18968月末から始まった「フィリピン革命」の武力闘争は、東南アジアにおける最初の国民国家創設運動、言い換えると、スペイン国家が作ったフィリピンという領土に住む「フィリピン人」の民族解放革命運動であった。当時のフィリピンではスペイン人は支配者階級以外の何者でもなく、フィリピン人は何があっても彼らを凌駕することはできなかった。したがって、当時のフィリピン人たちは、スペイン人を支配階級と考え、フィリピン人はたとえどんなに大きなアシエンダの地主や企業家であったとしても、自身を搾取される被支配者階級だと認識した。武力闘争開始当初は、革命軍が優勢であったが、途中からは膠着状態が続いたため、1897年末、革命側はスペインと戦闘停止の合意「ビアク・ナ・バト協定」を結ぶことにした。革命を率いたエミリオ・アギナルド・イ・ファミイ(アギナルド)とその仲間は、スペインから80万ペソを貰うかわりに、武器を置いて戦闘を停止し、香港に追放された。これにより革命の第1フェーズ(1896830日―18971227日)が終わった。

しかしアギナルドが香港に行っても、フィリピン領内でのスペインへの反抗は収束しなかった。そのような中、キューバのハバナでは、1898215日、「メイン」号が爆発し、アメリカ―スペイン間の緊張が高まった。1898425日のアメリカ―スペイン戦争(フィリピン領内における米西戦争:1898425日―813日)開戦前後、アメリカは革命側と接触し、フィリピン領内におけるスペインとの戦闘で彼らを利用しようとした。革命側もアメリカを利用しスペインを打倒することを画策し、1898519日、アギナルドはアメリカの輸送船でフィリピンに戻り、革命の第2フェーズ(1898519日―190274日)が始まった。

1フェーズはスペイン領フィリピンの内戦であったが、第2フェーズでは戦いにアメリカが加わり、その上、フィリピンの領有をめぐり複数の国家が暗躍し、武器商人や革命支持者など、様々な国籍と思惑を持った人々が参入したことで、もはや、内戦とは言えない状態に陥っていた。米西戦争が終結し、戦後処理のためにパリで和平会議が開かれ、18981210日に、アメリカがスペインに2,000万ドルを支払うことで、スペインの植民地はアメリカのものになった。これにより、革命側の敵対者はスペインからアメリカに変わった。189924日、革命軍とアメリカ軍の間で武力衝突が起こり、フィリピン―アメリカ戦争(比米戦争:189924日―190274日)が始まった。比米戦争は泥沼化したが、19013月はアギナルドが逮捕され、190274日、アメリカが平定宣言を行ったことで、革命も終わりを迎えた。

2フェーズで革命家は、フィリピンに一番近い「外国」である香港に、「香港委員会」を設立し、この委員会を中心にフィリピン領外で、武器調達やプロパガンダ活動などを行った。本稿では、アギナルドの香港への追放から、米西戦争、比米戦争、フィリピン平定宣言を経て、19037月末に香港委員会が解散するまでの、香港を中心とした革命の領外活動を考察し、革命運動の崩壊について論じる。

今までのフィリピン革命研究は以下の2点、1)革命の神格化による史料検証の不足、2)フィリピンとスペイン・アメリカ・日本との歴史的記憶による叙述の偏向、3)太平洋戦争という不幸な出来事による両者の感情的な偏向――によって、本質を述べきれていない部分がある。したがって、本稿では、この上記3点を排除して史料を検証し、専門分野や特定の国の中心史観にとらわれることなく、第2フェーズの領外活動で何が起こったのかを解明し、その崩壊の過程を明らかにする。フィリピン革命を単なるナショナリズム論で整理せず、参加したアクターたちがどの様な意志を持って行動したのかを意識しながら、領外活動の流を組み立て、この活動の本質を捉える。こうすることで、フィリピン史の中でしか語られなかったこの活動を、世界史の中で相対化し、この活動が世界史、特にアジア太平洋圏に与えたインパクトを明確にする。

本稿は、フィリピン革命第2フェーズの領外活動を、主たる活動場所ごとに4章に分けて論じる。第1章では、スペインとの戦闘停止合意によって、18971229日に、アギナルド・イ・ファミイとその仲間が香港に到着してから、19037月末に香港委員会が解散するまでの、香港を中心とした領外活動の瓦解の流れを、史料の出典を明示しながら、革命の推移と合わせて整理する。第2章では、日本を中心とした――特に革命武力闘争の勝敗を決める軍事面において、革命軍をサポートしようとした日本の参謀本部と、日本に駐在したフィリピン人革命家の――活動を明らかにする。米西戦争時には革命側との関係を構築し、比米戦争開始時には水面下で軍事サポートをした参謀本部が、比米戦争の途中からその活動方針を変化させていく様子を、史料を引用しながら分析する。第3章では、比米戦争中に「前宗主国」のスペイン・マドリッドで、18991025日から1901619日まで発行された革命新聞『フィリピナス・アンテ・エウロパ』の全36号の記事を分析し、革命側の主張と論理を類型化し、引用を織り交ぜながら分析する。第4章では、香港に立ち戻り、香港委員会の最大の敵となった在香港アメリカ(総)領事(在香港アメリカ領事館は、米西戦争中の18987月に総領事館に格上げになった)ラウンズビル・ワイルドマン(ワイルドマン)の国務省への報告書を分析し、香港委員会の武器調達活動と香港委員会に対するワイルドマンの対応について言及する。

2フェーズの領外革命組織は、米西戦争の可能性が突然浮かび上がったことで、革命側の準備不足と、組織体系・命令系統の未決定により、第2フェーズ開始時から有機的に活動できなかった。しかも第2フェーズは、多くの非フィリピン人アクターが参入したため、革命関係者の価値観と目的の多様化が起き、領外活動に関しては、一枚岩的活動が不可能となる状況が起きた。特に非フィリピン人武器商人たちが、香港委員会の武器調達に参加したことも、香港委員会内での対立と資金不足を引き起こす原因になった。

領外活動での不調をよそに、1899123日、フィリピン領内でアギナルドら革命側がフィリピン共和国を宣言した。しかし12日後の24日には、比米戦争が始まってしまった。この頃、日本の参謀本部は、密かに革命軍に軍事援助を行ったが、それはフィリピン領内に「南進」の足掛かりを作るためであった。1899年夏頃から、ヨーロッパを発端として、領外活動家の中で対立が起こり、この対立は香港委員会の人事にまで影響した。その上、ワイルドマンの香港委員会への妨害もエスカレートしていった。

このような状況の中、18991025日、スペイン・マドリッドでは、革命をサポートするプロパガンダ新聞『フィリピナス・アンテ・エウロパ』が発行された。この新聞には、革命側の正当性、そしてアメリカ帝国主義の不当性、そして、フィリピンが欧米先進国の仲間入りを果たすためのプランなどが記された。しかし、ヨーロッパで発行されていたこの新聞は、欧米の思想や基準をベースとして物事を語り、アジアの早い流れをつかみきれておらず、新聞の主張にも目新しさはなかった。

日本の参謀本部は、比米戦争勃発後、軍事視察の目的で参謀本部員を日本領事館付武官として正式にマニラに送る一方で、軍事インストラクターを密かにフィリピンへ送った。しかし1899年夏、武器援助の船が座礁し、フィリピン革命への関与が白日の下に晒された。参謀本部は、アメリカの非難を避けるため、戦略を直接的軍事援助から、親日フィリピン人育成や、日比ビジネスのサポートという非軍事的援助に切り替えた。参謀本部は「アジア人が協力しオリエントで事を成す」という漠然とした理想をフィリピン人革命家に提示し、彼らを利用した。革命家の側も、参謀本部のコネを利用して来日し、留学やビジネスを行おうとした。

19013月、アギナルドがアメリカに投降すると、アギナルド支持を掲げていた『フィリピナス・アンテ・エウロパ』も廃刊した。その後、新しいリーダーを擁した革命軍を、香港委員会が領外から支え、一部のマドリッドの活動家は香港へと移住した。日本の参謀本部もフィリピン領内で諜報活動を続けた。しかし1901年末、参謀本部の活動を懸念したアメリカ当局は、マニラの参謀本部員宅に家宅捜索を仕掛け、参謀本部の活動を強制終了させた。

香港委員会は、政府なき革命軍ゲリラをサポートしつつも、他力本願的戦争終結を望むようになった。そして190274日、アメリカがフィリピン平定を宣言し、比米戦争の終結を世界に公言したことで、革命側の敗北は決定的になった。香港委員会は日本から革命家を引き上げ、19037月末に解散した。

1905年、日本の内閣総理大臣桂太郎とアメリカ合衆国陸軍長官ウイリアム・ハワード・タフト(タフト)の間で、「桂―タフト会談」が秘密裏に行われた。この会談で、日本はフィリピン侵略の意志がないことをアメリカに示し、アメリカは日本が韓国へ進出することを妨害しないことが確認された。この会議に先立つこと2か月前、第2フェーズの革命家と参謀本部の活動が、アメリカ陸軍の上層部によって見直された。この後1915年にも活動は見直された。

フィリピン革命第2フェーズは、フィリピンがヨーロッパ政治経済圏からアジア太平洋政治経済圏へとシフトする第一歩となった。その中で革命家の領外活動は、20世紀前半のフィリピンのみならず、東南アジア、ひいては太平洋戦争に巻き込まれた国々にも影響を与えることになったのである。