本論文の目的は、絵入り雑誌というメディアを分析することによって、19世紀後半ロシア史において、これまで未解明であった都市中間層の実態を、文化的側面から明らかにすることである。

従来、近代ロシア史の理解は、専制の維持を意図する体制側と、改革を主張するインテリゲンツィヤとの二者が指導的役割を果たし、その下で、農民と労働者とが埒外に置かれたという図式にもとづいた。このように、専制とインテリゲンツィヤという支配・教養エリートを、ロシア史に政治的、社会的転換をもたらした要素と見做すことは、19世紀前半までについては適切である。だが、都市化の進行した19世紀後半については、中間層をも含む理解の枠組みを構築することが、不可欠だと考えられる。

しかし、ロシア史において、都市中間層という範疇を定義することは容易ではない。1990年代に著された諸研究は、19世紀後半ロシアの企業家と専門職者層に、公衆や市民社会の発展可能性があったことを見出そうとしたが、西欧的モデルを単純に適用し、ロシアにも「意外な」開明性があったという議論に終始している、と批判された。2000年代には、消費文化からロシア中間層を論じる諸研究が現れ、都市中間層がその嗜好にもとづいて自由に商品を選択した結果、ロシア社会に、国家の伝統的制度に束縛されない個人意識が広まった、と論じた。ただしこれらもまた、ロシアに西欧的な都市中間層が存在した、と指摘するにとどまり、都市中間層という範疇と、従来のロシア史研究で分析対象となってきたインテリゲンツィヤ、専制とを充分に関係づけていない。

こうした研究状況を受けて、本論文は、絵入り雑誌という週刊のグラフ雑誌をとりあげる。その理由は、第一に、絵入り雑誌が、多くの挿絵を付した記事や広告によって、生活のスタイルを提示する性格を有したからである。1870年代より挿絵入り広告が大量に掲載されていた絵入り雑誌の分析は、19世紀後半の消費文化から都市中間層を考察するにあたり、重要な史料になるだろう。第二に、絵入り雑誌を制作した出版者、書き手、読者が、いずれも都市中間層に属する人々だったため、都市中間層という曖昧な範疇の中に、ある具体的な圏域を設定できるからである。こうした分析対象の明確化は、ロシア都市中間層を、西欧的な枠組みにもとづいて類型化することから離れ、実態に即して考察することにつながるだろう。

さらに、このように分析対象を具体的に設定することによって、ロシアの都市中間層と、インテリゲンツィヤと専制との関係を考察することが可能になる。まず、都市中間層とインテリゲンツィヤとの関係については、絵入り雑誌を媒介として成立した出版人、書き手、読者という人的つながりの領域と、先行研究が関心を集中させてきた、インテリゲンツィヤの教育啓蒙的な出版活動の領域との異同を示すことによって明らかにする。また、都市中間層と専制との関係については、絵入り雑誌が掲載した皇帝に関わる挿絵と、君主側が意図したツァーリ表象との齟齬を示すことによって論じる。

以上の問題設定のもと、本論文は、アレクサンドル二世が即位する1855年から検閲が廃止される1905年までを対象時期として、次のような構成をとる。第1章および第2章では、19世紀後半ロシアにおいて、絵入り雑誌が媒介となって形成された書き手、出版人、読者の構成を明らかにする。第3章では、この雑誌が掲載した「科学記事」「服飾記事」「地誌記事」を分析することで、消費文化を反映した記事内容の機能と役割を論じる。そして、第4章では、「王室記事」と宮内省公式出版物とをとりあげて、絵入り雑誌の圏域に流布したツァーリ表象を分析する。

 

以下、一連の分析内容を要約する。

絵入り雑誌の発行者は、西欧の書籍事業の中心地で経験を積み、商機を求めてペテルブルクに移住してきた出版企業家たちだった。彼らの出版社経営は、刊行物の定期購読料に大きく依拠した。それゆえ、読者の嗜好に注意が払われ、出版社が作家を評価するにあたっても、読者の間での知名度や作品の売れ行きが、判断の基準となった。こうした商業的な原理は、インテリゲンツィヤと異なり、原稿料制度によって格付けされ、絵入り雑誌等の小記事の執筆で生計を立てる、新しい著述家群を生み出した。

また、絵入り雑誌をはじめとした商業出版物の増加は、読者の中心的な構成主体が、官吏、聖職者から、商人、町人、医師、教師、弁護士といった都市住民に拡大する過程と同調していた。その結果、インテリゲンツィヤの読書とも民衆の読書とも異なる、「軽い読書」という行為が都市で広まった。さらに、絵入り雑誌は、既存の定期刊行物を上回る規模で、ヨーロッパ・ロシアの地方部へと流通した。この結果、首都と地方都市とが、出版メディアによって結びつけられた。そして、両者の間には、首都が優位に立つ出版機構と、地方読者の大都市への憧れとによって、19世紀後半を通じて、「都会と田舎」の上下関係が形成されていった。

先行研究が明らかにしてきたように、19世紀後半のロシアでは、インテリゲンツィヤが、識字と読書の普及による民衆啓蒙活動に取り組んだ。だが、この時期の都市中間層の中には、そうした活動を行った人々をも含み込む形で、「軽い読書」に携わる人々の圏域が形成された。このように、「軽い」文化と結びついた都市中間層が形成されたことで、ロシア社会におけるインテリゲンツィヤの影響力は、相対化される傾向にあったと考えられよう。

また、絵入り雑誌は、次のような記事内容を提供した。

第一に、絵入り雑誌は、科学主義的な思考法が推奨される1860年代以降の風潮の中で、人物の風貌を図示して類型化する「生理学もの」を広めた。「生理学もの」は、近代西欧で流行した、都市民の相貌を職業別に分類する似非科学本だった。すなわち、絵入り雑誌の記事内容は、都市化の進行を反映していた。第二に、絵入り雑誌は、18世紀以来のロシアで身分制秩序と結びついていた西欧風衣服が、19世紀半ばに大衆的な商品となった際に、その流通機構の一翼となった。そして、「都会の服」と呼ばれるようになった西欧風衣服の着用者を、世間体のよい人物として肯定的に評価した。つまり絵入り雑誌は、既成の体制秩序とは異なる、都市の消費文化を反映した新しいアイデンティティを読者に周知した。第三に、絵入り雑誌は、帝国内の居住民と風景とを、国民的に共有される情報として周知した。その一方で、伝統的衣装を着けた農民やロシアの諸民族は、類型化して展示され、各地の諸都市は、観光名所としてパターン化された。つまり絵入り雑誌の誌面において、帝国の地誌は、消費の対象としての性格をも有することとなった。

このように、絵入り雑誌は、都市化の進行と、そこに浸透する消費文化とを反映する記事内容を提供した。その受容者には、先端的な都会生活に憧れる、地方都市の読者たちが多く含まれた。こうして、帝政社会において、旧来の社会秩序から離れた情報の伝達される範囲が拡大していった。

そうした記事内容の性格を反映して、絵入り雑誌「王室記事」は、ツァーリ像をも、消費の対象たるブロマイドとして世俗化し、商品化した。19世紀後半、絵入り雑誌の圏域においては、従来のツァーリ信仰とは異質な認識を促す情報が流通していたのだった。これに対して、宮内省は、『戴冠式集成』をはじめとする公式出版物を、商業出版と関係を持つ人材をも起用して制作し、宮廷儀礼で示されたツァーリ表象を印刷刊行した。だが、商業出版各社は、戴冠式のツァーリに関する挿画をも、採算性を重視し、独自に装飾して複製印刷した。

ロシアの専制体制においては、皇帝が、無制限絶対の最高権力を体現する存在だった。それゆえ、皇帝が臣民に対して自身のイメージをいかに説得的に示すかは、専制が正統性を確保するにあたって、本質的に重要であった。しかし、上述の事例からは、19世紀末、ニコライ二世のイメージ戦略が、君主の意図する通りに民間メディアに反映されたわけではなかったことを確認できる。もちろん、皇族像を好んで掲載した絵入り雑誌は、決して専制に反抗する勢力ではなく、ツァーリの権威を軽視したわけでもなかった。だが他方で、絵入り雑誌はこうしたツァーリ表象をも、消費文化にもとづく複製技術によって編集した。このことからは、絵入り雑誌の圏域において、都市中間層の嗜好により、専制の権威が変質された側面があったと指摘できるだろう。

 

以上の分析を受けて、本論文は、次のような近代ロシア史理解の枠組みを提示する。すなわち、ロシア史において、1860年代の「大改革」期には、専制とインテリゲンツィヤとの緊張関係のもと、近代化のための諸策が実施された。そして、1870年代以降は、専門職者層を中心とする知識人たちが、国家と協働しながら、社会の漸進的改革を目指した。だが、19世紀後半ロシア社会に存在したのは、そうした能動的な主体だけではなかった。そこには、消費文化の浸透によって、国家が直接に管理することのできない、流行や嗜好にもとづく都市中間層の行動もまた生じた。そして、彼らは自覚的ではなくとも、その嗜好によって、専制とインテリゲンツィヤという既存の権威の位置づけを変容させた。このようにして、20世紀を迎えたとき、都市の大衆が、その受動的な嗜好によって、ロシア史に社会的、政治的転換をもたらす要素の一つとなっていたのである。