本論文は、『源氏物語』の特に所謂第二部の達成点について考え、また、『源氏物語』を文学史上に定位するための有効な視座を模索する、という目的を有している。構成は全五篇、十四章から成る。

 第一篇「若菜以後の光源氏と物語の原理」は、『源氏物語』第二部における物語展開の原理を考察した諸章である。光源氏の主人公としてのあり方、物語の引用的表現が持つ可能性、『源氏物語』の写実性と虚構性、また、理念的な思考と実際的な憂慮の葛藤、といった視点から、第二部の諸相を考えた。本博士論文全体の問題提起に当たる部分である。

 若菜上巻から始まる第二部の物語については、長らくその写実性が漠然と信じられてきたように思われる。しかし、物語を読み込み、また史上の類例と比較していくと、その写実性あるいは必然性の質に関し、判断に迷うような諸要素も見えてくる。第一篇第一章では、特に朱雀院の女三宮の処遇をめぐる思考について、平安史上の類例を広く調査し比較し、同時にまた物語の叙述の方法も精査しながら、物語の質を複眼的に考察した。

 ここで一つ注意したいのが、『源氏物語』以前には、少なくとも現在残る文献の上では、「後見」獲得のための皇女降嫁ということが明記されたものが見出されない、という点である。『源氏物語』若菜上巻では、「後見」なき皇女の処遇を思考する論理は、光源氏という、人々の憧れであったところの虚構の人物の像に即して、しだいに言語化され、構造化されていく。『源氏物語』は、この虚構の像を土台として、作中の現実味を支える論理――そしてそれが史上の現実にも光を当て得る論理となっている――を構築しているのである。第一篇第一章では、このような考察を通し、かつて益田勝実氏が『源氏物語』研究をリアリズムの観点に収束させてしまう危惧を表明していたことの意義、また、秋山虔氏が若菜巻の文学史的な新しさについて「必然的」展開の志向等と言及していたことの意義を再考し、考究すべき問題の再設定を試みた。

 また、『源氏物語』の虚構性や写実性を検証しようとするとき、問題を読み解きがたくしている要素として、史上の諸例にも、理念的なものに導かれての発想と、実在する具体的な諸事情に基づいての発想という、二側面が混在している、という問題がある。すなわち、入内ということに関していえば、前者は、後宮を、複数の妻妾が共存すべき場、かつ、天皇という至高の人物のそば近くにあってその庇護と恩寵に浴することができる場、ととらえる発想である。後者は、至高の人物である天皇の庇護を受けられるとはいえ、実際に入内した際の「後見」の強弱から生ずる諸問題を憂慮する発想である。『源氏物語』においてはこれら二側面の思考の葛藤が明瞭に描かれているくだりがまま見出されるのであり、皇女の場合はその葛藤はなおさら強いに違いない。

 第一篇第二章は、そうした葛藤を若菜上巻の物語がどのように処理しているかを分析し、物語展開の仕組みを考えた章である。『源氏物語』という作品は、若菜上巻冒頭において、非常に怜悧なことばでもって前述のようなジレンマを割り切る一つの論理を構築している。理念的なもの、理想的なものを抱え込みながら、作中の新たな現実の展開のため、作中世界を支えるべき論理を物語内のことばとして構築しつづけていく、この作品の特色的な一様相を見出すことができる。

 第一篇第三章は、朱雀院が光源氏に期待していた女三宮への「後見」の内実を問いなおし、若菜巻の皇女降嫁論の性質を確認した章である。准太上天皇光源氏の身分的位置づけや第二部の物語の基盤を確認した章でもある。

 第一篇第四章は、『源氏物語』第二部における引用的表現の可能性について考えた章である。特に柏木をめぐる物語においてふんだんに用いられている引用的表現群が、どのように物語を導き得る力を持ち、また、その力がどのように挫折(あるいは歪曲)しているのか、そこに光源氏という人物が物語展開の原理としてどのように関わっているかを考察した。

 これら第一篇の考察を通し、本博士論文では、『源氏物語』第二部が達成したことの意義を、必然性や写実性というよりもむしろ、独自さを志向する傾向が非常に色濃くあり、これまでの作中世界の諸相を土台としつつ、『源氏物語』という作品をいっそう独自なところへと導いていこうとする積極的な意欲に満ちたものであったことに見出している。このような着眼を示した上で、以下の諸篇では、『源氏物語』の文学史上の位置づけをさらに『竹取物語』受容・時間意識・死生観・来世観といった諸面から考えた。

 第二篇「『源氏物語』の『竹取物語』受容」は、第一篇第四章に次いで、『源氏物語』と既往の文学作品の関係について考察した諸章である。他作品における『竹取物語』受容と比較しつつ、『源氏物語』の第二部後半、特に御法巻における『竹取物語』受容の独自性について考えた。

 御法巻では、紫上の火葬の場面において、この野辺送りの帰途が「十五日の暁」に当たっていた、という叙述がある。現代の諸注釈では一般にこれを「十四夜」の明け方としている。が、「暁」という語の用法、及び、『源氏物語』における日付の境を検討すると、この表現は「十五夜」の明け方頃を指す表現と読むのが最も蓋然性が高そうである。『源氏物語』の中でも最も明瞭に『竹取物語』引用が指摘できる箇所といえよう。そしてまた、御法巻の『竹取物語』引用の焦点化するところが、火葬による紫上のはかない消滅の姿――この世の人のはかない死と消滅の姿であったこともまた、『源氏物語』の『竹取物語』受容の特質として重要である。すなわち、『竹取物語』の描く理想郷としての天界は、人間が人間であるままには享受し得ないほどの冷酷非情な「物思ひなき」理想郷であった。そうした、人間界からは徹底的に乖離する異世界を、『源氏物語』は人の死の上に見定めたのである。

 平安時代の文学作品では、火葬の「煙」を介して、人間が死後天界へと昇天するかのように表わす表現が見出されるようになる。これは、魂の帰天というような発想と似るようでいて、著しく異なる要素を含む文学的表現であろう。平安の私家集や物語の表現を調査すると、死者の昇天を空想する文学的表現が、天界への飛翔という甘美な夢と、人間のはかない末路の凝視という、裏腹な要素を含みこみつつ展開していることが知られる。その中で、たとえば『小町集』長歌や西本願寺本『平兼盛集』巻末佚名歌集の表現は、いわば、人間のはかない末路をみつめつつも、それを凝視しつづけることに堪えきれなかった作品、という一面がある。一方、『源氏物語』は、人間のはかない死と消滅の姿をあくまでも鋭く凝視しつづけたところから、人の死そのものの中に真の異世界の存在を見出した作品であった。

 第三篇「平安文学の時間意識と中国文学」は、中国文学における時間意識・時間表現のあり方と比較しながら、日本の古代文学における男女関係上の時間意識の系譜を考察した諸章である。平安時代中期、特に特徴的に、二種の時間意識の対立と葛藤が見出されるという問題を論じた。この第三篇の諸章において得られた考察は、時間という要素が重要な原理となるといわれる『源氏物語』第二部のあり方を考える際にも有効な足がかりとなるだろう。

 第四篇「拾遺集・後拾遺集時代の「この世」と来世」は、『源氏物語』が成立した頃の時代における「この世」及び来世をめぐる思想について、文学作品上の諸表現から看取される諸問題を考察した諸章である。この時代の文学作品には、生者が、死にゆく者あるいは死者からの眼差しを先取りして、「この世」を遠くはるかに眺めつつ、一回的に別れてしまわなければならない「この世」への多大な愛情を表わす、というような表現が散見するようになる。浄土思想や無常観の浸透とは裏腹に、むしろはかない「この世」であるからこそいっそう「この世」を重く愛しいものと感ずる、というような見方が、この時代台頭してくるのである。

 このほかにも、この時期の文学表現には、無常観の浸透とは裏腹なかたちで、「この世」という場のみつめ方が変化している徴候が見出される。そうした様相をとらえ、『源氏物語』の世界観や死生観について、仏教思想一辺倒で考えるのでない考察基盤を構築することを試みた。

 第五篇「『源氏物語』の世界とその文学史的位置」は、本博士論文の実質上のまとめに当たっている。第一章では、紫上の時間推移についての思念に着目し、紫上という人物の転換点を探った。また、源氏・紫上夫妻の理想性の意義を考察した。

 第五篇第二章では、本博士論文全体の考察を吸収しながら、最晩年の光源氏のあり方を考察した。『源氏物語』の三部構成説が普及して以来、第二部の光源氏については、しばしば「人間光源氏」といったことがいわれる。が、この「人間」とは、どのような意味合いで用いるべき語であろうか。『竹取物語』の人間観とも対比しつつ、『源氏物語』の人間観、死生観、最後の光源氏の姿の意味合いを考察する。そして、『源氏物語』の光源氏が、『竹取物語』の〈人間〉を超える者として描き出されていることを、御法・幻巻の表現の分析を通して論ずる。また、第二篇や第四篇の考察に続けて、『源氏物語』の特に光源氏・紫上における死の意義づけの特異性にも触れている。

 『源氏物語』が特に第二部以降どのように文学史的に独自な発展を遂げているか、また、光源氏が主人公として、あるいは物語における原理的な存在として、いかなる豊かさをもって生きつづけているかを問いなおした博士論文である。