本論文は、近世日本の「礼楽」と「修辞」に関して、荻生徂徠以後の思想潮流に焦点を絞って考察した。「礼楽」と「修辞」とは荻生徂徠の学問において密接な関係にあるとされ、本稿ではこの二つを「接人」の制度構想という観点から分析した。「接人」は伊藤仁齋や荻生徂徠の著作に見える語で(「接人上」、「接人之間」)、「人に接(まじ)はる」と訓じられる。本稿では、この語にちなみ、従来の研究において「他者との関係」といった言葉で称されてきたものを「「接人」の領域」と呼ぶことにした。

 仁齋と徂徠は、万人の心に同一の完全な道徳性が具わるとする宋学の教説を批判し、人間関係の問題に目を向けた。仁齋学の「他者との関係」の重視は、従来の研究においても繰り返し指摘されてきた。そこで、序章では、『論語』の財物の譲与を願う話の解釈を手掛かりに、先行研究を紹介しながら、仁齋と徂徠の「接人」の領域に対する見方の相違を明らかにした。仁齋が「接人」の領域での個人の態度や心構えを論じるのと異なり、徂徠は「接人」の領域に制度や型を設けることを説く。本稿は、徂徠に始まる、「接人」の領域への操作的介入を唱える思想の流れを分析対象とする(序章)。

 第一部では、徂徠以後の「礼楽」をめぐる思想を検討した。

 荻生徂徠は「職分」論や都市の「風俗」形成を主な思想的資源として、宋学とは懸け離れた独自の「礼楽」論を構築した。それは、「礼楽」の抽象的な「本体」の存在を否定し、「礼楽」を「安天下」のために編成された、それぞれ異なる機能を有する一揃いの「道具」や「術」であると考える。

 徂徠は、古代中国の「井田」制の根幹は「土着」にあると解し、それは人間関係の固定化により、他者への強い配慮を喚起する「術」であると考えた。彼は、同様の見地から、武士の譜代奉公人の再興を唱える。「めんどう」な奉公人との日々のつきあいの中で、武士は被治者を見捨てず、領導する統治者の「徳」を養う。徂徠学における統治者は、固定的な人間関係の中で、並外れて他者に配慮的に行動するように仕立て上げられた存在である。「聖人」は「徳」の培養のために「接人」の領域において人々に負荷をかける一方で、人間関係を円滑にするためにも種々の「礼楽」を設けていたと徂徠は見る。徂徠にとって「接人」の領域は一貫して操作の対象なのである(第一章)。

   徂徠に激賞された「神童」水足博泉は、徂徠の「礼楽」論に示唆を受け、「器」(道具)を基軸とする先鋭的な統治構想を描いた。博泉によれば、古代の理想時代において、「接人」の領域は、「聖人」が制作した道具(「器」)によって、その秩序が明示され、維持されていた。礼楽で用いられる道具は、人々の心の動きを観察可能にし、相互監視による規律化をもたらす。道具の美しさに惹きつけられた人々は、抵抗することなく、かかる規律化に自ら身を委ねる。また、このような相互監視の機構を支えるために「聖人」は「学校」を建設した。「小学」では全ての身分の男子が文明の悪影響を除去され、純真無垢になる。「大学」では将来の統治者たちが、「器」を通じて心の微細な働きまで調律される。博泉は、このような統治構想の実現を京都の禁裏に期待した(第二章)。

 徂徠学派の儒者、田中江南は、古代中国の遊戯であり、「礼」である投壺を復興した。悪しき娯楽の駆逐を名目に掲げ、投壺普及を企図した江南は、投壺礼の改定に取り組んだ。その際、彼は「東照神君」(徳川家康)を「聖人」に比定し、徳川公儀には「礼楽」が存在すると説いた。また、伊勢に寄寓した彼は、内宮権禰宜の荒木田尚賢に「神道」の再興と「学校」の建設を提言している。「神道」を統治術と見做し、その「神道」を盛んにするために、社交と遊芸の拠点であった古代の「学校」の再興が必要であると彼は主張した(第三章)。

 後期水戸学を代表する思想家である會澤正志齋の学問は、徂徠に始まる一連の「礼楽」論の集大成であるといえる。正志齋は、仁齋と徂徠の影響を受け、宋学を批判し、「接人」の領域を重視する。稀覯の徂徠の著作の議論を踏まえながら、正志齋は「天朝」(禁裏)の「礼楽」の「深意」を探り、「忠孝」を鼓吹する巧妙な「礼」として禁裏の儀式を再発見した。正志齋は、徂徠と異なり、現今の統治体制は卓越した「礼楽制度」をそなえていると考える。また、「西夷」の教えにも「礼楽」の類似物があると見ていた。徂徠以後、統治術としての「礼楽」を様々な統治体制の中に認める議論が存在し、正志齋もそのような議論の流れに連なっている(第四章)。

 第二部では、「修辞」の問題を取り上げた。

 徂徠は、古代の統治者は、「詩」を通じて立場ごとの典型的な感情のあり方を理解し(「人情」理解)、また「詩」の一節を「断章取義」するなど、共通の教養を踏まえた婉曲な表現を用いて交流していたと考える。徂徠学派の文学は、このような古代の統治者の言語活動の再現であった(第五章)

 徂徠は、古代の統治者の言語活動にのっとり、文学の制度設計を行おうとした。詩文の刷新を通じて、「接人」の領域への介入を試みたのである。明詩注釈の『絶句解』は新たな文学の制度の一翼を担う書物として編纂された。田中江南の『唐後詩絶句解国字解』は本書の優れた注釈である。『唐後詩絶句解国字解』によって、徂徠学派が「趣向」の文学として明代の古文辞派の詩を鑑賞していたことが分かる(第六章)。

 徂徠の文学領域における制度構築は結局、彼の計画通りにはいかなかった。彼の著作はなかなか出版に至らなかったのである。徂徠が編纂した文章選集である『四家雋』は板株(出版権)をめぐる書肆の紛争にまきこまれ公刊が遅れた。『四家雋』の代わりに、李攀龍の書簡を集めた『滄溟先生尺牘』が初学者の文章入門書として盛んに読まれた。該書の流行は、文人間の交流を活発化させる一方で、古文辞派の詩文や徂徠学に対する浅薄な理解を助長することになった(第七章)

 徂徠は、古代の「聖人」たちは天下の安寧の実現のために、統治者の言語表現の型を制定したと考える。「詩」の引用は、その中で描かれた、統治において配慮すべき「人情」を相手に理解させる効果がある。また、共通の知識に根差した婉曲な表現は、「直言」と異なり、聞き手の自発的な理解を促し、統治者間の軋轢の緩和に繋がると徂徠は考えた。

 道理による説得よりも、「詩」を詠ずる方が相手の理解を得られるという徂徠の論は、賀茂真淵や本居宣長に影響を与えた。本居宣長は、「ありのまま」の心情を詠んだ和歌こそが相手の共感を得られる言語活動であると考えた。歌を通じて人々が他者を思いやり、共感するようになれば、美しい秩序が現前すると宣長は説いた。

 一方で、富士谷御杖は、「理」を説くことも、「情」を「ありのまま」に吐露することもともに否定した。「直言」は語り手の自己陶酔や優越感が伴い、聞き手は必ずそれに反発すると考えるのである。古代の天皇はかかる心の働きに気づき、「比喩」や「倒語」といった表現技法を定めたと御杖はいう。

 近世日本の広義の「修辞」をめぐる思想には、宣長に代表される感情の流露から文彩が発生したと見る「自然」の文彩論と、徂徠や御杖のように古代の聖王の手によって文彩が制定されたと考える「作為」の文彩論の二つが存在した(第八章)

 統治機構から言語活動に至るまで様々な経路から「接人」領域へ介入を試みる思想の流れは、江戸後期になると傍系化し、近代日本へ与えた影響は限定的である。しかし、彼らの透徹した思想は、なおもって顧みる価値があると思われる(終章)。