本論文は、Ⅰ「伝承と創造」、Ⅱ「方法としての多義性」、Ⅲ「物語の構造と表現」と、全体を三部に分け、より精確な解釈と物語世界構築法の解明を目指し、それを通じて物語を織りなしていく虚構の方法を見出すことを目的としたものである。従来宇治十帖を理解する際のキーワードとして用いられてきた「相対化」という前提に疑問を呈し、宇治十帖の恋物語は、正編に比して「相対化」されるどころか、より豊かに語りなされていた点を明らかにした。さらに従来一義的な解釈が求められてきた箇所を「多義性」の観点から再分析することで、多義的に解釈され得る語を殊更に用いることにより、物語世界が切り拓かれていた点を明らかにしたつもりである。研究の細分化がさまざまな問題点を生じさせた要因であると考えるのだが、本論文では、宇治十帖の主要事件や論争点を総合的な観点から扱うことで、その全体像を展望し、従来の解釈を問い直すことができたと思われる。

Ⅰの第一章「人物造型の方法を考える―大君物語を中心に―」では、昨今の人物造型論の研究姿勢に異議を唱えたうえで、大君の人物造型が物語の論理、主題と深く結び付いていることを明らかにした。本章では大君の結婚拒否の理由を、大君と薫の関係性と時代背景という二つの観点から分析したが、その際の大君の造型には『源氏物語』内外の多様な人物の影が投影されている。しかしながら、宇治十帖ではそのような女君の様相を、そのまま模倣、踏襲するのではなく、物語の根底に流れている主題に合わせ、さらなる変化を伴ったうえで造型することで独自の大君像を創造していた。それによって宇治十帖は、愛情が深化するにも関わらず、結局二人は隔たってゆくしかないという悲劇的な恋物語として誕生することができたのである。

Ⅰの第二章「引用と想像力―「明けぐれ」を手がかりとして―」。まず、『源氏物語』における「明けぐれ」の用例を分析し、この言葉が物語の重要場面で、登場人物の心理と深く関わり、苦しみ、絶望感や惑乱した心を象徴する言葉として用いられていることを発見した。このように構築された「明けぐれ」のイメージを宇治十帖がいかに受け入れているかについて、「源氏取り」、特に柏木物語の受容の問題と関連付けて考えた。柏木物語で練磨かつ凝縮された言葉のイメージを受容することによって、場面構成や状況設定および恋に低迷する薫像の造型の面においてより豊かな物語の展開が実現される。ただし、その際、またも単に柏木物語の要素を踏襲するのではなく、宇治十帖の論理に基づき、さらなる想像力を発揮した再創造がなされていることに留意する必要がある。こうした引用と想像力により、言い換えれば、正編や『源氏物語』以前の作品の結晶をその土台にして、新たな構想、物語固有の論理、または表現の再解釈などを試みることで、宇治十帖の独自性が構築されるのであった。

Ⅱの第一章「八の宮の遺言の多義性―呪縛される遺言から利用される遺言へ―」。従来よりその言葉によって登場人物が呪縛されたと指摘されてきた八の宮の遺言であるが、必ずしもそうとは言い切れない。八の宮の遺言は、平安朝物語にみられる一般的な遺言の様相――その言葉が、意味のはっきりしたソリッドなものであり、言葉によって生者を呪縛するというパターン――とは違い、むしろ生者各自の立場にあわせて利用されるという極めて稀な描き方がなされている。各人物は、それぞれ八の宮の遺言に対し、ただ盲目的に従っているわけではなく、その意味を自ら主観的に判断し、解釈した上で受けとめており、またその遺言を根拠として相手を説得し、自分の意を貫こうとしているのである。しかし、八の宮の遺言は、それぞれの解釈の相違により、各人物同士が姫君の結婚問題などをめぐって衝突するなど、物語に葛藤を引き起こす。その結果、宇治十帖の前半は各登場人物の姫君の結婚に関するさまざまな思惑をもとに描かれていき、結局大君と薫は互いに惹かれ合いながらも結ばれず終わるという、悲劇的な恋物語としてその幕を閉じるのであった。

Ⅱの第二章「多面体としての薫」。薫は反世俗、反栄華の生き方を求める理想的な男君としても、その反面、愛執に低迷する、負の側面を背負っている人物としても造型されている。このような複雑な薫像は、宇治十帖の性格とも深く関係している。宇治十帖は単なる恋物語の図式の次元を超え、相互に深い共感を抱いていながらも、結局結ばれることなく終わるという、その恋の裏面にある悲しみやはかなさなどを描き出しているという点で、さらに深まった物語として作り上げられている。このように、物語が立体的で複雑なら、そこに登場し、物語を織りなしてゆく人物もそれにふさわしく造型される必要がある。多面体の様相を見せる薫像はまさにそのような物語の要求に応じたものであると思われる。そうした造型が行われたことにより、物語はその恋の結末をめぐってそれぞれの局面で大きな転換点を迎え、多様な角度からより深められていくのである。人間がいかに多面的な存在であるか。紫式部は虚構の物語を織りなす方法の一つである人物造型を通し、それを『源氏物語』のなかでみごとに実現し、証明してみせた。薫は光源氏亡き第三部の世界で相対化されたどころか、より一層豊かに描かれていることが、こうした分析を通し、明らかになったと思われる。

Ⅱの第三章「宇治十帖後半の世界が描き出しているもの―浮舟の出家を中心に―」では、手習・夢浮橋巻を中心に、物語が浮舟の出家をいかなる視点で語りなしているのかを問うとともに、横川の僧都の消息をめぐるいくつかの論点についても論じた。この消息は古注以来、それが還俗勧奨か非勧奨かについて絶えず議論されてきたが、未だ解釈の一致を見ていない。本論文ではその理由について、僧都の消息はその意味を明確に決めることができず、読む側がいかに受けとめるかにより、さまざまに解釈される余地が含まれている、いわゆる多義性が存在するからであると分析した。さらにこの消息を還俗勧奨か、還俗非勧奨かという二者択一の問題として単純化することに異議を唱え、こうした状況で多義的に捉えられる消息を用意した物語の意図を重視すべきであると主張した。真意がはっきりと把握できない僧都の消息に接した浮舟は、この消息が自分の身の処し方について、いかなる指示をなすものであるのかと迷うしかない。このように僧都の消息は、物語の最後の佳境においてもなお、浮舟を翻弄し、劇的緊張感をますます高めていく役割を果たしている。と同時に、いくら浮舟が頑なな態度を貫き、仏道に専念しようとしても、それはけっして容易ではない、さまざまな苦難を耐えねばならぬ艱難の道であることをも改めて表わすものとなっている。この僧都の消息はまた、他者の了解不可能性を浮き彫りにするものでもあった。その点では、薫の浮舟への最後の手紙も同様である。僧都からの消息にしろ、薫からの手紙にしろ、浮舟への善意がこめられているのではあるが、浮舟の立場や実情に対するじゅうぶんな理解が欠けているため、彼女に対していかなる説得力も持たぬものとなってしまい、かえって浮舟を迷わせ、苦しませるものであることが明らかになったと思う。

Ⅲの第一章「浮舟物語の方法―入水の決意をめぐって―」。浮舟の入水の決意の経緯をめぐっては、自分を取り巻く状況や事態において、緻密に叙述されている浮舟の心内表現を通して薫、匂宮との関係に対する浮舟の当初からの自覚を自ら再確認するという構図を形成することで、入水の決意の必然性を導き出すと同時に、「あてになまめいたる」浮舟像の構築により、造型の面でもその選択の必然性を追求しようとしている物語の方法を見出すことができると思われる。さらに、蘇生後に現れている浮舟のさらなる変化については、それが浮舟巻にみられる浮舟の以前からの認識が生み出したものであることを考えると、浮舟の心中思惟がもたらす手習巻以後の物語展開への影響関係も指摘できるのであろう。そして女主人公の入水の決意、または出家という物語の大きな転換点を紡ぎだす際、浮舟の心境を中心として主に叙述されていることを考えてみると、これまでいくぶん過小評価されてきたその心内表現の位相について、改めて見直す必要があると思われるのである。 

Ⅲの第二章「蜻蛉巻論―その位相をめぐって―」。蜻蛉巻の前半は浮舟を失った人々の多様な感情を描くことで、人間の心理を丹念に掘り下げている。と同時に、匂宮の浮舟に対する感情の変化から宮が物語の舞台から退場し、その後の物語が薫と浮舟を中心に展開されることをほのめかすなど、以後の物語の展開と関わるいくつかの暗示をなしている。後半部分は以後の物語の方向性をより明確に提示している。浮舟の生存を知り、薫が彼女との再会を希求するしかない理由や二人の恋の結末がけっして幸せなものではないことを、薫の都でのさまざまな女性との関係を通して表しているのである。以上の分析により、蜻蛉巻が浮舟失踪を受け、単に浮舟の失踪後の人々の悲しみを描き、その後半部分では都随一の貴公子として華やかな暮らしを送る薫の姿を描くために設けられた巻ではないことが明らかになったと思われる。その内容の異質さが指摘されている蜻蛉巻の前半と後半は、実は極めて有機的につながっているのである。本章を通し、宇治十帖における蜻蛉巻の位相――浮舟の入水事件をまとめあげる一方で、物語の終焉に向かっての新たな物語の世界を切り開いていくための巻であることが改めて確認できたと思われる。