近世前期から中期にかけ、経世論という〈場〉において非西欧的な独自の宗教理論とも呼び得るような言説が形成され、その理論が近世後期から近代に至る「神道」の台頭を準備したことを、儒者、神道家、国学者等の思想を辿ることによって論証するのが、本論文の中心的な内容である。主に儒教的知識人によって論じられた経世済民をめぐる議論において、宗教制度のあり方は決して小さからぬ関心事であり続け、「礼楽」という概念によって構造化される儒教的な祭祀論の強い影響のもと、政教一致的で儀礼実践を重んじる宗教観(理論)が形成されていったと考えられる。ここではそのような宗教理論を、仮に「経世論的宗教論」と名付けておく。

近代以後の「宗教」概念によって分節化される領域の周辺を曖昧に〈宗教的なもの〉と呼ぶとすれば、当然ながら近世日本においても〈宗教的なもの〉を何らか独自の仕方で分節化していたはずである。しかし、現在の研究状況では、religion概念輸入後の言説に研究が集中し、それ以前に用いられていた「教」、「道」、「宗門」といった概念の分節化するものについて、仏教史や神道史といった各専門領域を横断する形での研究がほとんど行なわれていない。本論文は宗教思想史研究としてその空白を些かなりとも埋める試みであり、特に公的、身体的、実践的、普遍主義的といった含みを持つ「道」という概念についての検討を行なっている。

近世における〈宗教的なもの〉の分節化は、もちろん経世論的なそれだけではない。たとえば神・儒・仏三教を「心の磨種(とぎぐさ)」と見て、いずれを用いようとも自己の「心」の鍛錬・修養という効果においては同じであるとするような、典型的には石門心学等において再生産された言説もまた、歴史的・具体的な三教の彼方に普遍的な「道」や「教」を想定している点で、やはり近世日本的宗教概念の一類型として数えることができよう。ただし、「道」や「教」といった同じ語で論じるにもかかわらず、「心」における一致をいう宗教理論と経世論的宗教論の内容は対照的である。経世論的宗教論は為政者が社会の総体に向き合うような言説の〈場〉において生じるものであり、実際には政策に関わることのない市井の知識人によっても論じられるが、その場合は暗に「自分がもし為政者であれば」という仮定のもとで、しばしば宗教制度の大胆な立て替えについて議論される。一方、石門心学等における宗教理論では、たとえ集団に対して説かれる場合でも、個々人が主体的に修養に励むことを促すような〈場〉において語られる。そこでは三教その他の住み分けによる近世の宗教制度が所与のものとして肯定され、被治者としての分度を守ることが修養の重要な要素として強調されるのである。

どちらの理論にも儒教的要素は色濃く見られるが、個人の修養を強調するそれが新儒教の啓蒙主義的姿勢を取るのに対し、経世論的なそれは古代の儒教においてそうであったような為政者の学としての性格を強めている。前者は民にも十分な教育を施すことで、「愚」から「知」へと移らせようとするのに対し、後者は「愚人」を理屈で説得するのは不可能であり、中途半端に学ぶことはかえって社会的弊害が大きいと考え、言語的な教化ではなく、儀礼等の実践的な制度を整えることで「風化」、つまり無意識のうちに人心を変化させることを重視する。前者は多くの場合、宗教的なものに対して否定的で、とくに民衆の祈祷や祭祀のような習俗的宗教性の多くを倫理に反する蒙昧として批判した。一方、後者は逆に〈宗教的なもの〉を求める民衆の「情」や「欲」を自然なものとして肯定し、それを抑圧するのではなく、川に堤を築き流れを整えることで氾濫を防ぐように、適切な祭祀制度を整えることで「情」「欲」を無害化するような方法を模索する。彼らによれば、そもそも祭祀儀礼は聖人がそのような目的で制作したものであり、むしろ社会秩序を維持するために必要不可欠な装置なのである。それは単に〈宗教的なもの〉をいかに政治利用するかといった問題ではなく、すでに宗教起源論と宗教本質論を含み、神・儒・仏等に共通する普遍的な原理を探究しようとする理論といえる。

「第一章 熊沢蕃山の「大道」と「神道」」において論じる蕃山は、近世における経世論的宗教論の淵源の一人と推測される儒者である。先行研究では主に陽明学的な実践的修養論や合理主義的な経済論が注目され、「神道」の「再興」を唱える宗教制度論については深く議論されてこなかった。蕃山の論じる「神道」は結局のところ儒教に過ぎず、牽強付会による神儒習合として思想史的価値を低く見積もられてきたのである。しかし、本論文では蕃山が「神道」をしばしば「大道」と表現していることに注目して、それが儒教の礼楽論に基づきつつ儒教自体を相対化する普遍主義的な議論であることを明らかにし、その「大道」という概念が〈宗教的なもの〉をどのように分節化したかを論じた。また、それを「神道」と言い換えることで在来の祭祀伝統とどのように結びつくかを示し、神道史上においても大きな意義を有することを指摘している。

「第二章 熊沢蕃山の「寓言」論」では、蕃山の著した物語作品について検討し、主として虚実意識に注目してその宗教理論との関係を探っている。蕃山は神代巻の神話を事実ではない「作り物語」として脱神秘化する一方、効果的な教化のための表現手段として、あるいは真意を婉曲的に語る文体として、「作り物語」という形式を高く評価しており、荘子に由来する「寓言」という概念を用いて肯定的にも論じていた。ただし、天堂・地獄のような仏教の世界観については「寓言」ではなく「権説」という別の語を用い、社会的に有害なものとして批判的している。経世論的宗教論の構造上、「鬼神」の実有を素朴に信じる民衆と、それを社会的装置と見る知識人との間で認識の乖離が生じることは不可避であるが、「寓言」論に見られる複雑な虚実意識は「鬼神」をめぐる二重意識と連続している。

「第三章 増穂残口の「公道」と「神道」」では、蕃山の宗教理論が市井の神道家である増穂残口によっていかに継承されたかを論じている。残口は仏教や儒教との習合性を少なからず残した神道論を展開したが、特に普遍と特殊をめぐる議論において蕃山の影響が見られることは先行研究でも指摘されてきた。本論文では残口の主張が経世論的宗教論として蕃山の延長上にあることを確認しつつ、残口がより民衆の「風俗」に歩み寄る形で具体的な教義や儀礼を制作する構想を持ち、「神道」によって日本国内が精神的に統合される必要性を主張していたことを論じた。また、蕃山においては経世論と両立していた啓蒙主義的修養論が残口の論では後退し、一種の虚偽意識を抱え込みつつ民衆向けの神話的な世界像を提示しようとしていたことを明らかにしている。

続く「第四章 残口批判書の三教観」では、前章に論じた残口の宗教理論が同時代の宗教者達にどのように受け止められたのかという問題を、複数の残口批判書の内容を検討することで論じている。それらの批判書では残口の「神道」による統合という構想は激しく批判されるものの、その虚偽意識を含む理論の骨格は議論の前提として半ば以上共有されていたのであり、経世論的宗教論が仏教者等の三教論にも影響していたことがわかる。

「第五章 荻生徂徠の「鬼神」と「礼楽」」では、荻生徂徠の宗教論が蕃山のそれを引き継ぐものであることを示し、いかなる発展を見せたかを論じている。徂徠は古文辞学という実証主義的な言語論を武器として、古代中国の聖人達が鬼神祭祀を含む「礼楽」をいかなる意図で制作したかを追求した。その理論では鬼神祭祀がビリーフではなくプラクティスの問題であることが強調され、その社会的機能が蕃山や残口よりもはるかに詳しく議論されている。

「第六章 宣長と秋成の神学」では、本居宣長と上田秋成との間で争われた神話解釈論争の検討を中心として、蕃山や徂徠の理論を換骨奪胎した宣長の「古道」論が経世論的宗教論の影響下にあることを示しつつ、その理論的欠陥を批判した秋成の宗教論と対照させて論じている。宣長は蕃山や徂徠のように直接的な政治的改革を目指すわけではなく、学者としての立場に自足する営みとなっているが、「道」を論ずる理論的前提として儒教的礼楽論が見え隠れしている。

「第七章 秋成の「神秘思想」と二つの神語り」では、前章において主に合理主義的側面を論じた秋成の、「神秘思想」と呼び得る側面について論じている。不可視の神については知り得ないとする徹底した不可知論によって、秋成は経世論的宗教論が社会全体に被せようとする認識論的な網から逃れつつ、戯れとして自己限定された詩的作品内においては奔放に神を語るのである。

「第八章 『雨月物語』の多声性について」では、前章に続いて秋成の物語作品である『雨月物語』と彼の宗教論との関係を論じている。『雨月物語』は怪異らしきものが発生する度に複数の解釈が交錯する多声的な構造となっているが、これは既存の宗教的世界観を相対化しつつ、可視的な世界へと全てを還元しようとする合理主義にも批判的な、秋成の「神秘思想」の物語的表現であるといえる。

終章においては、「礼楽」概念の影響下で在来の宗教的伝統を再解釈する近世の諸思想を、経世論的宗教論という視点で俯瞰することの理論的意義をふり返り、また、近代のいわゆる国家神道に関する議論への接続と、西欧における自然的宗教論との比較の可能性について論じている。本論文はまだ一端に過ぎないが、イスラームの側からの「宗教」概念批判と同じく、日本を含む東アジア的近世における「普遍」がいかなるものであったかを明らかにすることは、理論的研究にも大きく貢献し得る重要な研究領域であることを示すことができた。