平安朝の物語は、しばしば平安京内裏の奥深くにある後宮を扱い、そこに住む皇妃たちに焦点を当てている。物語の主人公の姉妹や娘が立后する、もしくは次代の天皇の母(国母)となるといったようなことは、主人公を権力中枢の場に据えるための常套手段であった。また、一方で、皇妃と臣下の禁じられた恋愛は、悲恋として平安朝物語で繰り返し用いられるモチーフでもあった。このように、後宮は、物語を書く上で欠かせない一要素になっていたのであるが、しかし、その後宮について、現代に生きる読者がどれほどの正確な知識を持っているかといえば、例えば皇妃の身分や呼称、皇妃の居住空間の用いられ方など、まだまだ分からないことばかりである。我々は、物語の記述に引きずられて、それを鵜呑みにしがちであるが、そこには物語特有の設定がありうることを忘れてはならない。物語を正しく読み解くためには、何が現実を踏まえているか、何が作者によって生み出された虚構なのかを、史実を精査し物語の設定と比較検討することによって、まず見分けていく必要があるだろう。

そこで、本博士論文を通じて、私は、史実との照らし合わせで物語の後宮にまつわる記述がどの程度の真実味を持つかを明らかにしたうえで、その成果を物語のさらなる理解に役立てることを目指した。後宮といっても、成員としての後宮、建物としての後宮などさまざまな面があるが、ここでは、主として、皇妃の居所たる後宮殿舎及びその用いられ方を問題として扱った。殿舎の研究については、「弘徽殿と藤壺―源氏物語の後宮―」(増田繁夫、『国語と国文学』、1984年11月)などのわずかな論があるのみで、先行研究が少なく、史実の更なる調査が不可欠である。十二ある後宮殿舎の各々にどのような格付けが成されていたかを知ることは、物語中でそれらに住む皇妃たちの序列を判断する材料となるだろうし、また、ある殿舎がいつ誰にどのような目的で用いられたかを把握することは、物語の後宮殿舎設定の準拠を探し出すことを可能にする。最近は、新たな電子データベースが次々と構築されたことで、史実の調査が容易になり、今まで以上に多くの情報を収集できるようになった。これらによる調査結果に加えて、歴史学の文献も参考にし、平安時代の後宮の実態の謎を解く糸口として、最終的にそれを物語の読みに還元する。

本論文では、現存する最古の長編物語で、初めて後宮に関する詳細な記述を有した『宇津保物語』と、その影響を多大に受けつつも、さらに発展させ、巧みに後宮を描き出した『源氏物語』の二作品を考察し、その後宮空間を物語世界と関わらせる方法に迫る。全体は三編から成り、第一編は「『宇津保物語』の後宮空間」と題し、これまであまり取り上げられることのなかった『宇津保物語』の後宮殿舎設定が、どれも皇妃の居所として決して無作為に選び出されているわけではなく、史実におけるその殿舎のイメージを投影しようとする意図によって、設定されていることを論じる。第一章「朱雀帝后宮考―常寧殿を用いる母后―」では、朱雀帝后宮(新帝母)が常寧殿を使用したことが、漢籍の素養を持っていたこと、政治に関与していることと併せて、常寧殿を用いた史上の母后たちを意識して為された設定であることを指摘した。第二章「仁寿殿女御考―その居所をめぐって―」は、史実では帝以外が使用しなかった仁寿殿が、朱雀帝の寵妃、仁寿殿女御に用いられていることを問題とし、また、『宇津保物語』が仁寿殿で多く行事を催していることを指摘、帝が寵妃を喜ばせるためにその居所で華やかな行事を行ったように読者に読ませるのだという見方を提示した。そのことは、皇妃が住むことのできない仁寿殿を居所として許されたということと相まって、仁寿殿女御への破格の待遇を意味するものだったことを示した。第三章「東宮の後宮―梨壺の問題を中心に―」では、梨壺を東宮妃である主人公仲忠の妹が用いていることについて考える。史実では、東宮御所から離れた梨壺が、東宮妃の居所となることは皆無であった。にも関わらず、『宇津保物語』がこのような設定を施したのは、冷泉朝の立坊争いで敗れた為平親王が梨壺に住んだことが作者の念頭にあったからであった。仲忠妹腹の皇子も、物語中で立坊が叶わなかった。敗者としてのイメージを重ね合わせるために、梨壺を東宮妃の居所とするという虚構を物語が生んだのであった。

第二編「『宇津保物語』から『源氏物語』への展開」では、従来『源氏物語』作者独自の工夫と見なされてきたいくつかの後宮殿舎設定の源泉が、実は『宇津保物語』にあること、しかし『源氏物語』の設定は『宇津保物語』に倣いつつもそこから格段に進化させていることなどを明らかにする。第一章「殿舎名で呼ばれる更衣たち―梅壺更衣から桐壺更衣へ―」は、本来殿舎名で呼ばれるはずのない(殿舎を居所としてまるごと一つ与えられるはずのない)更衣が『源氏物語』のみならず『宇津保物語』にも登場していたことを問題とした。史実の例から、制度上の更衣と別に女御以下の皇妃(東宮妃・上皇妃等)に非公式に用いられる通称としての「更衣」があったことを突き止め、「更衣」と呼ばれた有力な東宮妃達が殿舎を占有した事実を背景に、『宇津保物語』『源氏物語』が制度上の更衣と通称の「更衣」を混同し、殿舎を占有した更衣たちを描き出したと結論付ける。第二章「藤壺の系譜―『宇津保物語』あて宮を始発として―」は、『宇津保物語』のあて宮の居所、藤壺について扱う。あて宮が、東宮に寵愛されつつも、臣下の主人公仲忠との恋愛が語られる点、後に息子の皇子の地位を磐石にせんと駆け引きを繰り広げ、将来の母后へと変貌を始める点などは、『源氏物語』の藤壺中宮にも似通う。帝寵も権力も手中にした皇妃が、一方で男主人公と相思相愛である、という設定は、あて宮を発端とし、藤壺という場を媒介に、『源氏物語』の藤壺中宮に受け継がれていくことについて述べた。

第三章「宇津保・源氏の承香殿―悲願を果たしえぬ皇妃たち―」では、『宇津保物語』『源氏物語』に頻繁に登場するけれども、その一方で印象に残らない殿舎、承香殿を扱う。両物語では、この殿舎が敗北者の皇妃の住まいとして常に描かれるのであり、そのことには当時の実態――平安朝の承香殿の皇妃たちが身分の高さの割に皇后にも母后にもなれなかったことが反映されていることを説く。

最後の第三編「『源氏物語』の後宮空間」では、他作品には見られない『源氏物語』の後宮殿舎の記述やその用いられ方に着目し、それらがいかに物語の文脈にそって自然に設定されているか、のみならずその場面の読みを深める鍵となっていることについて分析した。『源氏物語』という作品は、調べつくされ、これ以上検討の余地がないと思われがちであるが、後宮殿舎設定一つをとっても、見過ごされていることが多々あることを示す。第一章「斎宮女御の梅壺入り―後見との関わりをめぐって―」では、梅壺という殿舎について、史実では政治的に劣った立場の皇妃たちの居所となっていたことを指摘し、権力者光源氏を後見に持つ斎宮女御が格下の梅壺に入ったのは、彼女の入内当時、源氏が兄朱雀院への配慮から表立って彼女を支援していなかったからである、という新たな解釈を提示する。第二章「玉鬘の踏歌見物―宮中参内の意義をめぐって―」では、真木柱巻の玉鬘が、出仕にあたって王女御と承香殿を共用したことを問題とし、併せて物語における玉鬘の宮中参内の意義を探ることを目的とした。第二編第三章を補足し、承香殿について、西側が皇妃の居所となる一方で、東側は常に空けられ、臨時にさまざまな用途で用いられていたという仮説を立て、共用という特殊な形態が為されたことの意味を解明する。この章では、冷泉帝と玉鬘の恋が『宇津保物語』から色濃く影響を受けていることを述べているが、後宮空間の使用という視点からは、第二編よりも第三編におくのがよりふさわしいと判断し、こちらに入れた。第三章「女三宮の輿入れ―入内・参院儀礼と比較して―」では、近年主張される、女三宮の六条院入りは「降嫁」ではなく入内に準じたものとする説を再考した。天皇・上皇の結婚と源氏と女三宮のそれでは、嫁取りの形のみ類似し、それ以外は重ならない。さらに源氏が「ただ人」ではないとされるのは、女三宮の婿選びに関わる場面に限定され、朱雀院と周囲の人物たちの言葉の中だけでそのように語られる。それは、婿が決定するまでの過程において、「准太上天皇」源氏を「ただ人」ではないと朱雀院に思い込ませ、彼を女三宮の婿として選び出させるための物語の巧妙な操作であったことを、明らかにした。本章では、天皇の婚姻儀礼を検討する中で、後宮空間がどのように用いられるかを詳細に見て行き、女三宮の婚姻と比較している。第四章「宿木巻の藤壺女御―繰り返される藤壺―」は、第二編第二章の続編ともいうべきもので、同じく藤壺を扱っている。史実では、夫東宮が即位して清涼殿に入った際、妻の皇妃も夫の新たな居所に近接する殿舎に移ることが、慣例となっていた。『源氏物語』宿木巻で、女二宮の母女御が、東宮妃時代の麗景殿から藤壺へと居所変更する設定は、その現実を正しく踏まえていたのだが、一方で、居所も境遇も類似する朱雀朝の藤壺女御(女三宮母)を想起させる。朱雀朝藤壺女御・女三宮を、今上帝藤壺女御・女二宮と関係づけ、若菜巻の女三宮降嫁という出来事を先例とすることで、物語が女二宮を薫と結婚させることをたやすく達成していく、その仕組みについて論じた。