本研究では、刑事裁判においてなされる個人の量刑判断プロセスを検討した。具体的には、「裁判員制度」と「被害者参加制度」(被害者が裁判に参加することができる制度)がともに適用される刑事裁判において、「裁判は理性的になされるべき」という規範意識、およびこれを実践しようとする動機の強さが、「被害者の発言に心を動かされないようにしよう」という自己抑制的な反応をもたらすと予測し、このプロセスを検証した。

理論編・1章ではまず、本研究が依拠する新しい2つの刑事司法制度――2009年5月開始の裁判員制度と、2008年12月開始の被害者参加制度――の概要を確認した。次いで、両制度に関して提起されている主な議論の内容、具体的には、「被害者の裁判参加は、裁判に不慣れな一般の人々(裁判員)に大きなインパクトを与え、被告人に対して下される量刑判断は従前より重いものになる」と予測されていることを明らかにした。2章では、この予測を検証した先行研究(判例分析と模擬裁判実験)の内容を精査し、被害者の裁判参加が一般の人々(大学生や市民)の量刑判断に与える効果は、必ずしも一貫していないことを導き出した。さらに、これらの研究の特徴として、いわゆる「判断バイアス」の検出を主目的としていること、それゆえに、(被害者の発言などの)外的刺激に影響される、人々の判断側面を専ら検討していることを議論した。その上で、一般の人々の量刑判断を検討する際には、刑事裁判――社会的責任や「規範」の実践が求められる――という場のもつ特殊性、およびその中で「規範」を順守しようとする個人の動機を考慮する必要があることを指摘した。

 以上の議論にもとづき3章では、「感情的である」とみなされることの多い被害者の裁判参加が、「理性」と「感情」を対立的に捉える素朴な概念理解 (Damasio 1994 田中訳 2013) ゆえに、人々から否定的に受け止められる可能性があることを提起した。すなわち、裁判は「理性的に行われるべき場」であるのに対し、被害者は「感情的な要素を持ち込む存在」とみなされやすく、そのため、被害者による裁判参加、あるいは裁判でなされる被害者の発言は「望ましくないもの」と受け止められる可能性がある。この点をふまえ4章では、人々の自己抑制的な認知プロセスに関する社会心理学の理論(Davison, 1983; Pronin, Berger, & Molouki, 2007)を参照した。人は、「望ましくない」とみなしている情報によって自身の判断が影響されることを、できる限り避けようとする存在である。したがって、上記のように「理性的に行われるべき」という裁判規範を保持する人は、裁判における被害者の発言に直面すると、それに心を動かされまいと反応する可能性がある。つまり、被告人に対する量刑判断は(先行研究の予測と異なり)より軽いものとなるか、あるいは変わらないと予測することができる。

5章ではここまでの議論を統合し、本研究で検証する「量刑判断プロセス・モデル」の内容を明らかにした。その概要は以下の通りである。第1に、裁判員を務める個人が「裁判は理性的になされるべき」という強い規範を保持している場合、(そのような裁判規範と対立する存在とみなされる)被害者の裁判参加を否定的に捉え、また「自分は理性的な判断者でありたい」という動機を強めるだろう。そして、この「裁判は理性的になされるべき」という素朴な規範、および「被害者の裁判参加に対する否定的な態度」や「“理性的な判断者でありたい”という動機」は、実際に裁判で行われる被害者の発言に対する「自分は心を動かされていない」という自己認知をもたらすと考えられる。第2に、「被害者の発言に心を動かされていない」という自己認知はさらに、被告人に対するより軽い量刑判断につながることが予測される。そして、前掲したプロセスをふまえれば、量刑判断は、「被害者の発言に心を動かされていない」という自己認知のみならず、最終的には、「裁判は理性的になされるべき」という規範に規定されている可能性がある。つまり、裁判規範が強い人ほど、被害者の裁判参加がある状況では、被告人に対してより軽い量刑を下すことが予測されるのである。第3に、被害者の裁判参加がある状況では、裁判規範の強さは、上記のように量刑判断に対して負の効果をもつものの、被害者の裁判参加がない状況では、自己抑制を行う必要が生じないため、裁判規範の強さは量刑判断に影響しないと考えられる。

以上の「量刑判断プロセス・モデル」を、合計8つの研究により検証した。いずれも、架空の殺人・傷害致死事件に関する裁判シナリオ実験、あるいは模擬裁判映像を用いた実験室実験によるものであり、大学生や一般市民が、疑似的な裁判員としてこれらの実験に参加した。実証編・Ⅰ部(研究1~4)では、裁判での被害者の発言に対し、参加者の多くが「自分は心を動かされていない」と自己認知していることが確認された。このような自己認知は、被害者の裁判参加に否定的な人ほど強くなっており、さらに、「自分は被害者の発言に心を動かされていない」と自己認知する人ほど、被告人に対し軽い量刑判断を下す傾向も明らかになった。これらの現象は複数の研究で再現され、したがって頑健なものと考えられる。

Ⅱ部(研究5・6)では、Ⅰ部で確認された自己認知の規定因を詳しく検討した。具体的には、「裁判は理性的になされるべき」という規範意識の強い人ほど、被害者の裁判参加に対して否定的であり、また「理性的な判断者でありたい」という裁判員としての動機が強く、その結果、「被害者の発言に自分は心を動かされていない」と自己認知していることが明らかになった。すなわち、「被害者の発言に自分は心を動かされていない」という自己認知は、「裁判は理性的になされるべき」という規範意識と、これを実践しようとする個人の動機に起因していることが示された。

以上の結果をふまえ、Ⅲ部(研究7・8)では、「被害者の裁判参加が人々の量刑判断にもたらす効果は必ずしも一貫しない」という先行研究の問題点を、裁判規範の強さという観点から解決することができるか検討した。ここまでの研究は、「裁判は理性的になされるべき」という規範意識の強さが、被害者が裁判参加する状況において、間接的に軽い量刑判断をもたらすことを示している。そこでまず研究7では、この規範意識の強さが量刑判断に対し、直接的な負の効果も有していることを確認した。さらに研究8では、この結果を追証するとともに、新たに「被害者の裁判参加なし」条件を加え、「裁判は理性的になされるべき」という規範意識の強さが、この条件では量刑判断に違いをもたらさない、という予測を検証した。その結果、ほぼ予測通りの量刑判断パターンが確認され、裁判規範の弱い人は、被害者の裁判参加に伴って量刑判断を重くする一方、規範の強い人は、被害者の裁判参加の有無に関わらず一定の量刑判断を下していることが明らかになった。また、「被害者の裁判参加なし」条件では、裁判規範の強弱による量刑判断上の差異はなかったが、「被害者の裁判参加あり」条件では差異がみられ、裁判規範の弱い人は、強い人より重い量刑を判断していることも確認された。

以上の結果は、本研究が仮定した「量刑判断プロセス・モデル」の妥当性を支持するものと考えられる。つまり本研究において、「裁判における被害者の発言は、必ずしも一般の人々の重い量刑判断をもたらす訳ではない」という新たな判断パターンが明らかになり、さらにこのような判断は、「裁判は理性的になされるべき」という規範意識と、これを順守しようとする自己抑制の帰結であることが示された。これに加えて本研究は、「被害者の裁判参加は人々のより重い量刑判断につながる」という予測を検討してきた先行研究が、一貫した結果を得られていない理由のひとつを提起するものといえる。前掲の通り、被害者の発言に伴いより重い量刑を下す人々は確かに存在する一方、被害者の発言の有無によって量刑判断を変えない人々も同様に存在し、両者の量刑判断パターンは裁判規範の強さにおいて弁別できることが明らかになった。つまり先行研究の結果が一貫しないのは、実験参加者全体に占める「裁判規範が弱い人々」の比率の違いに起因している可能性があり、今後は、このような裁判規範の強弱と一般の人々の属性との関連を検討する必要があるといえる。

本研究の学術的な意義として、以下の点を挙げることができる。被害者の裁判参加による量刑増進効果につき、多くの先行研究が予測通りの結果を得られていないのに対し、本研究は調整要因を特定することにより、その予測を一度で実証した。これに加えて、人々の判断パターンにおける自己抑制的な側面を新たに示し、人々の量刑判断に対する総合的な理解を獲得する上で、当該研究領域に対し重要な貢献を果たすものと考えられる。本研究はまた、一般の人々が行う量刑判断とそのプロセスの多面性を示すことにより、「法的判断者としての市民」に対する社会的理解の増進に資するものと位置づけることができる。とくに、「法律のしろうと」が、(場合によっては専門家以上に)厳格な裁判規範を保持していることを本研究が示した意義は大きい。例えば、欧米で裁判官が市民に対して行っている説示(e.g.,「理性的に判断してください」「感情的に判断しないでください」)は、元々強い裁判規範をさらに強めることにつながり、裁判員制度の目的の実現を阻害する可能性があると指摘することができる。