本論文は、ジョン・ロックが『人間知性論』において諸観念の考察という形式によって行った自然、人性、社会の探求と、人間の知識・信念の限界の見極めの中で得られた科学、技術、信仰、道徳についての洞察を明らかにすることを目的とする。ただし以降に述べる理由により、前者を中心とする。

ジョン・ロックは、その主著『人間知性論』において、彼自身がそれを書いた目的であると述べるものよりも、むしろ「観念」の多様な内容と様態の検討に力を入れているように見える。すなわち観念の考察が『人間知性論』の中心課題であり、ロックは観念によってあらゆる事象――時間・空間、自然的物質的事物・現象、人間的・社会的事象、倫理道徳、神の存在を含むあらゆる事象――を説明できると考え、また説明しようと試みた。したがって第2巻「観念について」の内容はそのままロックの自然観、人間観、社会観、道徳観を表している。これらの探求の結果である第2巻は多彩な内容を持ち、これに比して第4巻は精彩を欠くといわれても止むを得ないであろう。従って本論文は第2巻を中心に論じるが、第4巻においても、ロックは科学、技術、道徳、信仰について深い洞察を示しているので、この点も明らかにしておきたい。

本論文は、ロックの提唱する「観念」とは何かをまず明らかにした上で、ロックが最も関心を持ち、その解明に努力したと思われる幾つかの問題を選び出してその主題ごとに検討をすることにした。その主題は次の13問題であるが、これを3部構成とする。すなわち

第1部「観念一般に関する問題」は、ロックの提言する「観念」とは何かを明らかにするために、(ロック自身はあまり言及しないが)観念一般について検討する。

第1章「観念とは何か」:ロックによる「観念」の定義と観念は経験からのみ得られることの意義が述べられる。

第2章「観念の起源」:感覚と内省は観念の二つの起源であるが、そのうち、「感覚の観念」の起源は心の外の事物が諸感覚に衝撃を与えるそれぞれの「特徴」であり、それらを心は観念として捉えると考えられる。しかしそれらの名前は社会的・文化的に既に確立されており、我々はそれに同意することによって人間社会のコミュニケーションをはかることができるのである。「内省の観念」のうちで「知覚」が重要であることに注目したい。すなわち感覚が衝撃を受けても、また内省の観念が生じようとしても知覚がなければ観念は成立しない。知覚こそは諸観念を統括するキー観念である。

第3章「観念の性格」:ロックの観念は多義的であるという通説に対して、本論文は異論を唱えるが、内省の観念特に思考を含む知覚が諸観念を統括する機能に着目し、観念は多義的ではなく十分統一的に解釈できると主張する。

第4章「観念と実在」:観念と「実在」との関係についても「知覚の表象説」などの批判が多いが、それらを検討した結果、「実在」は「十分確認された概略仮説」であるとするマッキー説が最もいろいろなことを説明できると判断する。しかし本論文の立場として、根本的には、観念が外界の「実在」と分離しているとすれば、我々は動物的にすら生存できない、まして社会生活も成り立たないことから、観念と実在の間は緊密に連結していなければならないと主張する。

第2部「諸観念に関する問題」は、ロックが最も関心を持ち、解明に努力した問題とそれに関わる諸観念及びそれに密接な関係のある言語について探求する。

第5章「単純観念、特に一次性質と二次性質」:一次性質と二次性質の区別について、科学はロックの提唱を支持するが、哲学からは不評であった。しかしロックの目的は、実はこの区分は当代の自然科学が認識している区分を一般の人々に紹介し、そのことによって一般常識の誤り、すなわちすべての観念が物体にあるとおりの類似であるという思い込みを正すことにあったことを明らかにする。

第6章「単純様相、特に空間と時間の観念」:単純様相は、ロックが主張するほど簡単に作られるものではなく、素材・作用・主体の三重構造を持つことが解明される。その結果、空間および時間の観念が作られる状況はロックが述べているほど簡単ではないことが明らかになる。

第7章「力能及び関係――特に『人間知性論』における道徳論」:ロックが非常に関心を持っていた道徳問題についての論議であり、彼はこれを力能の一種である意志と自由、欲望と快楽、欲望の停止と真の幸福というような観念によって解明する。先行研究の中にはロックの道徳論に対して、経験論的快楽主義と合理的道徳論との「矛盾」、支離滅裂、破綻を指摘する批判が多いが、本論文は、「意志を決定するもの」について第1版から第2版への変更が重要な意味を持つことを指摘し、ロック理論は破綻していないことを明らかにする。次に「関係」の観念を考察し、特に道徳関係を考察するが、3種類の道徳規則が有意的行動の基準として働くことが指摘される。

第8章「実体の観念」:ロックの実体論についても批判的な先行研究が多いが、それが誤解であることを明らかにし、擁護論を展開する。批判の中心はロックのいわゆる「基体」または「実体一般」の観念の内実についてであるが、これに対して本論文はロックの主張は粒子仮説に基づくものであって、事物の内部組織は人間にとって不可知であるから当該事物から来る単純観念の集成をもって実体の観念としたのであって、「基体」という観念はあくまで仮説だと考えたのであると擁護する。

第9章「言語、特に一般名辞について」:ロックの言語論の中でも一般名辞と抽象観念を検討し、バークリーのロック批判を取り上げ、バークリー側に誤解があったと思われると論じる。

第10章「唯名的本質と実在的本質」:このロックのユニークな理論の解明を目指す。ロックはロバート・ボイルの粒子仮説に基づいてアリストテレス=スコラ哲学の実体的形相論に対する批判として「唯名的本質」と「実在的本質」を提唱したのであることを明らかにする。「唯名的本質」は単純観念の集成であって「知性の製作品」であると考えるロックの学説の意義を解明する。

第3部「知識と信念に関する問題」は、ロックが本書の目的と称しながら、知識および信念についてやや形式的な考察をしていると思われる第4巻を中心に取り上げるが、実はここでも彼は深い洞察を随所に示していることが判明する。

第11章「ロック知識論における直観と経験」:「直観的知識」はロックによる知識の定義(「知識とは観念の一致不一致の知覚である」)に当て嵌まるが、「感覚的知識」はそれに当て嵌まらず、彼の知識論は二元論に陥っているとの批判が通説となっているが、それに対して反論し、どちらもロックの定義に合致していることを明らかにする。また同じように理性を使いながら、幾何学などの論証的知識は様相の一致不一致の知覚であるために確実性が確保され知識として成立するが、自然科学の確率的知識(信念、意見)においては、実体の観念が完全性と十全性を欠くために、知識としての確実性を欠くというのがロックの考察であるという解釈を提唱する。

第12章「論証的知識としての『人間知性論』における自然法」:道徳原理=自然法は生得的でなく論証できるし、またされなければならないとロックは主張する。しかし彼自身はその論証を明瞭に示していない。本論文は(ロックに代わって)できる限りその論証を試み、神の存在の論証から出発して自然法の存在についての論証までは成功したが、ロックは『知性論』では神の存在の「デザイン証明」を採用していない故に神が人間以外の万物を創造したことを前提できないために、他者の所有の侵犯を違法とすることができず、従って自然法の内容の論証は十分ではない。彼の経験論の枠組みの中で論証道徳が成立するには限界があり、結局、自然法の証明は論証ではなく啓示すなわち信仰によることを明らかにする。

第13章「信念の一種としての科学・技術と信仰」:ロックが人間の能力は自然科学にではなく、道徳科学に向いていること、自然科学の理論に対してかなりの疑問をもっていることを主張し、一方、技術は人類に多大の貢献をしていると述べているが、検討の結果、技術も自然科学と同様に(ロック定義による)知識のような絶対的確実性はないが、確信に近い確実性を有するので有用であるとロックが考えたのであるという結論を得た。他方、信仰も信念の一種と考えてよいかについてロックの主張を検討した結果、信仰は啓示を他人の伝承によって得るとき、信念と同様の蓋然性の疑惑に直面するが、その根拠に対する理性の厳しい審査を通過した啓示によるときのみ、それは真の信仰であり、最高度の確実性を持つというロックの主張に鑑み、信仰も信念の一種であると考えられるという結論を得た。

最後に「結論」を述べて本論文を閉じる。

結論「ロック経験論と観念」:ロックが彼の経験論を「観念」によって構築した理由は、観察や実地経験によって「単純観念」を得、その単純観念を最小単位として複雑観念を「知性の製作品」として作り上げるからである。そのためには労苦と勤勉が伴う。またロックが自然科学を援用することに対して基礎付け主義からの批判があるが、ロック知識論の基礎となっている観念は、その形成過程で言語制度、理論、文化等の「他者」によって規定されていることの理解に立てば、その「知識」は自然科学的考察をも包摂した広い基盤があるのは当然である。このようにロック経験論は、時間性もしくは歴史性と社会性すなわち公共性とを持ち、森羅万象を論証するとともに、人間の生の実相を解明し、その行くべき方向を示しているのである。(了)