本論稿は、シュライアマハー解釈学を、各種方法概念の歴史的系譜に即して検討することで、その歴史的な独自性を見極めることを目的とするものである。

 その方法は、概念史の方法を採る。その理由は、第一に、そもそもシュライアマハー解釈学において使用される方法概念の多くが、彼独自のものではなく、先行する解釈学あるいはそれ以外の学問分野に実際的な系譜を有する概念であるからであり、第二に、かかる個別的な方法概念の歴史的系譜に即して個々の方法概念の歴史的な連続性・非連続性を精確に見極めることを通じてこそ、初めて、それぞれの論者による解釈学をそれぞれ全体として比較してきた従来型の方法によっては見えてこなかったシュライアマハー解釈学の歴史的独自性が、より精確かつより高い精度で析出されうるようになると考えたからである。いうなれば、この方法は、解釈学の歴史を、それぞれの理論家に即して横に切り分けるのではなく、個々の方法概念に即して縦に切り分ける方法であるといえる。

 かかる目的および方法の下で、本論稿では、八つの方法概念(あるいはそれに準ずる概念や論点)を選択し、それぞれの概念の歴史的系譜を、各章において個別的に検討した上で、最後に「結」として、シュライアマハー解釈学の全体としての独自性を総合的に判断することを試みる。それにより、従来型の研究におけるシュライアマハー解釈学の主たる特徴づけ、すなわち「ロマン主義的解釈学」としての、「哲学的解釈学」としての、「言語学的解釈学」としての特徴づけが再検証に付されることになる。

 

 本稿では、方法概念を三つの問題系に大別し、全体を三部構成とする。

 

 第一部では、「言語と思考」に関わる方法概念について検討する。

 

 第一章で議論されるのは、「文法的解釈」と「技術的/心理的解釈」というシュライアマハー解釈学の最も基礎的な二分法である。この二分法は、彼に先立つ解釈学における「文法的解釈」と「歴史的解釈」という二分法、さらには17世紀中葉に起源を持つ「字義的意味」と「言葉の意味」という意味の二分法に基づく。本論稿では、これらの二分法の概念史的展開を辿り直すことで、とりわけ18世紀末において、「意図」の概念と「歴史」概念とがいかに結合されて、解釈学における「歴史的解釈」という概念が成立したのか、さらには、シュライアマハーがいかにしてかかる二分法を彼独自の二分法に再編成したのかを跡づける。それを通じて、第一に、シュライアマハー解釈学と彼以前の解釈学の二分法の相違の基礎に、両者の言語観の差異があること(言語と思考の二元論)、第二に、両者の間には「意図」の契機の捉え方に決定的な差異があることを明らかにする。それにより、シュライアマハー解釈学の第二部門における「技術的解釈」から「心理的解釈」への名称変更を、単なる用語法の問題としてではなく、その内容上の変化として捉え返すことが可能であることも明らかにされる。

 第二章においては、「図式」概念を検討する。一般にシュライアマハーの言語観の基礎には、言語の普遍性と個別性という二重性があるとされるが、本稿ではかかる二重性の構造を、その系譜にあたるカントとシェリングの図式論と比較しつつ、「図式」概念に即して基礎づけることを試みる。それを通じて、「図式」概念がいかにして言語の二重性を可能にするのか、あるいはそれが言語全体の変化とどのように関わるのか、さらには、図式的な構造が、いかにして解釈における解釈学的循環の構造を必然化したのかを明らかにする。

 

 第二部においては、「追構成」に関わる方法概念を検討する。

 

 第三章は、シュライアマハーのプラトン解釈を検討する。従来の研究において、プラトン解釈は、シュライアマハー解釈学における「追構成」の手法の萌芽となったとされるが、本稿ではそれを、テンネマンのプラトン解釈と比較検討することを通じて、シュライアマハーのプラトン解釈の基礎には、彼の様々な意味での「歴史意識」があり、それが「追構成」の手法の着想を可能にした最大の要因のひとつであることを示す。

 第四章は、「追構成」概念そのものを検討する。解釈学における「追構成」の手法は、アストによって導入され、シュライアマハーによって体系化されたとされるが、本稿では、両者の差異、とりわけ両者における個体と全体の捉え方に見られる存在論的な差異に注目し、シュライアマハー解釈学における「追構成」の手法が、全体を存在論的に「前提」とせず、むしろそれを解釈学的循環の下で「構成」されるべき契機として捉えられていたことを明らかにする。それにより、「追構成」の手法が、全体の論理に還元される手法ではないこと、またそれが、著者の思想の歴史的展開の追構成に限定される手法ではなく、解釈学全体に適用されるべきより一般的で包括的な手法であることを示す。

 第五章では、Divination(天啓、推定、予見)概念を検討する。Divination概念は、とりわけガダマーの『真理と方法』の記述に基づいて、シュライアマハー解釈学を代表する概念と見なされ、それが著者の内面への「自己移入」として特徴づけられることで、シュライアマハー解釈学の「ロマン主義的解釈学」としてのイメージを決定づけた概念である。だがシュライアマハーのDivination概念は、実際には、本文批判と文学批評という二つのクリティークに系譜を有する概念であり、その系譜に即して捉え返すならば、Divinationの手法が、単なる素朴な「自己移入」とは異なる、歴史的な知識への知悉を前提とした学問的な「推定」の方法であること、しかもそれは必ず「文書の方法」との相補関係において適用されるべき方法とされること(本文批判の系譜)、さらにはそれが、「未来」に向かう展開という時間的な契機を含む追構成の手法の一部であること(文学批評の系譜)を明らかにする。

 第六章においては、〈よりよき理解〉概念(テクストを著者以上によりよく理解すること)を扱う。この概念も、ディルタイが『解釈学の成立』においてシュライアマハー解釈学を特徴づける概念として用いて以来、とりわけ著者の「無意識(的創造)」と結びつけられ、シュライアマハー解釈学のロマン主義的解釈としてのイメージを決定づけた概念である。だが〈よりよき理解〉の概念を、マイアーやカントといった系譜に即して捉え返すならば、この概念が、著者の内面に働きかける無意識的創造の力とは無縁であること、その意味でそれは決して実体的な概念ではなく、単なる意識の欠如態を意味する概念に過ぎないこと、むしろそれは、追構成における全体の構成という理念と強く結び付いた概念であることが明らかになる。それにより、伝統的な解釈学における著者の意図の特権化(「著者が最善の解釈者である」)、ならびにそれと結び付いた著者の意図の「回復」という解釈学の基本的な理念が、シュライアマハー解釈学において否定された事実を証示する。

 

 最終第三部は、「一般解釈学」に関わる方法概念を検討する。

 

 第七章は、一般解釈学と論理学との歴史的関係性を問う。「一般解釈学」という理念は、hermeneuticaを最初に術語化したダンハウアーに起源を持つ。彼は、聖書解釈学、古典解釈学、法解釈学といった従来の「特殊解釈学」の学問的基礎づけを試み、その方法論を「論理学」に求める。そして、彼の解釈学を祖型として構成された啓蒙主義の一般解釈学も、ダンハウアーに倣い「論理学の一部」として構想される。だがシュライアマハーはこのような「論理学の付属物」としての解釈学を批判し、解釈学を論理学から切り離すことを求める。本稿では、これらの一般解釈学における解釈学と論理学との関係性の具体相を明らかにした上で、シュライアマハー解釈学における両者の関係性を、「技法」概念や「蓋然性」概念との関係に即して明らかにする。それにより、シュライアマハーは単に、解釈学を論理学から切り離すことを求めたのではなく、論理学を改めて彼独自の「弁証法」として再構築した上で、両者を相補的な関係性に置くことを求めたこと、さらには、シュライアマハー解釈学にも、「蓋然性」概念を通じて「論理学の一部」としての解釈学という伝統的な理念が依然として継承されている事実を明らかにする。

 最終第八章においては、シュライアマハーにおける一般解釈学と聖書解釈学との関係性を検討する。シュライアマハーは、聖書の解釈には一般解釈学だけでは不十分であり、そこには特殊解釈学が不可欠であるとする。彼以前の聖書解釈学の多くも同様に、一般解釈学を基礎とし、その応用として聖書解釈学を構築するが、その理念はシュライアマハーのそれと同一ではない。つまり彼らの聖書解釈学が、一般解釈学に特殊神学的な論理に基づく契機を付加することで構築されたのに対し、シュライアマハーの聖書解釈学は、かかる特殊神学的な論理を排したところに構築される。本稿では、このようなシュライアマハーにおける一般解釈学と聖書解釈学の関係性を、「霊感」と「信仰の類比」という特殊神学的な概念の歴史的系譜に即して捉え返すことで、これらの概念がシュライアマハーによってどのように捉えられ、どのようにして彼の解釈学に組み込まれたのかを明確化する。それを通じて、シュライアマハーの聖書解釈学そのものの歴史的独自性も見極められることになる。

 

 以上のような方法概念の歴史的系譜の検討に基づいて、最後に「結」として、シュライアマハー解釈学の全体としての歴史的独自性を総合的に考察することを試みる。その結論として、その独自性が、第一に、解釈されるべき「意味」の根源的・原理的な決定不可能性、第二に、彼の精緻な歴史意識、第三に、全体には還元されえない個体と全体との弁証法的関係性にあることを明らかにする。