本論文は、『水滸伝』の成立と受容の二点について、「宋代忠義英雄譚」という筆者独自の概念に焦点を当てて、それぞれの諸問題について考察するものである。

序論では、これまでの先行研究について整理し、そこからいくつかの問題を提起して、本論文の目的を表明する。成立に関する従来の通説によると、『水滸伝』は『三国志演義』や『西遊記』と同じく、史実に端を発し、通俗文芸の担い手によって長期間にわたって洗練された結果として集大成された作品と考えられてきた。ただしこれは人物や個々の故事など作品の一部について言えることであり、前史との関係が見出だせない作品全体の物語構造にまで当てはめるわけにはいかない。また受容に関する従来の通説によると、清代を通じて『水滸伝』は七十回本のみを指し、他の版本は淘汰されてしまったと考えられてきた。しかし清代の『水滸伝』流通の実情については、七十回本のみが『水滸伝』となっていた民国初期の状況からの類推にとどまり、これまで詳しく検証されてこなかった。

第一部では『水滸伝』の成立に関する問題を取り扱う。

第一章では、『水滸伝』の征遼故事の成立が、作品全体の構成の成立と深く関わっていることを論じる。従来、征遼故事は『水滸伝』の蛇足と見なされ、その成立には関心が寄せられなかった。『水滸伝』前史の宋江について調べると、史実では機動的な盗賊団の頭領であり、通俗文芸では強大な盗賊集団の頭領であった。だが『水滸伝』における宋江が朝廷と深い関係にあるのとは、全く人物像が異なっている。つまり征遼故事は『水滸伝』前史から発生したものではないということになる。『水滸伝』前史と同時期の通俗文芸では、楊家将説話と岳飛説話が盛行していた。両説話からは、英雄が北方の夷狄の強国を打ち負かす、朝廷に忠義を尽くす、奸臣によって命を狙われる、という三要素が抽出できる。この三要素を「宋代忠義英雄譚」と定義する。『水滸伝』の征遼故事は、作品が宋代忠義英雄譚の構成を導入して成立する際に、北方の夷狄の強国を打ち負かすという三要素の一つを満たすために創作されたものと考えられる。

第二章では、宋江の死と四人の奸臣を手掛かりにして、『水滸伝』成立の過程を論じる。『水滸伝』に描かれる宋江の死は、普遍性を備えた忠義英雄の死として描かれている。だが『水滸伝』前史において、宋江の死には関心が寄せられていなかった。また南宋初期に宋江が登場するという認識も広まっていた。一方史実の奸臣は『水滸伝』とは実態が異なり、通俗文芸に奸臣は登場しない。さらに作品中の奸臣には悪役として不徹底な面が見られる。以上のことから、『水滸伝』における宋江の死と奸臣は前史に由来するものではなく、宋代忠義英雄譚の構成が導入された際に組み込まれたのではないかと思われる。ただし奸臣は早急に組み込まれたために、全体の調整が不十分なまま作品内に不徹底な面が残ってしまったのである。

本章には付録として、呉従先「読水滸伝」の訳注を載せる。該資料が紹介する『水滸伝』の内容は、現存する諸版本のそれとは大きく異なっている。よって『水滸伝』成立事情の一端を窺わせる貴重な資料と見なせる。

第三章では、張叔夜という人物の『水滸伝』および関連作品での扱いを分析することで、宋江が『水滸伝』で忠義の人物となった背景について論じる。張叔夜は『水滸伝』では宋江とほとんど関わらない端役でしかない。だが史実では、宋江を制圧するなど多くの功績を挙げた知勇兼備の忠臣であった。『水滸伝』前史では、宋江を部下に収めて活躍させる元帥であった。また『水滸伝』七十回本以降は、悪人宋江を討伐する最高責任者であった。以上の分析から、一貫して朝廷側の人物で忠誠心に厚い者を「忠義英雄」、身分や経歴を問わず在野の有能な人材を「豪傑」と定義する。張叔夜は多くの作品では一貫して忠義英雄として登場していたが、『水滸伝』では宋江が梁山泊の頭領であることから忠義英雄となったために端役に改められてしまったと考えられる。

第二部では清代の『水滸伝』受容事情に関する問題を取り扱う。

第四章では、清代における七十回本の流通と、当時の人々の『水滸伝』認識について論じる。『水滸伝』中の一〇八人の好漢が梁山泊に集結した後の部分、彼らが朝廷に帰順して功績を立てる経緯を描いた物語を「征四寇故事」と定義する。清代前期には、七十回本以外の版本も出版され流通していた。また続書の『水滸後伝』や『説岳全伝』は百回本に基づいて創作された。清代中期の乾隆前期には、宮廷大戯『忠義璇図』が百二十回本に基づいて創られていた。乾隆後期には、征四寇故事のみが独立して出版された。この二点から、七十回本が唯一の『水滸伝』となるのは、乾隆中期から後期にかけての時期と言うことができる。清代後期には『水滸伝』を完全に否定する続書『蕩寇志』が出版された。『水滸伝』は七十回本のみとなっていたが、征四寇故事は単独で出版され続けており、人々は『水滸伝』の低質な続作というかたちで征四寇故事を知っていた。つまり清代の人々は常に、宋江ら一〇八人が朝廷に帰順して活躍する物語に触れることができたのである。

第五章では、宮廷大戯『忠義璇図』の内容を紹介し、『水滸伝』との関係を指摘する。『忠義璇図』は乾隆年間に清朝の宮廷で『水滸伝』を基にして創作された戯曲である。全十本、各本二十四齣で合計二四〇齣という膨大な長さを備える。基本的には『水滸伝』の内容を踏襲しているが、末尾の一割ほどは完全に独自の内容となっている。作者は皇族の允祿らであり、乾隆年間前半に創られた。基づいた『水滸伝』版本は、内容面では百二十回本、構成面では七十回本である。『水滸伝』との大きな相違として、朝廷軍との戦闘が削除されている、征遼故事が削除されている、宋江らと天との関係が削除されている、の三点が挙げられる。『忠義璇図』は宋江ら一〇八人を悪人ととらえ、作品末尾に彼らが地獄へ落ちて責め苦を受ける場面を設けている。対照的に史実で忠義を尽くした人の活躍を称賛することで、宋江らが悪人でしかないことを知らしめようとした。乾隆年間は『水滸伝』に対する禁令が厳しくなり、政府の否定的な態度が、七十回本の定本化の一要因となったと考えられる。章末には全二四〇齣の詳細を示した表を掲載した。

第六章では、『蕩寇志』について論じる。『蕩寇志』は清代後期に兪万春が著した『水滸伝』七十回本の続書である。明末に金聖嘆が創作した『水滸伝』七十回本は、既存の諸版本の征四寇故事を削除し、忠義の題目を削り、宋江を狡猾な悪人に書き改めることで、宋江らが忠義ではないことを示そうとした。兪万春が生涯をかけた著作『蕩寇志』は、金聖嘆の意図を継承し、構成面で七十回本の正当な続編であることを表明している。内容面では、宋江らを極悪人として描き、一〇八人全員が悲惨な末路を辿るようにすることで、『水滸伝』を完全に否定している。太平天国の乱の際には、政府側は積極的にその出版を推進し、太平天国側はその版本を破棄した。作者の強い創作意図と政府の積極的な関与のため、『蕩寇志』は反動的な小説と見られてきた。しかし『蕩寇志』の内容を詳細に分析すると、主人公陳希真の動向、彼に協力する者たちの人物像、彼と朝廷との関係の三点で『水滸伝』と類似していることが判明する。よって『蕩寇志』は『水滸伝』のような宋代忠義英雄譚の亜種として受け入れられたと考えられる。

結論では、各章で展開した、宋代忠義英雄譚に焦点を当てた議論を踏まえて、『水滸伝』の成立と受容それぞれの中国文学史的意義について考察を深める。『水滸伝』の基本構造が宋代忠義英雄譚を借用したものであるからには、その成立事情は『三国志演義』や『西遊記』とは同一視できない。一方『金瓶梅』は物語内容の大半が独創である。よって『水滸伝』は中国文学史において、『三国志演義』・『西遊記』と『金瓶梅』との間の過渡的な位置づけを与えることができる。また清代に『水滸伝』が宋代忠義英雄譚として浸透していたとすると、『水滸伝』に強く反発した人々の心理を解明できるようになる。宋江は作中においては忠義英雄として扱われているが、その実際の行動や立場から導き出される位置づけはむしろ忠義英雄の下で活躍する豪傑に該当している。『水滸伝』に反発する人々は、宋江が本来の役割の分を大きく踏み越えたことに反感を抱いたと考えられる。以上のことから、中国文学史において『水滸伝』は、宋代忠義英雄譚を借用することによって独特の作品世界と影響力を有することになったと言える。