アブー・シャイフ(d. 979)が著した『威厳の書』は、神の徴(āyah)に関する伝承を集めた伝承集である。徴とは、自然界の現象、奇跡、聖典クルアーンの章句などを意味する。『威厳の書』には、天、天体、気象、大地、海、河川、山、動物など自然界に現れた徴に関する伝承が多数収録されている。本書はこれまで、伝統的(翻訳活動を通して受容・発展した外来起源の自然学とは異なる)自然学の作品として、イスラーム科学史の文脈に位置づけられてきた。本論文は、科学史という伝統ではなく、禁欲主義やスーフィズムの伝統から本書を捉えようとするものである。

『威厳の書』の第1、3章には「タファックル」という語が多用されており、同語は先行研究でも注目されてきた。クルアーンの中では「かれこそは大地を広げ、その上に山々や河川を配置された方である。またかれはそこで、全ての果実を2つ(雌雄)の対になされた。…本当にこの中には、考える(yatafakkarūna)人々への徴がある」(13:3)のように、自然界の事物や現象に思いを致すという意味で度々用いられている。先行研究では、『威厳の書』におけるタファックルとは、こうしたクルアーンの用例に基づき、神への称賛行為として、様々な自然現象についての知識を得るための精神的実践であるとし、イスラーム科学の発展を促したという説や、感覚では捉えられないものを含め、世界の中の知覚対象を1つの有意味な総体に秩序づける精神的働きであるという説が示されている。また、このタファックルがスーフィズムに導入されてからは、専らスーフィーの修行法として用いられるようになったとも指摘されている。しかしながら先行研究は、スーフィズム及びそれに先立つ禁欲主義の観点からの分析はほとんど行なっておらず、テキストを詳細に検討してもいない。ちょうどスーフィーの理論書が書かれ始める時代に当たるアブー・シャイフの『威厳の書』は、スーフィーやそれ以前の禁欲家たちの実践としてのタファックルと共通する内容を含んでいる。加えて、初期の禁欲家たちの多くは伝承家でもあったことが指摘されており、本書もそのような視点から考察する必要があると考える。この目的のために、本論文では具体的な自然界の事物に関連した伝承ではなく、世界における人間のあり方を示した伝承を中心に考察する。

第1章では、著者の生涯と主な著作を紹介する。第2章では、『威厳の書』の同名著作を概説する。続く第3章では、クルアーンの章句や神名注釈論の中で、「威厳者(ʿaẓīm)」としての神がいかに表現されているかを分析し、それを参考にしながら『威厳の書』における神に関する伝承内容の特徴、さらに本書全体の記述傾向を指摘する。ʿaẓīmは基本的に「至大さ」を意味する語であり、神及びその創造物である世界は、人間には知りえない至大さを有している。この基本的認識のもと、本書では神の至大さや超越性、絶対性が強調され、神の創造物の素晴らしさが語られると同時に、神と比べて人間がいかに小さく弱い存在であるかが強調されることになる。

第4章では、『威厳の書』第1~3章を取り上げて考察する。これら3つの章は、なぜ人間は神の徴について知るべきであるかを説いている。この中に、スーフィズムや禁欲主義の実践としてのタファックルと共通する内容を伝える伝承が含まれていることを示す。そのような伝承を用いながら、世界についての知を増大することよりも、世界に目を向けることを通した性質の改善や、来世での幸福の獲得に主眼を置いて世界観察を意味づけていることを明らかにする。

第5章では、人間の成り立ちやその霊魂、他の生物との関係などを示す伝承を取り上げ、本書の中で人間存在がいかに特徴づけられているかを明らかにする。人間自身が持つ特徴だけではなく、人間が他の存在との関係性において、世界の中でいかなる位置を占めているかという問題は、人間がいかに世界と対峙するかということと密接に関わる。本書に収録された伝承では、神の代理人であるはずの人間の地位が低いこと、神により与えられた理性があまり重視されていないことを示す。こうした諸伝承が採録されたことによって、他の自然学書にみられるような「人間固有の能力である理性を行使して、世界についての知を増大する」という主張が、本書においては明示されないと考えられる。また、このように人間の地位の低さ、弱さを語る伝承にも、禁欲主義との関連が見出せることを示す。

神の至大さ、超越性を語る『威厳の書』の枠組みの中では、神に対して人間の弱小さが強調される。そのとき、人間を他の生物よりも低くみなし、謙虚さを求める禁欲家たちの言行が、本書の文脈に相応しいものとして採録されたものと考えられる。自然界の事物や現象に関する面白く不思議な伝承だけでなく、こうした禁欲主義的な伝承を採録することで、世界について知ることを通し、そこから謙虚な態度を得るよう促す。禁欲家やスーフィーの実践につながるような仕掛けが、本書には隠されているのである。ここにはまた、アブー・シャイフのように、自身は禁欲家やスーフィーではない(少なくとも、後世そのような評価を与えられていない)伝承家も、こうした伝承を学び、継承していたという事実が示されている。本書は、禁欲主義やスーフィズム運動の裾野の広さを示すものとしても位置づけられるであろう。