施蟄存(Shi Zhecun,シー・ツェツン,しちつそん,1905~2003)は中華民国期に作家・ジャーナリストとして活躍し、人民共和国期には華東師範大学教授として古典文学研究で大きな業績を挙げてもいる。施蟄存は近代中国文学の形成、発展のプロセスを生身で体験した心理分析小説の泰斗である。中学在学中に『民国日報』副刊「覚悟」や鴛鴦蝴蝶派刊行物などに小説を発表し始め、之江大学在学中に杭州の蘭社に加入し、江南地方の文学サークル・サロンでリーダーシップを発揮した。1926年、『瓔珞』に「周夫人」を発表し、西洋の心理分析的手法を初めて試みた。1929年に水沫社の中心メンバーとして、世界の新興文学に合流するという目的のもと、様々な外国文学の翻訳、出版活動への本格的参入を始めた。それと同時にハムスン、シュニッツラーらの「内的独白」という手法を駆使し、人間の内面への関心をいっそう深めていき、心理分析的手法を用いた「梅雨之夕」、「春陽」、「霧」などの作品群を創作した。

 現代中国では従来は、施蟄存が施青萍の筆名を用いて鴛鴦蝴蝶派刊行物に投稿した初期作品に対し、往々にして詳細な検討を省略した社会主義的文学論に基づく批判が行われていたので、資料に基づいた厳密な意味での施蟄存初期文学研究は成り立ちにくかった。これに加えて施自身が1928年から37年までに行った創作活動に関し、5種の小説集を以て「創作の十年」と総括し、28年以前の作品はあくまでも習作・模倣作であると主張していたこと、文学史的な記述の中で施は新文学派作家として位置づけられ、後期の文学活動への評価が初期の「施青萍」時期の評価をはるかに上回っていたために、初期作品は軽視され、目録さえ整理されていなかった。しかし施蟄存は、「創作の十年」期に先行して「廉価的麪包」(1921)ですでに人間の内面に注目し、主人公の乞食の白昼夢をめぐる複雑な心理的葛藤の描写を試みていたばかりでなく、鴛鴦蝴蝶派、新文学派の刊行物に発表した作品や、『江干集』に収録した作品で、多様な文体を試み、西洋文学的な手法を取り入れており、外国文学の紹介・翻訳に力を入れ、「新旧我無成見」(「新旧ともに異議なし」)を趣旨として創作活動を行っていたのである。

 若き施は創作活動の初期段階で人間の心理や性格を掘り下げることに興味を覚え、独自の手法を模索しており、これがその後の文学活動の基礎となったと考えられる。この初期において、彼は同人旬刊誌『蘭友』の編集活動に携わり、1923年に短篇小説集『江干集』を自費出版したほか、鴛鴦蝴蝶派刊行物に盛んに投稿しており、施蟄存の文学活動は最初のピークに至ったと考えられよう。「創作の十年」の予兆の如き作風がすでに初期創作のなかに現れており、この時期の文学活動を抜きにしては施蟄存文学の全貌は捉え難いと思われる。本稿は施蟄存の初期小説創作、社団活動などを論じることで、施蟄存の文学観の形成を解明する。特に1923年の前出のエッセー「新旧我無成見」の意味を考察することによって、施蟄存がより自由開放的な創作環境を求め、新旧の枠を打破し、文学への柔軟かつ寛容な態度を唱えたことを明らかにしたい。後の鴛鴦蝴蝶派から新文学派への移行は、「旧」文学から「新」文学への突然の転進ではなく、持続的有機的文芸活動の展開であったと言えよう。

 小論では、施蟄存の初期文学に対し、具体的なテクスト分析を行うことで、施蟄存の文学全体の流れにおける一貫した特質を探究することも目指したい。施は文学修行期に翻訳と創作という二足の草鞋を履きながら、林琴南、蘇曼殊、周痩鵑らの翻訳・創作から多大な影響を受けていた。施蟄存の作品に関してはフロイトの心理分析理論やシュニッツラー小説の影響が見られるほか、シュニッツラーの師に当たると共に、「現代派文学の始祖」と言われるハムスンの存在も無視できない。そこで中国におけるハムスン文学の紹介・翻訳の実態を考察し、中国1920、30年代の外国文学受容の一側面を明らかにした上で、ハムスンの紹介、翻訳に携わっていた施蟄存を取り上げ、施自身のどのような文学修養がそれを具現化しているのか、ハムスン翻訳が施自身の文学に何をもたらしたかなど、比較文学論の視点から解明を試みる。

 施蟄存を手掛かりとして近代中国の新・旧文学混合という複雑性ゆえに、単純な新・旧による裁断は不可能であることを示し、施の後期におけるさらに目覚しい文学活動を可能にした要因を「新旧ともに異議なし」というその独自な文学観に求めたい。

 

 具体的には、以下の四章にわたって論を進める。

 第一章では、施蟄存の初期文学活動を通じて、20年代初頭の鴛蝴・新文学両派の文学運動の実態を解明する。また当時の文学状況を考えれば鴛鴦蝴蝶派と新文学派の間には明らかな境界線は存在せず、むしろ両者が重ね合う面を持っていたことに注目すべきと考える。施の鴛鴦蝴蝶派文壇デビューの経緯を検討することにより、鴛鴦蝴蝶派を再評価し、鴛鴦蝴蝶派刊行と新文学派の間に明確な境界線を引くことの危うさを指摘する。

 

 第二章では初期施蟄存の鴛派刊行物投稿作品や、『江干集』収録の恋愛・婚姻題材の小説を取り上げて分析し、家出する「感傷者」物語の系譜を検討することによって、1923年頃の第一のピークを経て施蟄存の作風に大きな変化の前兆が現れ始めることを指摘し、施蟄存の初期文学においては旧文学と新文学の要素が調和、融合していることを明らかにする。

 

 第三章では施蟄存の社団活動を中心に検討する。最初の維娜絲文学会から、蘭社、青鳳社、瓔珞社、水沫社までの文芸結社発展のプロセスを辿り、同時に施蟄存が鴛鴦蝴蝶派において強力な リーダーシップを発揮した後に新文学派へと「転進」し、さらに水沫社など新興社団活動へと移行していく過程を鳥瞰する。特に施蟄存が新旧両派間のわだかまりに拘ることなく広い人脈形成していたことを指摘し、社会史的視点から施蟄存らの社団活動を再評価する。

 

 第四章では、施蟄存文学においては創作と翻訳とが同時進行的相互影響関係にあることを論じ、民国文壇におけるハムスン文学の紹介・翻訳状況を踏まえ、施蟄存がハムスン翻訳からどのような示唆を得たかを検討する。『現代』の編集者になることによって、自らの文学が外国文学との同時代的な一面を持つことに気付いた施は、「世界文学の同時代人」と自称しており、世界の新興文学に合流しようとする意気込みで文学活動していた。そこで施作品の「周夫人」、「春陽」を未亡人の「生の叫び」をえぐりだしたハムスン、シュニッツラー小説と比較し、施が心理分析的な手法を用いて未亡人の内的な葛藤を描く点で世界文学との共時性を有していた点を考察したい。

 

 第五章では、初期施蟄存作品に見られる人間の内面心理への注目は施蟄存文学全体に通底しており、施が翻訳文学による外国文学への共鳴によって、自らの文学を豊かにしたことを明らかにする。また広汎な伝統文学と外国文学を吸収することによって施蟄存独特の文学が生まれたという蘇雪林、呉福輝らの観点に賛同しつつ、初期施蟄存文学における鴛派への共鳴や、外国の文学手法の意識的な取り入れ方などを整理する。

 

 30年代に左翼作家の間で熱心に討論された「文芸大衆化」論争では、いかに「旧形式」を再利用するか、が盛んに議論されたが、新文学派は大衆の実際の受容能力をあまり考慮せずに自説に固執したため、大衆性を十分には有しえなかった。施蟄存は文学自体の問題に注目し、「大衆化」においては「大衆」の意味には様々なレベルがあると述べ、その中で大衆をある程度の文化基礎がある人たちと想定した。さらに、伝統的な話本、演義、伝奇の叙述スタイル及び心理分析手法を取入れながら、欧化文法を最大限に排除した短篇小説「猟虎記」、「黄心大師」を発表した。施蟄存は中国人の伝統的な文学鑑賞の習慣に配慮して、あえて叙述的な描写法を使用しており、このような試みも維娜絲文学会の主旨を想起させ、「新旧文学ともに異議なし」という文学的立場の一展開とも考えられよう。施が行った文学的な試みは、新たな大衆化小説に鴛派的な伝統スタイルと西洋文学の心理分析手法との両者を取り入れたものであり、中国文学の歴史的「連続性」の側面をうかがわせる。