1 問題の所在

 ペルシア語文化圏で編纂された普遍史書(天地創造から著者と同時代に至るまでの人類史)は、これまでも様々な形で歴史研究に利用されてきた。その多くは、普遍史書の後半部に記録されている、著者と同時代の記述に史料的価値を見出し、その記述をもとに歴史を再構成するものであった。しかし、こういった研究においては、「史実」を導くという意味で史料的価値を見出せない箇所、ましてや、アダムやカユーマルスに始まる神話的な人類の歴史が省みられることはなかった。

 本稿で焦点を当てるのは、これまでの多くの歴史研究において捨象されてきた、普遍史書における人類史叙述である。サーサーン朝滅亡以降、ゾロアスター教的人類史(古代ペルシア史)が優勢であったペルシア語文化圏に、旧約聖書にもとづく一神教的人類史(旧約的普遍史)、そして、トルコ・モンゴルの遊牧民的人類史(オグズ伝承)が伝わり、三者が融合した「新しい」人類史が創造されることとなった。その契機となった二つの大きな歴史的事件は、7世紀のアラブ・ムスリムによる征服と13世紀のモンゴルの西アジア侵出・アッバース朝の滅亡であるが、このような契機を経て、ペルシア語文化圏には多様な民族・宗教が内包されるようになった。この多様な民族・宗教、そして、その地に興隆した全ての王朝の歴史を叙述する場を提供したのが、普遍史書というジャンルに属する文献であった。

 この普遍史書は、「現在の」王朝の君主の人類史における位置付けを明らかにすることにより、その王朝の支配の正当性を示す根拠となった。また、そういった文献が繰り返し作成されることにより、前近代の知識人の間で、ある一定の人類史認識が共有されるようになる。本稿で明らかにするのは、古代ペルシア史、旧約的普遍史、オグズ伝承という三つの起源の異なる伝承が相克と融合を経て、新しい歴史が創造されていく過程である。その過程を叙述することにより、前近代ペルシア語文化圏の人類史認識を規定し、また、現在の国民国家の歴史叙述にも幾ばくかの影響を及ぼしている「普遍史書」の実態を明らかにすることを目指す。

 

2 各章の概要

第1部「『王書』以前の古代ペルシア史叙述:『王の書』から『王書』へ」では、サーサーン朝滅亡後、イスラーム化が進みつつあったペルシア語文化圏で編纂された普遍史における、古代ペルシア史と旧約的普遍史の相克と融合の過程を、9世紀から11世紀に至るまで、通時的に検証した。

 第1章「旧約的普遍史と古代ペルシア史の相克」:サーサーン朝滅亡後に編纂されたアラビア語普遍史において、主要な典拠となったのは、サーサーン朝で編纂された『王の書』系統の伝承ではなく、アラブの伝承者が伝える伝承であった。したがって、その多くでは、古代ペルシア史は旧約的普遍史のノアの洪水以降に位置付けられることとなった。また、この時代には、カユーマルスを古代ペルシア最初の王であるとする伝承や古代ペルシアの諸王を、ピーシュダード朝、カヤーン朝、アシュカーン朝、サーサーン朝の四つに区分する叙述方法は見られなかった。

 第2章「『王の書』の復活と流行:ペルシア系地方王朝における普遍史書」:ハムザ・イスファハーニーが『年代記』を編纂した後、カユーマルスに始まりヤズドギルドに終わる古代ペルシアの諸王を四王朝に区分する叙述方法が普及していく。ハムザは、それ以前の時代には利用されていなかったパフラヴィー語『王の書』のアラビア語訳を利用し、サーサーン朝から伝わる伝承に依拠して、古代ペルシア史を整理した。古代ペルシア史叙述の発展を考える上で、ハムザは極めて重要な役割を果たしたと言える。

第3章「フィルダウスィーの『王書』と古代ペルシア史:ガズナ朝における普遍史書」:ペルシア語文化圏で大流行した韻文による古代ペルシアの諸王の英雄叙事詩、フィルダウスィーの『王書』の内容は、それ以前に編纂されたいずれの古代ペルシア史叙述とも異なるものであった。ハムザに比べてフィルダウスィーの古代ペルシア史叙述には、旧約的普遍史認識が強く反映されている。

第2部「ペルシア語普遍史書の成立:『王書』から『選史』へ」では、フィルダウスィーの『王書』の成立後、セルジューク朝期からイルハーン朝期にかけて、①預言者の歴史、②古代ペルシア史、③イスラーム史、④イランの諸王朝の歴史という四章構成の普遍史叙述が一般的となり、時の君主の支配の正当性を主張する手段となっていく過程を検証した。

 第4章「『王書』の流行とペルシア語普遍史」:イランという地理概念やペルシア語普遍史書が政治的に利用されるようになるのはイルハーン朝期だと考えられていたが、それ以前のセルジューク朝期においても、既にこれらの傾向が見られる。

 第5章「ペルシア語普遍史とオグズ伝承:オルジェイトの治世まで」:イルハーン朝期には、支配の正当性を主張するために、二通りの手法でペルシア語普遍史が利用されるようになった。一つは、『歴史の秩序』に見られるモンゴル人の王朝であるイルハーン朝をイランの諸王の中に組み込む方法で、もう一つは、『歴史精髄』や『集史』に見られるトルコ・モンゴル諸部族の系譜をアダムに始まる旧約的普遍史の中に組み込む方法であった。この時に利用されたオグズ伝承が、その後のペルシア語普遍史の重要な構成要素の一つとなっていく。

第6章「旧約的普遍史・古代ペルシア史・オグズ伝承の融合:アブー・サイードの治世」:上述の史料では、オグズ伝承の旧約的普遍史における位置付けだけが示され、古代ペルシア史における位置付けは示されていなかった。これに対し、古代ペルシア史を機軸とする普遍史『選史』の中で、ようやく旧約的普遍史、古代ペルシア史、オグズ伝承、という起源の異なる三つの人類史の相互関係が説明され、それらが一つの人類史の中に位置付けられることになったのである。

第3部「ペルシア語普遍史書の再編:『ペルシア列王伝』から『歴史集成』へ」では、イルハーン朝末期からティムール朝初期にかけてのペルシア語文化圏の地方政権における、ペルシア語文芸活動の保護・奨励とその意義、そして、ティムール朝宮廷における歴史編纂事業に焦点を当てた。

 第7章「古代ペルシア史の再編:『ペルシア列王伝』とハザーラスプ朝」・第8章「イランの地の地方政権とイラン概念」:ペルシア語文化圏においては、イルハーン朝においてだけではなく地方政権においても、ペルシア語文芸活動が保護・奨励されていたことを明らかにした。それを象徴する作品が、ハザーラスプ朝宮廷で編纂された『ペルシア列王伝』で、その中では、地方政権の君主は、イランの地を支配する王であること、イスラームの保護者であることを強調していた。イルハーン朝滅亡後には、これらの要素に、イルハーン朝の後継者であることが加わることになる。地方政権の君主にとって、イルハーン朝宮廷を真似て、ペルシア語普遍史書を編纂することは、イランの王としての支配の正当性を担保する上で大きな意味を持ったのである。

 第9章「イランの地の歴史からイランとトゥランの歴史へ:ティムール朝時代」:イルハーン朝の旧領域「イランの地」に加えて、中央アジアの「トゥランの地」を支配したティムール朝においては、「イラン」だけではなく「トゥラン」をも包摂するペルシア語普遍史が編纂された。そのために、イルハーン朝とティムール朝を一括りに叙述することができる、オグズ伝承が重要視されるようになった。ティムール朝では、オグズ伝承を機軸とする普遍史『集史』と、古代ペルシア史を機軸とする『選史』が組み合わされたことにより、旧約的普遍史、古代ペルシア史、オグズ伝承の三者が一体となった普遍史叙述が可能となったのである。

 

3 結論

 以上の考察により、これまでの歴史研究で史料的価値を見出されてこなかった普遍史書の前半部をしめる人類史叙述は、前近代社会では重要な意味を持っていたことが明らかとなった。その証拠に、普遍史書のどれ一つをとってもその人類史叙述が完全に一致するものはない。それぞれの歴史家が、それぞれの人類史認識をもって普遍史書を編纂していたのである。したがって、普遍史書を史料批判する際には、同時代の部分だけでなくその作品全体を対象としなければならないのである。

 近年、叙述史料を、単に史実を導く道具として用いるのではなく、作品それ自体の編纂の背景や知識人による過去の認識を扱う、歴史叙述研究は急速に発展を遂げてきている。しかし、アラビア語・ペルシア語の歴史叙述研究に関して言えば、そのほとんどが校訂出版された文献に依拠して行われてきた。本稿で示したように、普遍史書の中には、これまで史料的価値を認められず、未だに校訂出版されていないものも多いという点に鑑みれば、これまでの歴史叙述研究は、狭い限られた世界の中で進められてきたと言わざるをえない。今後、新しい歴史を書き、新しい歴史像を提示していく上で、これら未刊行史料の校訂・翻訳は急がなければならない作業である。本研究はその第一歩として位置づけられるのである。