本論文は、中華民国期の代表的な民間宗教教派(以下、民間教派)・慈善団体である道院・世界紅卍字会の教義を生成的・動態的に把握することを通じて、そこに散見する公益性の強調と、「宗教性」の回避という特徴的な言説が、中国社会で論争を伴いながら規範的な枠組みとして形成されつつあった「宗教」・「迷信」の用語・概念を内面化し、同時にそこから逃れ出ようとする試みであったことを論証するものである。

民間教派は、中国宗教の確たる一領域をなすにも関わらず、従来の研究においては、反動的・反社会的なものとみなされがちであったが、民国期諸教派の社会活動(慈善)や主張(宗教普遍主義)に近代性の兆しを見出す近年の「救世団体」論に代表されるように、そのイメージの再把握が試みられている。しかし、この新たな研究動向においても、民間教派の教義は、無内容な、前近代的なものとして一顧だにされないという問題が残る。これに対して本論文は、個別の教派の教義を思想史的・概念史的に検討し、その展開を、社会活動や対外的発信以前の見え難いレベルでの、しかし確かな近代化の一部として提示することで、この研究領域における教義研究の必要性を明らかにした。

 序章では、「民間教派」の教義の形成と変容を宗教の「近代化」の一部として捉える行論の前提となる視角の解説と語義の規定を行った。まず、宗教の「近代化」を、「合理化」の進展として目的論的・単線的に把握することをせず、「宗教」概念の摂取・生成を通じた人々の意識や社会制度の構造的変化とみなすことを断り、その一例として「宗教」概念による「教」(中国の宗教伝統)の価値領域、制度上における再定位(具体的には、儒教を「宗教」ないし「非宗教」として限定した領域に押し込む多様な動き)を挙げた。ついで、「民間教派」の語について学説の紹介を行い、そこで批判される二分法的・本質論的規定の問題を踏まえた上で、「民間教派」を、儒仏道三教や公認「宗教」、地域的信仰を含む多様な宗教伝統を部分的に包摂しつつ、固有の名称を持つことで独自の団体として成立ないし分派した組織を指す語として用いるとした。

第一章では、山東省の一乩壇であった濱壇・済壇が確固たる教団組織を有する道院へと発展するまでを跡付け、乩壇期に胚胎した信仰内容が教団化に伴いどのように変化したのか、あるいは維持されたのかを確認した。濱県県署で県知事呉福森らによって起こされた濱壇は、扶乩を繰り返しながら、独自の信仰対象である尚仙を中心に神仙世界を構築していった。出来上がった神仙世界は、八仙や南極老人など、民間信仰や道教の神々とリンクしつつも、不詳な神格太乙老人を最高神とするオリジナルなものであり、そこに他乩壇・他教派との関わりは見られなかった。このことは、濱壇の活動内容からも確認される。濱壇は、信徒の生活、仕事上の問題の解決のために扶乩を行い、呉福森を中心に信徒間の繋がりを強める機能を果たしたが、扶乩以外に後の道院に繋がる実践や教義は存在しなかった。信徒らの異動によって済南で再結成された済壇は、劉紹基を中心とした乩壇であり、民間教派同善社との接触を機に、修行に坐功を導入し、救劫を説く経典を扶乩で編み、道院へと改組した。道院は乩壇体制を維持した点では濱壇からの連続性を保っていたが、実践や教義面ではまったく新たな団体へと変貌を遂げていたのである。近年の「救世団体」論に見られる民間教派間における信仰や実践面での共通点は、こうした具体的な交流によって獲得されていたのである。

 第二章では、民国期の教派の中でも、ニューウェイブとして位置付けられる道院が、明清期の教派の伝統教義と、どの程度連続性を有していたのか、道院の重要経典である『太乙北極真経』(以下『真経』)の救済論の検討を基に考察した。『真経』は、自他が救済に至るための実践として坐功を説くのだが、坐功の到達点に関して、清代に扶乩によって成立した内丹書『太乙金華宗旨』を参照している。一方、同善社の教義からの影響は、坐功と救劫という枠組み以外には見られず、特に同善社が継承している伝統的教義、無生老母信仰と三仏応劫説を、『真経』は採用していない。『真経』における救済の主体は、太乙老人とその教え=『真経』なのである。人間の気質の悪化に伴って歴史も段階的(上元~中元~下元)に悪化していき、時代の終わりには災劫が訪れるというのが、その前提となる歴史観である。人間が『真経』の教えに則り、坐功を行って気質を回復することで、原初の上元の時代へと回帰を果たせるのであり、同様の救済は過去すでに行われており、今また行われるというのが、『真経』の語る救済論だった。『真経』は、太乙老人と『真経』による救済の歴史のみを語り、『太乙金華宗旨』や同善社が拠って立つ道統(系譜)に言及しないことで、明示的ではないが自らの独立性を主張している。道院の救済論と関連教派の伝統的救済論における連続と不連続の相が明らかとなった。

第三章では、道院の救済論の社会的な側面である救劫論が、政府による取締りを経て変化する過程を跡付け、救劫論中における坐功の役割が、慈善事業以上に重視されていく状況の意味するところを分析した。道院創設当初、『真経』の記述に基づき、坐功は人間の気質の改良によって劫を払う救劫の手段として位置付けられていたが、道院が世界紅卍字会を組織し慈善事業に乗り出した後は、坐功と慈善の二つが救劫の手段として定められた。しかし、一九二八年南京国民政府による打破迷信・廟産興学政策の一貫で、道院が「迷信機関」として取り締られ、下部(かつ外部)組織世界紅卍字会のみが団体認可を受けると、救劫論の強調点に変化がおこる。劫は、原因(災害源となる悪気)と結果(実際の災害)からなり、結果を救う対処療法である慈善よりも、原因を解消し結果をも軽減させる坐功の方が、救劫の手段として優れていると説くようになったのである。それは、社会的には慈善事業のみが認められ、道院の活動は迷信として禁じられたという現実の緊張が教説に反映したものと考えられる。従来の研究では、道院の救劫論は、慈善と坐功を手段としており、特に慈善が救劫の主要な手段だと解されてきたが、一九二八年以降の道院では、むしろ坐功等の実践・儀礼の方が慈善以上に重要であると認識されていたのである。ここで注目すべきは、非社会的な実践である坐功を、社会的な実践である慈善事業以上に、社会の救済に役立つと教義の中――つまり内向きに――で強調したことの意味である。それは「宗教」に公益性を要請する社会の心性が、彼らにも共有された結果だったのである。

 第四章では、中華民国期の代表的な慈善団体に数えられる世界紅卍字会の慈善論、特に慈善の意義付け、活動の動機づけを、宣言文、教義書や乩文集といった資料に即して考察し、併せて道院・世界紅卍字会における個人的救済のあり方を紹介した。世界紅卍字会は、戦争・災害の救済から、平時の教育・福祉施設の運営まで、慈善事業に注力したのだが、一方で慈善を不完全な救済方法だとする言説を繰り返していた。それは競合する他の慈善団体――特にモデルにした赤十字社――と差別化をはかる対抗の論理として持ち出されることが多かった。世界紅卍字会は、自らの優位性の根拠として道院による教化が伴うことを強調しており、慈善のみでは救済として不完全だと主張したのである。一九二八年に道院が取締りを受け、監督慈善団体法により、慈善活動を布教に利用することが禁止されてしまった後も、慈善の内容的不備について語ることを止めなかった。しかし、その一方で、自らの「真実性」を社会に訴えるには、慈善という非「宗教」的価値を通じて行う以外にないという「以慈興道」説をも打ち出してもいる。それは、また「善挙」に代わる新たな語として社会に定着していった「慈善」という語の概念内容が、脱「宗教」的なものとして合意を形成していく過程の一断面としても捉えうる。

 第五章では、道院・世界紅卍字会における宗教一致の主張である五教合一論の時代的特徴を検討し、そこに見える「宗教」論から、「宗教」という論争的な概念を同団体がどのように受容・超克しようと試みたかを考察した。中華民国期における科学主義的「宗教」批判は、新文化運動以降盛り上がりを見せ、反宗教・キリスト教運動を経て、南京国民政府の宗教政策方針として結実した。五教合一論の先駆的著作として知られる『息戦論』では、第一次大戦という科学主義の失敗を、宗教の融和・一致によって挽回しようという「宗教」批判への対抗のレトリックが見られた。道院の五教合一論も、同様のレトリックをもって、「宗教」批判や自団体に向けられた「迷信」批判に対抗する場合もあったが、そこには独自の主張内容が見出される。それは、道院は、「宗教」の「迷信性」、排他性を捨て、諸「宗教」に共通する「真理」を取った「超宗教」であるから、「宗教」に向けられた批判には当たらないというものだった。彼らの五教合一論は、「宗教」批判を介して受容した批判的な「宗教」概念を内面化させつつ、なおも「宗教」批判を相対化させるために「普遍的」価値に訴える戦略を取った言説と要約できる。

 終章では、「宗教」・「迷信」概念との格闘を通じた教義形成という視点から全体をまとめなおし、批判的「宗教」概念の内面化によって、自らの「真実性」の根拠を非「宗教」的な価値に訴えざるを得ないことの「近代性」、そして「今日性」について指摘した。