本論文の研究目的は二つある。第一の研究目的は、ガラス製品を通じた弥生社会の分析である。一括して扱われることの多い弥生時代のガラス製品を分析、分類を行い、その時代的変遷や分布などを明らかにした上で、それを基に、弥生時代におけるガラス製品の所有や副葬の様相を分析し、その背後にある集団の意図や行動、また集団間の交流など、弥生社会の様相に新たな考察を行うことである。第二の研究目的は、ガラス製品から見た弥生社会とアジアの対外交渉の検討である。弥生時代のガラス製品の様相を明らかにした上で、列島外のガラス製品と比較検討していくことで、弥生社会の対外交渉を、ひいてはアジア全体の交流をより明らかにしていくことを目論む。

1部では、弥生時代におけるガラス管珠・勾珠・小珠・釧・璧の様相を個々に検討、その背後にある弥生社会の諸相を考察した。

1章では弥生時代のガラスに関する研究史をまとめ、さらに金属と異なるガラス独自の特性や、化学分析に見られる研究上の問題点について注意を示した。

2章ではガラス管珠・勾珠の分類を行い、その地域的・時期的な変遷や分布を検討することにより、それらの背後にある弥生社会の様相を明らかした。特にこれまで漠然と言われてきたガラス管珠とガラス勾珠の所有における政治性について、中期後葉の北部九州の須玖岡本・糸島を中心とした地域と、後期後葉から終末期の丹後を中心とした北近畿にそれが存在したことを明らかにし、この時期の弥生社会においてガラス管珠・勾珠は単なる装飾品ではなく、権威の象徴として、また政治的な紐帯を示すものとして、その副葬は重要な役割を担っていたことを明確に示した。

3章ではガラス釧を検討、大きく二系統に分類し、それらが列島内の釧の系譜に連ならず、搬入品であることを明らかにし、各地の首長が独自に大陸と交渉して入手した可能性が高いことを示した。

4章では北部九州の中期後葉の墳墓から出土する、ガラス璧の舶載の様相を明らかにし、弥生社会におけるガラス璧の意味と、漢帝国の当時の北部九州の国々に対する認識を考察した。特に中国における璧の副葬の比較から、ガラス璧はこれまでの研究で考えられたように単なる倣玉品ではなく、独自の価値を持つ品であること、またその壁としての“格”が低くは無いことを指摘した点は重要である。そしてガラス璧は蕃国の王への下賜品として不適切なものではないことを示した。結果、ガラス璧は王への葬具として下賜されたものであることを再確認し、漢帝国は「イト」「ナ」を蕃国の王として認識しており、その下賜の背景には君臣関係を強固にするという意図が存在していた、と論じた。またそのガラス璧の副葬の様相から、「ナ」「イト」の「王」はガラス璧の重要性を充分認識していた、と指摘した。

5章ではガラス小珠の様相をまとめ、以前から指摘されている小珠の色調構成に見られる地域的な差異の背景や、小珠の流入量の変動の地域的な差異の背景を考察し、列島外の動きの影響だけでなく、列島内の地域間の交渉による影響をも検討すべきであることを指摘した。

これらの研究より、弥生時代の国内、特に西日本におけるガラス製品の様相や所有、副葬の様相を把握することができた。中でも中期後葉の北部九州、後期後葉から終末期の山陰・丹後の三地域は特徴のある様相を示しており、終章ではこれら三地域を中心に、ガラス製品全体の様相とその背景にある社会の動きについてまとめを行った。いずれの地域でも、独自に対外交渉を行った中でガラス製品を入手したと考えられ、これらガラス製品は、首長の権力基盤を示す外部社会の威信を象徴する財であったこと、特に北部九州と北近畿の丹後においては、首長達の新たな支配体制と紐帯を示すものとして所有・副葬されていたことを論じた。またこの二地域が舶載ガラスを改鋳したガラス勾珠を最重視した点は、権力基盤の拠り所を示すガラスと、国内において高い政治性と象徴性を持つ勾珠の形態、という二つを融合することができ、二重の意味で高い象徴性を持つことができたためと考えられ、ガラスならではの可塑性の高さを活かした政治的行為であると指摘した。また、列島内における各地域集団の交易やつながりについても、ガラス小珠について丹後を中心とした様相が浮び上がるが、それはこれまで注目されてきた鉄製品の交易モデルとは必ずしも一致しない可能性を示した。最終的に、これら弥生時代のガラス製品は、交易を基盤とした貴重品財政とその社会の、隆盛と衰退を明白に示す遺物であると論じた。

2部では弥生時代併行におけるアジアのガラス製品の様相をまとめ、弥生時代のガラス製品との対比を行い、弥生社会の対外交渉の諸相について考察を行った。

1章では朝鮮半島の弥生併行期におけるガラス製品をまとめ、形態を分類し、その製作地の推定と弥生のガラス製品との関係を検討した。無文土器時代のガラス管珠は朝鮮半島における製作が想定されてきたが、本論でも当該地から弥生社会に搬入されたと考えられる結果となった。しかし原三国時代のガラス管珠については、これまで推定されてきたような朝鮮半島における製作を想定する事は困難であり、今後製作地を検討する必要があること、さらに中国から朝鮮半島を経由して日本に搬入されたという想定も困難である、という結論に至った。一方原三国時代のガラス曲珠は、当該地における製作と日本からの搬入という二説が存在したが、日本からの搬入品であることを明らかにした。

2章では中国の戦国時代から漢代におけるガラス管珠の出土品を検討し、それらと弥生時代のガラス管珠との関係について検討を行った。中国のガラス管珠については、各時代の特徴やガラス管珠の系譜といった、これまで漠然としていた全体的な様相をある程度明らかにすることができた。さらに弥生時代のガラス管珠との比較検討の結果、弥生時代中期後葉以降に見られるガラス管珠のタイプの大半が、併行期の中国に存在していることが判明した。特に楽浪土城におけるWE東山タイプのガラス管珠の製作の可能性から、このタイプの管珠を入手していた後期の弥生社会の首長達が、漢帝国と公的なつながりを持っていた可能性を示唆する結果となった。一方で、当時の漢帝国における活発なガラス製品の流通の様相と、弥生社会におけるガラス製珠類の豊富さと多様性から、漢帝国のガラス製品交易網の末端に弥生社会が属していた可能性も指摘した。

3章ではガラス小珠を中心としたカリガラス製品について、東アジアを中心にその分布や形態などについて検討を行い、これまで漠然と言われてきた中国南部におけるカリガラス製品の生産・製作がより確実であることを論証した。さらにこれらカリガラス製品が汎アジア的に広がる背景には、漢帝国の拡張や活発な経済活動があることを指摘し、カリガラス製品が広く古代アジアの交易交渉を示す、貴重な証拠であることをあらためて明示した。

4章では中国の戦国時代から漢代にかけてのガラス製品の鉛同位体比の分布とその意味をまとめ、その上で弥生時代のガラスの鉛同位体比と比較することにより、流通や交渉において新たな所見が得られるか検討を行った。当該期の中国のガラスについては、広範囲の多様な鉛鉱山の鉛が各地で使用されており、鉛同位体比から製作地と遺物を結びつけることが困難であるという結果が得られた。次に弥生時代のガラス製品の鉛同位体比との比較検討においては、そのような鉛の広範囲の流通の中で、斉一的な鉛同位体比が示す意味を改めて検討した。これにより、中期後葉の北部九州にみられる斉一的な鉛同位体比を持つガラス璧・管珠・勾珠について、下賜品とその改鋳品という考古学的に検証してきた推論を、鉛同位体比が裏付ける結果となった。一方後期のガラス製品の鉛同位体比は非常に多様で、漢代のガラス製品の多様さを反映する様相にあることが明らかとなった。しかし中国古代のガラス製品は鉛同位体比から製作地と遺物を結びつけることが困難であるという結論により、弥生時代のガラス製品の搬入先についても、鉛同位体比から考察することは難しいことが判明した。

これらの研究から、弥生時代併行期のアジア社会のガラス製品の様相が、かなりの程度あきらかとなった。終章においてはこれまでの研究をまとめ、弥生社会のガラス製品の様相やその他の搬入品、そして弥生社会の動向、アジアのガラス製品の様相と漢帝国の動向など、多角的な方面から、弥生社会の対外交渉の様相とその大陸の窓口についてまとめを行った。

弥生時代中期に関しては、北部九州の二つの地域が、大陸からの働きかけの中で、東アジア社会とのつながりを深めていく動きが、ガラス製品の様相から示されることを指摘した。さらにそのような対外交渉の活動の中にも、すでに多層的な接触があることを示した。

また弥生時代後期については、中国や朝鮮半島アジアのガラス製品の様相から、楽浪郡域が弥生社会、特に北部九州と北近畿の対外交渉の中心的な窓口であったことを論じ、公的だけでなく多層的なつながりがあった状況を示した。さらに弥生社会に見られる小珠の様相から、そのガラス小珠の需要が、アジアのガラス小珠の生産や流通に大きな影響を与えた可能性も示唆した。そのような中で、漢帝国の混乱に伴うガラス製品の流通量の減少は、威信財交易によりその地位を築いた丹後弥生社会の、没落の一因となった可能性を論じた。

以上、本論文は、弥生時代のガラス製品の分析から、弥生社会の諸相に迫るとともに、そのガラス製品の分析を核に、併行期のアジア世界のガラス製品を広く検討し、当時の対外交流や、古代アジア社会における弥生社会の立場を、考察したものである。