖書に基づく「神聖な(sacrée)」歴史の補完物としての「世俗の(profane)」歴史に対する関心が高まるにつれ、中国史も大きな関心の対象となった。これに呼応し、在華イエズス会士は『資治通鑑』系統の書物を始めとする中国文献に依拠しつつ、また独自の要素を付け加えながら中国史叙述を行った。彼らは、公認されたウルガタ訳聖書ではなく、より古い時代に遡る七十人訳聖書に基づく年代法を採用した。また中国の歴史家が、史料の確実性に応じて中国史を神話時代、歴史時代、および両者の中間の時代に区分していると主張し、中国における歴史叙述の誠実さを強調した。さらに『書経』に記載された仲康日食の証明に努め、この日食が起こった紀元前2155年には、他の国々に先駆けて中国で正確な天文観察が行われ、高度な文明の発達が見られることを示した。

 

以上の要素は、アミオによる中国史叙述にも受け継がれたが、アミオ自身幾つかの新しい要素を付け加えている。従来在華イエズス会士が尭あるいは周威烈王を歴史時代の始点としたのに対し、アミオは清朝中期に編纂された『歴代三元甲子編年』に依拠し、黄帝を歴史時代の始点とした。そして七十人訳聖書の中でも、特に天地創造や大洪水の年代を早い時期に置くペズロン年代法を採用し、そのため従来より大幅に拡大された伏羲~黄帝の間に、満文訳『御批資治通鑑綱目前編』に従って九氏を置いた。さらに従来の在華イエズス会士による中国史叙述に関して、中国文献の「本文」と「注釈」を混淆させ、また各文献の性質を適切に把握していないと批判した。アミオのいう「本文」とは、主に満文訳『御批前編』や『御製繙訳書経』など、清朝において編纂された欽定書の正文を指し、「注釈」とは従来の在華イエズス会士が多用した『綱鑑』などの通俗書を指す。

 

以上の六章を通して、アミオの中国研究が様々な点で従来の在華イエズス会士と大きく異なっており、その背景に同時代ヨーロッパにおける思潮、すなわち科学的探究や「公」をめぐる議論の活発化などがあることを明らかにした。第一章でみた如く、従来の在華イエズス会士と同様、中国文明とカトリックの調和は依然として重大な問題だったが、アミオは両者の調和をむしろ前提とし、ヨーロッパにおける如上の新しい思想上の動きに対する貢献という面において、中国文明の価値を追求したと考えられる。そこにはヨーロッパだけでなく、明清時代中国における思潮、特に清朝の正統思想からの強い影響も存在した。