本研究が基本的な分析対象とするのは、近世日本の思想界にてその一期を画した、徂徠学派の儒者たちと国学者・賀茂真淵との論争に関係する諸テクストである。具体的には、荻生徂徠『政談』『太平策』、太宰春台『弁道書』、服部南郭『燈下書』(―以上、徂徠学派)、賀茂真淵『国意考』『にひまなび』(―以上、真淵)といった諸テクストである。

徂徠学派と真淵との論争には、もともと、前者が〝中華主義〟であれば後者は〝国粋主義〟であり、あるいは前者が〝政治主義〟であれば後者は〝文学主義〟であるという、極めて明瞭な色分けが存する。それゆえ、この論争は従来、こうした予めの色分けに沿って分析されるのが常であった。神道史や国学史の立場からは前の対立(「中華」対「皇国」)が、政治思想史や国文学の立場からは後の対立(政治対文学)が、それぞれ注目されてきた。しかも、真淵の『国意考』よりもやや遅れた本居宣長の『直毘霊』と徂徠学派との思想的対立こそがより衆目を集め、真淵の徂徠学派への思想的挑戦は、その前哨戦として一瞥を与えられるにとどまっていた。

しかし、この論争(いわゆる国儒論争)における真淵の議論は、宣長の単なる前座にとどまらず、独自の思想史的意義をもつものである。その独自な意義とは、一つには宣長の古道論が基本的に文雅的ないし文弱的であるのに対して、真淵の古道論は、その「ますらをぶり」の主張が後代に有名なように、尚武的であり、そのことによって、真淵の行論には武士道や、中古文学以来のいわゆる「文武両道」の思想が、流れこんでいるということである。真淵は神道・歌道だけでなく、武士道をも背負って、徂徠学派との論争に臨んでいるのである。またもう一つには、真淵は人脈的にも思想的にも徂徠学派の人びとときわめて近く、徂徠学派の内部で考えられたことを継受しつつ、そこから継がれた思想的トピックを、その学派そのものの批判へと転化しているという特質も挙げられる。徂徠の二人の高弟、太宰春台と服部南郭との不仲と思想的対立とが有名なように、徂徠学派の内部も、思想的にも党派的にも一枚岩ではなかった。真淵の徂徠学派批判は、こうした徂徠学派内部に析出した思想的矛盾と論争との、儒教という枠を超えての延長・展開という性格を強く帯びているのである。

以上のような見通しのもとに本研究が試みるのは、この論争に対する従来の固定的な分析視角から離れて、とくに封建制社会への貨幣経済原理の蚕食的な侵入によって社会の静的な均衡がくずれ、すでに一定程度に〝近代的〟な共同体構想が庶幾され・模索されていた近世中期にあって、およそ人間とは、ぎりぎりの所では何を願い、何を目指して生きているのか、またその人間の根本的な願望は、どのような共同体のありようによって充たされるのかといった、倫理の根幹にかかわる問いがもう一度原理的に問われ直し、その問いへの対蹠的な二つの答えがぶつかりあった思想的出来事として、徂徠学派と真淵との論争を捉え直すことである。その際、「銀の世の中」(井原西鶴『日本永代蔵』)といわれる市場経済の卓越に敏感に対応しようとした徂徠学派こそが時代適合的であり、国学の側は、次代の明治国家において前面に押し出される一君万民的なナショナリズムを準備したこと以外は、基本的に〝反動〟的であったという一般的な見方を離れて、「復古」を説く真淵の思想が、じつは徂徠学派の先鋭的な経世的思惟や、実際の改革の旗手となった幕末・維新期の志士たちの実存意識と相渉るものであったことの検証に、とくに意を用いた。

 

本論は、徂徠学派内部での思想的課題の析出過程を扱う第一章と、それを踏まえて説き出された、真淵の人間論・国家論の構造を通観する第二章とに大きく分かれる。

第一章でまず確認されるのは、近世儒教思想の流れの上での転換点とされる徂徠学が、いかなる意味で「新しい」儒教思想だったのかということである。本研究では、徂徠がその議論の端々に援用する芸道的な比喩から、儒教体系の総体を、従来の朱子学における自然科学的な知の体系から、芸道的な技術体系として捉え直した点にこそその新しさがあったと捉え、その論証を試みる(第一節)。そのうえで、包括的な統治技術体系としての「先王の道」の上で、万人がそれぞれの個性に応じた職業に従事し得ているさまに、徂徠学における最終的な人間の自己実現の姿が見出されていたことを論証する(第二節)。このようにして、徂徠学とは、儒教思想そのものの性格の把握も、経典解釈も、またその人間観も、徹頭徹尾〝労働〟の場面に根差した儒学であったことが確認される。徂徠学における基底的な人間像は〝労働する人間〟なのである。しかし、働くことに還元できない人間の基底的な営み、たとえば内なる情念に衝き動かされて叫び、歌い、あるいは祈るといった営みは、徂徠学の体系の中ではどう処理されるのか。徂徠の理解では、六経の中の『易経』や『詩経』は、まさにそうした共同体のもとでの労働からはみ出す詩歌や宗教を共同体の内部へと回収するための用具として、統治技術の収蔵庫としての六経の中に備えられているのである(第二節二)。

以上のようにして徂徠は、〝労働する人間〟という基底的な人間像のもとに、儒教の正典である六経を一貫した技術体系として捉え直したが、その躓きは、このようにして練り上げられた周到な共同体構想を、ついに現実には適用できなかったという点に存した。徂徠は徳川綱吉や柳沢吉保、徳川吉宗といった幕閣中枢の人の厚遇を受けはしたが、その実践的な改革策はついに彼らには採用されなかったのである。太宰春台や、服部南郭といったその高弟たちも同じである。ここに、徂徠学派の通有の「不遇」意識が表れる(第三節)。その「不遇」な自己への慰藉は、同じように「不遇」であった孔子への同一化や、詩作によってまかなわれた。こうして、基本的に政治主義的な徂徠学は、「不遇」な自己への対応物として文学的なものを内部に抱え込み、ある分裂のさまを呈することとなったのである。賀茂真淵の思想は、徂徠学がその内部に胚胎した、かかる文学的なものを継受して生まれてくることになるのである。賀茂真淵の思想は、この二分された徂徠学の中で、実は孔子への「信」や天への慷慨をつづる詩によって自己を慰めつつも、表向きは政治主義を貫いた太宰春台の『弁道書』への猛烈な反発によって、ひとつの思想としてのかたちを与えられたものである。そこで、真淵の思想の考察に入る前に、この『弁道書』の特質と意義とを一瞥した(第四節)。

 

第二章は、前章で明らかにした徂徠学の人間観・共同体観との対比に意を用いつつ、賀茂真淵の人間観をさぐるものである。

そこでまず確認されるのは、真淵が徂徠周辺の人びととのきわめて親密な人脈的・思想的交流をもちつつ、徂徠学の思想的現場である江戸の文化圏に生きていたことと、いくつかの個人的な事情から、真淵がまさに〝労働する人間〟たちの世界である人倫世界を離れた隠者としての生き方を選び取るに至った経緯とである(第一節)。その上で、とくに『万葉集』の研究で名高い古典研究者であった真淵が、その『万葉集』の中から汲み取られた人格的理想である「直き」人びとという人間像のもとに、徂徠学派の人間観・共同体観を反駁してゆく過程を、『国意考』の行論に即しつつ通観した。徂徠学の〝労働する人間〟に対して、真淵のいう「直き」人びととは、〝表現する人間〟である。それも、その表現とは、内面のあるがままの情念をあるがままに言葉にあらわす、歌という表現である。それは労働と違って、本質的に〝無用〟な営為である。しかし、徂徠学における理想世界である「堯舜の世」に代えて真淵が新しく提出する日本の「上つ代」は、まさに万人が歌う世界なのであった(第二節)。また、真淵のいう「直き」人びとのイメージには、歌人とならんでもうひとつ、武士の姿が含まれている。それも、儒教的士道の士ではなく、きわめて私的な欲求のもとに武力を駆使する、中世・戦国の武士道の士である。ここに、真淵の古道思想と、武士道との結節点がある。しかも実は、徂徠は私的な戦国武士道を批判し、それを統制のとれた公的な軍制へと改革しようとしていた。こうして、武士道論のうえでも、徂徠学と真淵とは対立することになる。その様相を通観したのが第三節である。以上の考察から、真淵にとっての人間の基底的かつ理想的な姿は、日本の思想史・文芸史のうえでのひとつの理想であった、「文武両道」の人格のうえに見出されていると総括される。それは、歌というかたちであれ、武力というかたちであれ、内面の自己を巧まず・そのままに外へと表出する人間の姿である。その姿はちょうど、巧みな教化によって全被治者の内面に共同体に対して親和的な均一性をつくりだそうとする古代儒教の発想と、朱子学の註脚類を排することで、その発想を忠実に汲んだ徂徠学の人間観・共同体観とに対する、強烈な反措定をなしていたのである(第四節)。

 

以上のように、徂徠学の〝労働する人間〟という人間像が、さまざまな思想的・社会的径路を経ることで、真淵の〝表現する人間〟という対蹠的な人間像へと継受された過程を通観したうえで、それぞれの人間観の基底をなしているそれぞれの基礎経験と目される経験を検証し、この論争の倫理学的意義を確認することで、論がむすばれる(むすび―二つの基礎経験)。