当論文は、英語圏において、ミュージアムにおけるコミュニケーション概念がいかに理解されようとしてきたのかを明らかにすることを目標としている。本稿では、ミュージアムを通して来館者が意味を生成する多様なプロセスを「ミュージアムコミュニケーション(museum communication)」と名指すわけだが、同概念の歴史的な変遷を描く。とりわけ、1920年代以降の北米、イギリスの主要なミュージアム雑誌を分析対象としながら、そこに反映されたミュージアムにおけるコミュニケーション概念が、各時期のミュージアムを取り巻くメディア環境、社会情勢、学術的思潮といった異なる文脈の変化に応じて、いかなる言説上の布置を占めるにいたったのかを示す。そのうえで、従来以上に来館者とのコミュニケーションのあり方に注目が集まる現代のミュージアムにおいて、ミュージアムコミュニケーションの記述、分析を可能にする、新たな方法論的枠組みを提案するのが最終的な目標である。以下、順に各章の概要を紹介する。

 第一章では導入として、ミュージアムコミュニケーションを「問うこと」の意味とその重要性を明らかにする。というのも、同概念は日本ではミュージアムのアウトリーチといった認識が未だに根強いが、実際にはその理解を巡るせめぎ合いそれ自体が、ミュージアムの社会的役割の変容と表裏一体の関係を成してきたからである。ところが、本稿が対象とする英語圏のミュージアムにおいても、同概念の理解は「学習-消費」の硬直した二分法に基づく枠組みを越えるものではなかった。そこで上記に対して、英語圏のテレビの視聴者研究の方法論を参照にしながら、同概念が理解される過程へと定位することで、その背景にあるミュージアム観の変遷自体も明らかにするという本稿の方法論上の固有性を提示する。

 第二章では、1930~1940年代の北米のミュージアムを取り巻く環境に注目する。1970年代にいたるまで、ミュージアムにおけるコミュニケーション概念への問いは主として北米を中心に提起されていくが、その前史としての位置づけを明らかにしたい。北米では、1950年代に当時のメディア・テクノロジーを背景としたメディア論的想像力の発露、1970年代に行動主義心理学の影響下でのコミュニケーション概念の規格化という二つの転換期を経験することになるが、それぞれその土壌となる、ミュージアムと地域メディアの協調関係、来館者の行為を理解する理論枠組みとしての心理学の導入が、1930年代から緩やかに進行していたことを確認する。

 続く第三章では、1950年代に急速に北米のメディア環境が変容していくなかで、ミュージアムにおいても、「コミュニケーション」概念が見出されていく過程を描く。北米の1950年代は、カラーグラビア印刷による雑誌流通の拡大や、白黒テレビの受像機の世帯所有率の大幅な上昇など、ミュージアムも含め社会全体のコミュニケーションのあり方が変化を続けていた。このような背景から、ミュージアムもまた、新たな電子メディアを広報利用といった実践の水準で理解するだけではなく、「視覚コミュニケーション」に代表される当時のコミュニケーション観との比較や、マーシャル・マクルーハン(Marshall McLuhan)らのメディア論の参照を通じて、自身が提供するコミュニケーションを再定義しようと試みていたのである。

 このような当時のミュージアムコミュニケーション論の一つの到達点が、ミュージアムコンサルタントであり、ミュージアム研究者でもあったダンカン・キャメロン(Duncan F. Cameron)の「コミュニケーションシステムとしてのミュージアム」(1968)である。彼は、ミュージアムを個々の展示物を最小単位とした視覚的な言語システムとして把握することで、ともすれば拡散しがちだった1950年代のメディア論的な想像力に対して、一定の理論的枠組みを与えることに成功した。一方で、1960年代から1970年代にかけては、ミュージアムの社会教育施設としての側面が強調されていく時期でもあった。特に、1965年の「初等・中等教育法」は強い影響を及ぼした。なぜなら、同法により学習成果の測定が義務づけられたことで、元々教室での学習に利用されていた行動主義心理学に基づく評価調査が、北米のミュージアムへと幅広く導入されていったからである。結果として、ミュージアムにおけるコミュニケーション概念は、当時の「学習」概念へと接近していく。この時期の北米での一連の取り組みと、その挫折の過程を明らかにすることが、第四章の狙いである。

 ところが、この行動主義に基づく来館者調査法は、その導入に際して批判を浴びることにもなった。その批判は、大きくその「調査手法」と、その手法が前提としていた「学習概念」に向けられた。なぜなら、そもそも行動主義心理学に依拠した当時の来館者調査は、あくまで調査者が測定可能だと判断した「定量的」な指標のみが予め設定され、来館者自身の「解釈」が入り込む余地はなかったからである。同時に、行動主義の学習概念は、一方的にミュージアムから知識をすり込まれる受動的な「来館者/学習者」像を前提としており、ガードナーに代表される構成主義を支持するミュージアム研究者からの批判を招いたのである。一方でこの1980年代は、北米からイギリスへと来館者調査が導入される時期にも当たっていた。イギリスの場合には、あくまで手段として来館者調査法を導入したため、来館者を把握するための理論枠組みは、教育心理学に限らず、広く当時の記号論、メディア研究の成果を参照に議論されていく。とりわけ、レスター大学のアイリーン・フーパー=グリーンヒル(Eilean Hooper=Greenhill)は、メディア研究から能動的観衆論を援用することで、行動主義心理学が前提としていた受身の来館者像の更新を目指したのである。このミュージアムコミュニケーション概念を規定する理論枠組みが、教育学からメディア研究へと転回する過程を描くことが第五章の目的である。

 第四章から第五章への経過は、ミュージアムコミュニケーション概念の理解という観点からすれば、ミュージアムに集う具体的な「ヒト」や「モノ」を対象とした議論から、純粋な学術的関心の対象への関心の移行を意味しているのだが、そこからの揺り戻しを描くのが第六章である。1990年代から現在までの20年間に、デジタル技術が急速に発達し、ミュージアムを含め社会全域へと浸透していく。この過程で、再び技術に裏打ちされたメディア論的な想像力が回帰するわけだが、なかでも、構成主義が提唱する「主体的な学び」との親和性が高い、デジタル技術のもたらす「双方向性(interactivity)」に、ミュージアム関係者の注目が集まることになった。ところが、一方でこの双方向性は、工学的な文脈に依拠した平板な概念でもあり、むしろ、ミュージアムにおける巧妙な来館者管理技術としてのリスクを抱えたまま館内に居座ることになったのである。

 続く第七章では、前章までのほぼ一世紀に渡るミュージアムコミュニケーション概念の理解を目指した挑戦とその挫折の歴史を踏まえて、現在のミュージアムと来館者の関係性を把握するうえでの新たな理論枠組みを提案したい。前章までの議論からも明らかなように、ミュージアムは歴史的にも、現時点でも、自身の内部に配置された-もしくは来館者が館内へと持ち込む-異なる形式の「メディア/モノ」の構造体として情報の伝達を行ってきた。そこで、今までメディア研究、ミュージアム研究の両者において顧みられることのなかった、イギリスを代表するメディア研究者、ロジャー・シルバーストーン(Roger Silverstone)が1990年代に残した一連のミュージアム論-とりわけその空間性への着目-を手がかりにして、ミュージアムをメディアの構造体、「メディアコンプレックス」という枠組みにおいて理解することの有効性を提示する。

 最終章となる第八章では、当論文の意義と今後の課題を検討する。まず本稿の意義についてだが、大きくミュージアム研究とメディア研究という二つの文脈、もしくはその接点において言及すべきだろう。前者に関しては、ミュージアム研究で主流の「展示/内容」の歴史に対して、「コミュニケーション/形式」の視点から英語圏のミュージアム史を描いたことに一定の意義があるはずだ。とりわけ、ミュージアムコミュニケーションという方法に着目したことで、「ミュージアムのなかのモノ」ではなく、「ミュージアムというモノ」の形態資料学の可能性を指摘することができた。また、後者との接点では、ミュージアムの展示ではなく、むしろその展示を構造化するコミュニケーションの形式に注目したことで、ミュージアムというメディアの「空間性」という特徴を析出することができた。結果としてこの「空間性」において、メディア研究のフィールドとしてのミュージアムの位置づけが明らかになったことも、本稿の意義となるのではないか。一方で、本稿が提案したコミュニケーションの理解を導くための理論枠組みを、いかに実証研究へと接続しうるかという点は今後に残された課題であり、本章では日本のミュージアムに対しての援用可能性を示唆するに留まった。

 最後に、本稿が対象としてきたミュージアムコミュニケーション概念は、従来のミュージアム研究に支配的だった「消費」や「学習」といった所与の行為概念で対象を記述できてしまう構造それ自体を問題化するために導入された。その意味で同概念は、両者の枠組みを置換するための新たな概念というよりは、むしろその都度記述の対象を理解するに際して、理論枠組みの最適化を求める循環を促すために導入された「方法」なのである。