1948年の独立以来、ビルマ(ミャンマー)の国民国家は土着諸民族の集合体として想像されてきた。そこから除かれたのは外来とみなされる人々であった。土着民族と外来民族の区別は国家の基本的枠組みとして現在に至るまでビルマの社会を強く規定している。本論文が問題とするのはこうした事態の植民地的起源である。視点は、19世紀後半から1930年頃にかけてのイギリス植民地期ビルマの首都ラングーン(ヤンゴン)に据えられる。本論文は、植民地期のラングーンにおいて大量の流動人口に対処するための諸制度がいかに構築されたかを検討し、ビルマの領域の内外を分かつ制度や範疇が生成される過程を明らかにする。その過程はまた、同時代の他の多くの植民地港湾都市と同様に、国際市場と後背地の双方に向けて開かれ、多様な要素から構成されるコスモポリタンな場であったラングーンが、次第にビルマ国家の閉じた枠組みの中へと包摂されていく過程でもあった。本論文はそうした変化がラングーンに住む多様な人々の生活にどのような影響を及ぼしたのかという都市社会史的関心も持ち合わせている。

構成は以下の通りである。

まず、序論では、上記の問題意識を詳述しつつ、本論文を従来の研究蓄積の中に位置づける。先行研究群と比べて本論に特徴的なことは、植民地行政による制度構築に焦点を当て、ラングーンにおける移民統治制度形成の過程で、植民地ビルマの領域が国家的な単位として立ち現れてくる局面に着目した点である。ここでは、植民地期(正確には1937年のインドとビルマの分離まで)のビルマが英領インドを構成する一地方行政体=ビルマ州に過ぎなかったことが強調される。ビルマ州においてインドから流入する大量の移民労働者は、植民地ひいては帝国の経済発展に不可欠な存在であり、安価な労働力の無制限流入が保証されるべきであると考えられた。一方、ビルマ州の統治という観点からは、無制限の移民流入は疫病や犯罪の増加といった不安要素をもたらしうるものでもあり、ある程度の移民の統制が必要視された。つまり、移民統制は帝国の経済的要請と地方行政の統治的要請との交錯する政策分野であった。ビルマ州政庁としては、移民の流入量を減らさずに、質の向上を目指す必要があったのである。本論文が着目するのは、そのような状況下でビルマ州政庁のイギリス人行政官たちが示した主体的な制度構築と行政実践のあり方である。

第一章では、本論文の舞台となる植民地期ラングーンの社会について解説する。ラングーンはインド人単身男性出稼ぎ労働者の流動性と遍在性によって規定された移民の町であり、20世紀初頭までに人口の過半数をインド人が占めるようになっていた。しかし、それは決して一枚岩的な空間ではなかった。本章の叙述では、センサスを用いた人口動態分析と同時代人の目を通した街並み景観の紹介を通じて、都市内諸地区の特徴を明らかにする。また、以下の二点を指摘する。第一に、階層については、中間層以上では諸要素が競合しつつも共存するコスモポリタンな状況が現出したものの、都市の下層においては、数的多数を占める流動的なインド人出稼ぎ労働者とビルマ人を中心とする定着的な家族居住者という二極的な状況が見られたことである。第二に、空間的に見れば、インド人の集住地域が都市中心部から周縁に向けて拡大していく傾向が見られたことである。こうした舞台設定をすることで、インド人移民に対する統制が、単に水際での管理の問題に留まらず、ラングーンという重要な都市全体の統治に関わる事柄であったことを示す。

以下の第二章から第四章では、史料として主に植民地行政文書を用いて、それぞれ公衆衛生、警察、都市計画の各分野について、ラングーンに生じた問題とそれへの行政的対応を検討する。

第二章は、公衆衛生政策、特にラングーン港における強制種痘政策に着目する。インド人労働者の大量流入によって都市核心部の労働者集合住宅に異常な過密状況が現出した。これがビルマ州政庁によって疫病流行の元凶とされ、移民労働者の衛生管理が焦眉の課題となった。港での強制種痘はその象徴的政策であった。同政策は、19 世紀末に議題に上ってから紆余曲折を経て、1910 年代半ばに制度的に定着した。1920年代末には、あらゆる入港者に対しても身体検査と種痘を強制できる自由裁量権が港の衛生担当官に付与され、主にインド人労働者を標的とした包括的衛生管理制度が構築された。本章では、海港強制種痘の制度化の過程で、安価な労働力を確保したい資本家層と統治を重視するビルマ州政庁との間に利害対立があったことを指摘し、後者の主張を正当化するためにインド人を人種的・文化的に不衛生だとする人種差別言説が多用されたことを明らかにする。また、強制種痘政策と政庁による人種差別に反対したインド人ナショナリストの対抗言説も取り上げることで、人種や階級や科学が様々なアクターによって戦われる論争の焦点になっていたことを示す。

第三章では、外来犯罪者のビルマ州外への追放を可能とする制度の構築過程に着目する。19 世紀末に、ラングーン華人街における秘密結社の犯罪性が認識されると、ビルマ州政庁はラングーン市警察に先進的な海峡植民地から専門の行政官を招聘することによって華人取り締まりのための制度移植を試みた。その結果として不良華人に対して導入された追放策が、1920 年代後半までにその対象にインド人犯罪者をも含むかたちへと拡充されていく。植民地期、特にビルマがインドから分離される以前には、同じ英領インド内の英国臣民としてインド人とビルマ人は法的に区別されなかった。しかしながら、外来犯罪者追放のための法律の制定過程で「非ビルマ人」という範疇が設定され、本国インド省の不本意にもかかわらず、インド人を華人ら外国人と同列に扱うことが可能になった。本章は、この法律によって、英国臣民であってもビルマ州に帰属する者と帰属しない者が法的に区別されるようになったことを重視する。

第四章では、1921 年に設立された都市計画機関であるラングーン開発トラストの理念と実践を検討し、その都市下層民への影響、特にインド人とビルマ人の関係への影響を考察する。20世紀初頭までに、都市核心部の縁辺ではビルマ人を中心とした定着的な家族居住民の一戸建て家屋の密集という核心部とは別様の過密問題が観察された。近代的都市空間の拡張を図るビルマ州政庁は、そうした家屋の密集地をスラムと名指すことで駆逐の対象とし、空いた土地を造成して移民労働者を収容する集合住宅の用地に充てる政策をとった。その政策を1920年代に強力に推し進めたのが開発トラストであった。結果として、定着的に暮らしていたビルマ人都市下層民が次第に中心からより遠く離れた悪条件の場所へと追い出されていく構造が生まれた。この過程で1920年代のビルマ語新聞紙上には、「不衛生」なインド人労働者こそが郊外へ駆逐されるべきだという主張が登場した。本章は、これらの事実を指摘した上で、1920年代の居住地をめぐる人種・民族間の利害対立の延長に、1930年にラングーンで発生した大規模な反インド人暴動があったという示唆を提出する。

以上の各章を踏まえて結論では、1920年代までにビルマをインドとは別個の領域的枠組みとみなし、ラングーンの流動的な社会にその枠組みを当てはめ強制する諸制度が形成されたことを論じる。それらの諸制度は、防疫や防犯といった統治理念を掲げ、近代的都市空間を現出させるべく、本国や他の植民地の制度を参照して練り出された。他方で、それらの諸制度はイギリス人行政官たちの人種的偏見を含みこんでおり、かつ権力の恣意的な行使を可能とするものであった。こうした諸制度に基づいた植民地権力による日常的な統治実践の積み重ねによって、ビルマ州の領域性が高められるとともに、ビルマに帰属する者と帰属しない者という範疇が人々の生活に刻み込まれていったと考えられる。しかし、ここに現れたビルマとインドを区別する枠組みはあくまでもビルマ州政庁の実務上の要請から設定されたものであり、その前提には帝国への貢献を最優先する植民地主義の都合が存在していたことに注意すべきである。植民地主義による国家枠組み設定のあり方は、ビルマらしさの「固有性」を主張するナショナリズムの想像のあり方とは次元を異にしていた。そのため、ラングーンにおける移民統治の諸政策は、ときにビルマ・ナショナリズムと親和的に作用し、ときにビルマ人に対する抑圧として現れながら、次第に人種間の溝を深めることになった。植民地期を通じた植民地主義とナショナリズムの相互作用によって、「領域に基づく国家」の像と「人種・民族に基づく国民」の像はずれを含み込みながら重なり合い、土着民族と外来民族を区別する独立ビルマの国家枠組みを形作っていったと考えられよう。