本博士学位論文は近代における日中仏教交流が近代中国仏教形成に対して及ぼした影響を考察することを目的とするものである。具体的には、近代日本と近代中国の仏教者たちの歴史認識において現れた、中国仏教の過去と現在に対する理解、または過去と現在の関係性についての評価をめぐる言説を分析している。その作業を通して、中国人仏教者の歴史認識が近代日中仏教交流で得られた知見、あるいは交流を通じて日中で共有された枠組みを参照しつつ形成されていったことが明らかになる。つまり、筆者が本論文において指摘したいことは近代日本仏教の近代中国仏教の深層に対する思想的影響である。

19世紀、欧米列強のアジア侵略が強制的に東アジア諸国における大きな変化を引き起こした。むろん、アジア諸国の社会におけるこの変化は宗教の次元までも及び、宗教と社会の関係を再構築せざるをえない状況を生み出した。この過程において、日本の仏教は自己を「日本」というナショナルな存在との関係を通じて再定義しようとしたのと同時に、中国にある仏教は同じ試みを国民国家「中国」という存在を通じてなそうとしたのである。しかし、両国におけるこの二つの過程は実に絡み合っていたのである。

近代化の過程は日本においても中国においても、当時存在していた仏教が「堕落」または「衰退」したものとして見なされる結果をもたらした。特に中国仏教においては、欧米列強がもたらした中国全体に対する危機の一部として、社会との関係を再構築するのみならず、仏教自体を再構築する必要性が強く意識されていた。理想視された過去に基づいて、現在において仏教を再建して、「復興」させる運動がこの思想的環境の中から登場した。これは当時のみならず、現在の多くの近代中国仏教研究にとっても大前提となっている見解であるが、唐代以降の仏教の衰退を指摘すると同時、仏教が清代の最も有力な宗教であることを自明視する研究は矛盾をはらんでいるように見える。したがって、本論文は「堕落」、「衰退」と「復興」を自明の概念としてではなく、特定の思想的環境が生み出したイデオロギーとして見なし、その形成過程を究明にする。

 

また、従来の研究は日中仏教関係を記述的に取り扱い、日中仏教交流の底流をなしているパターンと、中国仏教の深層に対する影響に触れない先行研究が多い。中国仏教の深層に対する日本仏教の影響を示すため、本論文は鎌倉時代の僧侶凝然(1240年-1321年)の著作やほかの日本仏教書の中国における受容を通じて、仏教を「十宗」や「十三宗」という複数の独立した宗派に分ける日本仏教独自の分類様式がいかに清末・中華民国期の中国思想界に根付いたかを究明する。この影響によって、中国人仏教者が中国仏教の過去を宗派というレンズを通して見ることとなり、当時すでに衰退しているとされていた中国仏教像は具体的な形を持つに至ったのである。この意味において、近代中国人仏教者たちが仏教復興の一部として復古させようとした中国仏教の過去(隋唐の仏教)は、実は、既に日本的な仏教思想の視点を通して再構築された「過去」であった。結果として、19世紀末・20世紀前半に日本と中国の間で交わされた仏教交流では「宗派」が中心概念として登場し、日本仏教と中国仏教をアジアにおいて位置づける試みの上で使用されることになった。言い換えるなら、近代中国仏教は日本仏教が構築した思考枠組みの中に取り込まれたのであり、従って近代中国仏教を考察する時には、日本仏教を中核的な問題として設定せざるを得ないのである。

本論文の構成は以下のようになっている。

 

 第一章は、明治期・大正期において中国に渡った日本人仏教者における中国仏教観を分析し、太平天国や廟産興学運動などの仏教に対する負の影響を認めながら、日本人仏教者の中国仏教観を認識問題として扱い、日本人の眼差しにおけるイデオロギー性を指摘する。当時の日本人仏教者は中国仏教を理想視した結果、中国仏教の現実を見た瞬間に大きな失望感を抱かざるをえなかった。それ故、多くの日本人仏教者は中国仏教を堕落し衰退した仏教として軽蔑するようになった。そして、この中国仏教を軽視する態度において、宗派概念が中心的な役割を果たしていたことを示す。日本人仏教者は、仏教は複数の独立した宗派に分類されるという日本仏教の枠組みに基づいて中国仏教を捉えようとしたため、中国における宗派の欠如に気づき、中国仏教の堕落のひとつの証拠として注目した。

 第二章においては清末・中華民国初期の中国人仏教者自身の中国仏教観を分析する。中国人仏教者の一部においても、中国仏教の堕落を主張する思想の存在を確認できる。しかし、日本人仏教者の場合と同様、その思想的背景を究明すれば、この仏教堕落言説のイデオロギー性が明らかとなり、彼らの言説を決して客観的な事実の描写として見なすことはできないことが了解される。本章では、その一例として、当時の末法思想を取り上げる。当時の末法思想論では、仏教内部の問題という実態より、仏教の堕落論という思想が中国全体の危機の一部を構成するものとして扱われている。筆者は当時の一般思想界の仏教界に対する影響を指摘し、清末仏教界における末法思想を「ナショナライゼーション」という概念で説明し、それを仏教が形成されつつある国民国家の中へ取り込まれる過程における現象として位置づける。また、中国人仏教者の言論活動においても宗派概念の重要な役割を指摘し、従来の中国仏教では宗派概念がそれほど重視されていなかったのに、中華民国期の仏教堕落思想の中心的な構成要素となっていたことを示す。終わりに、宗派概念の登場が日本仏教による影響を示唆しているという見通しを示す。

 第三章では日本的宗派概念の受容過程が分析される。章の前半では、明治・大正期日本の中国仏教史研究における宗派概念の役割を分析し、日本の中国仏教研究に対する鎌倉時代僧侶凝然(1240年-1321年)の影響を示す。また、日本の中国仏教史研究において、宗派概念が過去の中国仏教の偉大さを示す一方、当時における日本仏教の優位を主張するというイデオロギー的機能を果たしたことを明らかにする。本章の後半では、日本の研究者と仏教者が提供した宗派を中心とした中国仏教史観が、中国人仏教者によって受容された過程を描く。凝然の著作の影響下、仏教を「十宗」や「十三宗」に分けるかつてなかった分類方式が中国仏教界において普及し、支配権をえた。このように、中国人仏教者は日本の宗派中心的な歴史物語を受容したが、逆に宗派概念を東アジアにおける中国仏教の優位を主張するために転用した。近代東アジア仏教の言論空間において、日本的な宗派概念が諸国の仏教の位置づけと上下関係を決める中心的概念となったのである。その後、中国では宗派中心的な歴史物語に対する批判も唱えられたが、日本的な中国仏教史観が提供した宗派的枠組みを完全に脱することはできなかった。

 以上の三章では近代中国仏教に対する日本仏教の影響を主に抽象的な歴史認識と宗派的分類様式という観点から分析したが、第四章では密教復興という具体的な現象を取り上げることによって、日本仏教の影響が現地に対して持っていた意味を考察する。密教復興は日本的な宗派概念の導入がもたらした産物のもっとも顕著な事例である。日本的宗派観の影響下、特に1920・30年代において中国仏教界の注目を集めた密宗の復興が試みられた。中国において喪失したとされた密宗を回復するため、中国人の出家者と在家者が日本に渡り、高野山などの密教道場において修行した。しかし、日本からの密教の逆輸入は最終的に中国仏教界においてある在家者教団と出家界の間の衝突を生じさせた。密教をめぐるこの衝突の問題の所在を明確にするため、王弘願という在家者と彼が成立した震旦密教重興会という教団の例を詳細にとりあげ、王と太虚の間で交わされた議論を分析する。本章以外では、如何に中国仏教が日本仏教の構築した思想的空間の中へ吸収されたかを示したが、ここでは王の活動に注目することによって、近代日中仏教交流における中国人仏教者の積極性と創造性を紹介している。日中仏教交流はダイナミックな現象であり、日本仏教や中国仏教のいずれもが完全にコントロールできない力を持っていた。この分析の副産物として、先行研究においてしばしば仏教進歩派の代表者として描かれてきた太虚の保守的な側面が見えてくる。また、中国人仏教者が抱いていた日本仏教観の知られざる重要な側面もうかがえよう。

 結論では、筆者が本論文の基礎にある問題意識をもう一度総括的に考察し、清末・中華民国期の日中仏教交流が現代まで及ぼしている影響にも言及する。現在においても、中国における仏教史概説書は、その多くが日本から伝わった宗派的分類様式を使用している。中華民国期の密教復興運動も、現在もその後裔が存在していることが示すように、決して過去の逸話で終わるわけではない。現在も日本仏教の思考枠組みは中国仏教を規定し続けているのである。