本稿は、郡司・郡司制度の考察を通じ、日本古代国家の特質を明らかにすることを目的としたものである。

従来、日本の古代国家の特質については、「氏族制」と「律令制」から成るとする二元的国家論や、「氏族制」=「未開」の上に「律令制」=「文明」が覆いかぶさるという、両者をより垂直的にとらえた二重構造論などを用いて論じられてきた。これらにおいて郡司・郡司制度は、「氏族制」・「未開」を象徴する存在として重要視されてきている。

本稿ではこの視角を批判的に継承しつつ、郡司・郡司制度をこれまでにはない新たな視点を用いて考察し、古代国家の特質を改めて論じてみた。

上記の目的を達成するため、本稿では郡司・郡司制度を「郡司と天皇の関係性」と「郡司層」の存在という二つの視点から論じている。前者は、七世紀半ばから十・十一世紀を通じて郡司・郡司制度の変遷をたどる際の一貫したメルクマールとなり得るものである。またこの視点は、これまでは十分に留意されてこなかったものであり、郡司・郡司制度の新たな側面を照射する視点でもある。

そして後者は、近年明らかにされた、郡司をかわるがわる輩出するような地域有力者層=「郡司層」の存在を念頭に、これまで膨大な研究蓄積を有している郡司・郡司制研究を再検討することを目的としたものである。この二つの視点を基本に本稿は構成されている。

まず、本稿の第一部「郡司と天皇制」では「郡司と天皇の関係性」について論じた。

第一章「郡司と天皇制」では、郡司読奏の分析を手がかりに、孝徳朝以降、十・十一世紀に至るまで、読奏に象徴される郡司と天皇の関係性が、古代国家の地方支配における中央集権性を一貫して保障していたことを指摘した。

さらに第二章「宣旨による郡司の任用」でも、宣旨を用いた通常とは異なる郡司任用法を分析して、特別な任用場面においても郡司と天皇の関係性が必ず維持されていることを示し、両者の結びつきの強さを明らかにした。

これらの考察を通し、「郡司と天皇の関係性」こそが古代国家の地方支配原理であり、なおかつ古代国家を通時代的に見通すメルクマールとなり得ることを示した。

次に第二部「郡司任用制度の考察」では、郡司の任用関連法令を中心に考察を加えた。無論、ここでは「郡司層」のみならず、第一部で明らかにした「郡司と天皇の関係性」という視角も取り入れながら論を進めている。

第一章「郡司譜第考」では、日本令に規定された郡司任用基準と郡司の「譜第」の考察から、令制は郡司を天皇との関係性の中で任用するという孝徳朝以来の任用の枠組みを構造化するにとどまり、国家が具体的な任用基準をもって「郡司層」と対峙するようになるのは天平七年制による「譜第」基準の導入以降であることを示した。

続く第二章「「譜第之選」の停止と郡司層」では、延暦十七年三月丙申詔の分析を出発点に、八~九世紀の「郡司層」の在り方とその変遷を考察し、九世紀後半以降、「郡司層」が解体の方向に向かうことを示した。

そして第三章「郡司任用制度の考察」は、八世紀~十世紀に至るまでの郡司任用制度について、「郡司と天皇との関係性」と「郡司層」の存在を念頭に通時的に考察したものである。その結果、「郡司と天皇の関係性」に象徴される古代国家の地方支配における中央集権性は、桓武朝前後にピークを迎えたこと、九世紀後半以降は「郡司層」の解体にともない、郡司職は徐々に純粋に理念的な存在へと変質し、これ以降はもはや郡司・郡司制度のみでは古代国家の地方支配は完結しなくなるという見通しを提示した。

これらの考察により、「郡司と天皇の関係性」にもとづく古代国家の中央集権的な地方支配理念と、「郡司層」を中心とした現実の地域社会との相関関係の通時代的な変遷を跡づけることができた。

さらに本稿第三部「郡司制度の周辺」は、第一・二部の内容を補い、より幅広い視野からの郡司・郡司制度の考察を意図したものである。

第一章「擬郡司帳管見」では、正倉院文書として残る「出雲国計会帳」に見える「擬郡司帳」の具体的内容の検討から、郡司任用日程の変遷と調庸の違期・未進問題とのかかわりを論じた。

第二章「郡司職分田試論」では、郡司職分田について、日本令と唐令の比較にもとづく制度的考察とともに、福島県いわき市の荒田目条里遺跡出土木簡や周辺遺跡の分析から、郡司職分田の実態的な分析も行った。ここから、郡司職や郡司職分田などを核に「郡司層」が融和と結束を図っていた可能性を指摘した。

 また附論「年官ノート」では、古代国家の人事権の在り方を年官の考察を通じて論じ、九世紀後半期に一つの画期があるのではないかという見通しを述べた。人事権が国家権力と深くかかわるものであると考えると、ここで得られた知見は、郡司・郡司制度を含めた古代国家全体にかかわるものと考えることができる。

 以上の考察を基礎に、本稿では最後に古代国家の特質について論じた。

 従来の古代国家論では、二元的国家論であれ、二重構造論であれ、郡司・郡司制度は「氏族制」・「未開」の側のものとしてのみとらえられる傾向が強かった。しかし、本稿第一部で明らかにしたように、郡司と天皇の間には制度的な裏づけをともなった関係性が構築されていた。このことは郡司・郡司制度が「氏族制」・「未開」の側面だけではなく、「律令制」・「文明」の側面をも持ち合わせていたことを示している。

 さらに第二部で示したように、郡司任用政策の変遷は、「郡司と天皇の関係性」に象徴される中央集権的な地方支配理念を、「郡司層」が根を張る地域社会の中に浸透させようとする古代国家の苦闘の足跡であった。これは古代国家の「氏族制」・「未開」の側面を、「律令制」・「文明」の側に引き寄せようとする動きであり、このことからも郡司・郡司制度は「律令制」・「文明」と「氏族制」・「未開」の両側面からとらえられるべきものと考えられる。

 そして郡司・郡司制度に関しては、桓武朝前後をピークにこの両者は最も接近し、九世紀後半以降徐々に分離するようになる。十世紀以降になると、この理念と現実の分離は決定的となり、「郡司と天皇との関係性」も専ら理念的なものとして維持されるようになっていく。

このような動きは古代国家全体の流れとも齟齬しないものと考えられる。八世紀半ばから九世紀初頭にかけては、様々な場面で「律令制」的な制度が充実・発展するようになる。また、九世紀後半に入ると、附論において人事権という側面から確認したように、この時期を古代国家の変質期と見立てることができる。このように、郡司・郡司制度の考察から得られた知見をもとに、古代国家全体の流れやその特質をある程度うかがうことができるのである。

とするならば、古代国家の特質とは、「律令制」や「文明」と表現され得る中央集権化に向けた試みが―それがたとえ理念面だけであったとしても―絶えず続けられているという点に求められるだろう。したがって、特に十一世紀半ば以降、古代国家が理念の上ですらも「律令制」、「文明」への執着を捨てた時、二元性や二重構造では捉えきれない新たな国家が日本列島に登場することになる。その先には、中央集権とは対極にある「分権」をキーワードとする中世社会が待ち受けているのである。

以上が本稿の要旨である。郡司・郡司制度という限られた視点からの立論ではあるが、どのような些細な事象であっても、それが時代の産物であることを考慮すれば、そこからその時代の変化や特質を読み取ることは不可能ではない。

本稿はそのような視点からの古代史研究のささやかな試みである。