本論文はエトムント・フッサール(1859-1938)の倫理学を主題とし、彼が「よく生きることとは何か」という倫理学の中心的な問いにどのように取り組んだのかを明らかにすることを目指す。フッサールは倫理学に関する体系的な著作を残さなかった。そのため、彼の倫理学を研究する際には、いくつかの講義や論文で展開している倫理学的考察を手がかりにすることになる。とはいえ、それらを個別に取り上げ、単純に結び合わせただけでは、フッサール倫理学が全体としてどのような倫理学なのかを明らかにするのは難しい。そのため本論文では、彼の思想の変化よりもその一貫性に注目し、可能なかぎり体系的な理論を再構成しようと試みる。

フッサールの倫理学は合理主義的な色彩を強くもっている。彼の基本的な考えによれば、よく生きることは理性的に生きることである。したがって彼にとっては、理性的に生きることがいかなることなのかを明らかにすることが、倫理学の主要な課題をなすことになる。そして、彼が『イデーン』第一巻(1913年)で述べるところでは、理性的であることがどのようなことなのかについての体系的な解明は現象学全体と一致する。しかし、本論文はフッサール現象学全体を扱うものではない。直接の主題はあくまで、道徳的な善さについてフッサールがどのように考えたのかという点に限定される。ある人や行為が道徳的に善いものであるということは、どのようなことなのか。道徳的な善さは私たちの生き方に対してどのような関わりをもつのか。こうした問いに対する彼の中心的な考えを要約するなら、何かが道徳的に善いとはいかなることなのかを問うことは、道徳的な善さが意識のうちでいかにして構成されるのかを問うことにほかならず、このことはすなわち、道徳的判断はどのような条件のもとで正しいものになるのかを問うことにほかならない、ということになる。このフッサールの立場は、彼の哲学全体の構想を反映であると同時に、価値や行為についての個別的な考察の帰結でもある。この立場がどのように根拠づけられ、いかなる意義をもつのかを明らかにすることが、本論文を貫く課題である。

善さがいかに構成されるのかを探究するというフッサールのアプローチの意義と正当性を明らかにするためには、彼が価値というもの一般についてどのように考え、また「構成」ということで何を考えていたのかを論じなければならない。本論文はしたがって二部からなる。道徳的な善さがいかにして構成されるのかを直接に論じるのは第二部である。第一部ではその前段階として、価値一般に関するフッサールの理論を検討する。構成という概念そのものについても第一部の中で論じる。以下、各章の概要を述べる。

第一章では、あるものに価値があるとみなす作用、すなわちフッサールのいう評価作用について、『論理学研究』(1900/01年)の彼がどのように考えていたのかを論じる。評価作用を非客観化作用の一種とみなす同書の立場は、対象が現実にもつ価値と私たちの評価作用の間の規範的関係を扱うことができないという問題を抱えており、価値の領分における正当性に関する探究の障害となる。こうした『論理学研究』の問題点が、後にフッサールに評価作用の志向性を再考するよう迫り、また彼を価値の構成分析という課題に向かわせる一因になったのである。

第二章では、1907年頃からフッサールがとりはじめた超越論的観念論という立場と、その核心をなしている構成概念について論じる。超越論的観念論とは、対象が現実に存在するということの意味をめぐる独特の立場である。作用の分析を通して対象がいかに構成されるのかを探究するという超越論的現象学の基本的なアプローチは、この超越論的観念論によって可能になっている。価値の構成分析についても同じことが言える。つまり、超越論的観念論は、フッサールの倫理学をも決定的な仕方で方向づけているのである。この超越論的観念論がどのような立場であり、どのような根拠と帰結をもつのかを明らかにすることが、この章の課題である。とりわけ、超越論的観念論が形而上学的な意味での観念論ではなく、また常識的実在論を排除するものでもないというフッサールの主張の含意や、作用の正当性条件の解明としての理性の現象学と超越論的観念論との間の関係を論じる。

第三章では、フッサールの価値論に大きな影響を与えたブレンターノの価値論を取り上げる。何かが価値をもつということを、それに対する情動の正しさによって分析するというブレンターノのアプローチは、フッサールによる価値の構成分析と近い方向性をもつ。そのため、両者の間にどのような違いがあるのかを明らかにすることは、フッサールの価値論を理解する上で重要である。またこの章では、ブレンターノの価値論が情動の正しさを説明する際に直面する困難な問題についても論じる。結局のところ、ブレンターノの価値論は失敗に終わっていると見なさざるをえない。その失敗をいかに乗り越えるかが、フッサール価値論にとって一つの課題となる。

第四章では、以上で論じた前提と背景を踏まえた上で、フッサールによる価値の構成分析そのものの内実を検討する。価値がいかにして構成されるのかについての探究は、価値を与える作用の分析を通してなされる。価値を本来的に与える作用を、フッサールは「価値覚(Wertnehmung)」と呼ぶ。それがどのような意識の働きとして理解されるべきなのかを考察した上で、価値の構成分析が結局のところ何をどのように分析するものなのかを明らかにする。結論を一言で言うなら、価値覚は感情にほかならず、価値の構成分析とは感情の正当性条件の解明にほかならない。この見解にもとづいて、フッサールの価値論が直面する課題と、その可能な解決方法について検討する。以上が第一部である。

第二部に入って第五章では、第一部で検討した価値一般に関する理論にもとづいて、フッサールの道徳哲学の基本的な立場について論じる。フッサールによれば、倫理学の本来の主題は道徳的な問い、すなわち「何をすべきか」、「どのように生きるべきか」という義務に関わる問いである。彼は価値一般について論じるだけでなく、道徳的義務とそれについての判断(つまり道徳的判断)についての理論を展開しており、本章ではこれについて検討する。道徳的判断に関する一般的な予備考察に続いて、まずはゲッティンゲン時代の倫理学における道徳的判断の理論を取り上げる。この時期のフッサールは、価値の比較衡量にもとづいて最善のものを選びとる判断が道徳的判断だと考え、この意味で道徳的当為を価値に還元している。この立場において未解決のままに残される「なぜ理性的に行為することが道徳的に善いのか」という問いに対して、フッサールは後に『改造』論文(1923/24年)で別の角度からふたたびアプローチしている。本章の後半では、同論文を主に解釈しながら、彼の合理主義的な道徳哲学の内実を取り出すことを目指す。そこでは、あらゆる態度決定を洞察的に正当化するという理想を目指す態度が道徳的な生き方の本質をなすとされ、道徳の根拠に人間の実践的反省能力が置かれている。

第六章では、自ら展開した合理主義的倫理学に対するフッサールの自己批判を取り上げる。後期の倫理学的考察の中で、彼は人間の生につきまとう不合理性・事実性に目を向け、それが合理主義的倫理学にとって脅威になると考えた。この章では、そうした自己批判がどこまで適切なのか、そして道徳哲学におけるフッサール的合理主義がどこまで維持できるのかを論じる。結論だけ述べるなら、生の事実性にまつわる問題は、フッサールが考えたほど大きな脅威にはならない。むしろ、生の事実性を考慮に入れることによって、フッサール倫理学は、合理主義的な立場を維持したまま、より現実に即した豊かなものになるのである。とりわけ重要なのは、後期の自己批判を通じて、個々人の生き方の一貫性に関わる自己理解、すなわちアイデンティティの理解が、道徳的な生き方の説明において重要な位置を占めるようになるという点である。以上が第二部である。

本論文が明らかにしたことを要約すると、以下のようになる。倫理学に関するフッサールの考察は、二つの大きなテーマをもつ。一つは超越論的観念論を背景とした価値の構成分析であり、もう一つは実践的反省能力を根幹とした道徳哲学である。よく生きることについてのフッサールの理論は、これら二つのテーマに関する考察を不可欠な部分として成り立っている。前者は、対象が現実にもつ価値が、対象について私たちが下しうる評価に、ひいては対象に対して私たちが抱きうる感情に、必然的に結びつけられていることを明らかにする。そして後者は、道徳的な善さが、「何をなすべきか」あるいは「どのように生きるべきか」という問いをめぐる私たちの可能な熟慮と、それを経て下される可能な道徳的判断に必然的に結びつけられていることを明らかにする。また、フッサールの道徳哲学は個別的な状況での熟慮にのみかかわるのではなく、人間的行為者のアイデンティティや人生の意味といった主題にも踏み込むものである。