『呪われた部分』の副題「一般エコノミーの試み」が示している通り、「エコノミーéconomie」は、バタイユの思想の中心的な概念のひとつである。エコノミーの問題は、バタイユにとって――その思想の初期から晩年にいたるまで――、一貫して重要なテーマであったと言ってよい。しかし、これまでのバタイユ研究の中で、所有や交換・贈与といったエコノミーを構成する諸契機については、しばしば論じられてきたにもかかわらず、エコノミーという概念そのものについては、十分に検討されてきたとは言いがたい。この概念は、単に「経済」や「経済学」「何か経済的なもの」としてのみ理解されているか、あるいは、この概念の規定が空白のままに残されている。いずれにせよ、そもそもエコノミーとは一体いかなるものか、という問題が考えられてこなかったのである。このような問題意識の下で、本論文の目的は、西洋思想史におけるエコノミー概念の重層性を確認したうえで、この思想史的系譜にバタイユを位置付けること、また、バタイユのエコノミー概念の内実を確定すること、そして、その思想をエコノミーという観点から一貫して理解する可能性を示すことである。

 第1章「エコノミーの系譜」では、西洋思想史におけるエコノミー概念の重層的な意味とその変転を辿ることによって、バタイユのエコノミー論を考察するための準備作業を行なう。それは一方で、「エコノミー」という語が「経済」という意味を担うようになったのが、あくまで近代以降であることを確認するためである。しかし他方で、このエコノミー概念が、西洋思想の中で重要な役割を果たしてきたことを示し、その系譜の中にバタイユの思想を位置付けるためでもある。この作業を通してはじめて、バタイユが対峙している思想的伝統とそれを規制する思考の枠組みが明らかとなり、その射程を測ることができるのである。

 エコノミーの概念史については、古代ギリシャにおける「家政」(オイコノミア)に始まり、ストア派における神の宇宙の「統治」、キリスト教神学における神の三位一体の「経綸」および救済計画の歴史的な「運営」、また中世における神の世界統治論(「配置dispositio・統宰gubernatio・配剤dispensatio」)や、修辞学における語や題材の「配列」を経て、近代における有機組織体の「秩序」、そして現代的な意味である政治「経済」へと至る、という道筋を辿ることができる。このような本章の考察から、エコノミー概念を規定するひとつの範型として、「主人=主体が何らかの法・秩序によって自らの所有物を支配し、配置し、管理運営すること」が抽出されることになる。

 第2章「エコノミー論の生成」では、戦前から戦中にかけてのバタイユの思想的発展が、そのエコノミー論の生成過程として捉え直される。従来のバタイユ研究では、エコノミーが狭く「経済」として理解されてきたため、初期から中期にかけてのバタイユにとって――「浪費の概念」が「経済」論としてしばしば注目されるとはいえ――、エコノミーの問題はあくまで周辺的なものとして扱われてきた。しかし、第1章での検討を踏まえて、改めてエコノミーという観点から考察するならば、そこには戦後の思想へとつながる一連の流れが浮かび上がることになる。

 すなわち、「松毬の眼」草稿群における主体の二重の態勢、および、地上の生物と太陽の生態学的関係と、「浪費の概念」における有用性と栄光の対立、および、生産的消費と非生産的消費といったいわゆる「経済・経済学」的問題(さらにいえば、「異質学」における尺度の問題等)――これらが、『有用なものの限界』においてエコノミーの問題として統合されることによって、バタイユのエコノミー論が形成されていった、ということである。このエコノミー論の生成過程はまた同時に、バタイユの有用性に関する思索の発展をも明らかにするだろう。「松毬の眼」草稿群において、否定的に論じられていた有用性・合理性は、「浪費の概念」では、人間の生の本来の目的である栄光に従属するべきものとして規定されることになる。しかし、「浪費の概念」の草稿・異稿を検討すると、この議論には、有用性が必然的に自己目的化してしまうという困難が内蔵されており、そのことにバタイユ自身気づいていたことが認められる。そして、『有用なものの限界』に至って、この困難は栄光と有用性との関係を手段‐目的連関として把握することから生じていること、また、バタイユがこの困難を「一致の法則」によって乗り越えようとしたことが明らかとなる。

 第3章「主体とエコノミー」では、『無神学大全』以降の著作を取り上げ、レヴィナス、サルトル、コジェーヴ、ハイデガーといった同時代の哲学者たちとバタイユの対決を検討することを通じて、その特有のエコノミー概念の意味を確定する。そこで特に問題となるのは、知と所有の主体であり、概念・言説としての否定性であり、生産と相即する歴史的時間である。これらは、バタイユが「非‐知の夜」や「内的体験」と呼ぶ極限の体験において、解体することになる。すなわち、知と所有の操作が完了するまさにその瞬間に、対象を領有する主体=主人は解体され、非‐知と贈与の主体=至高者へと反転する。また、自己分裂の原理である否定性は、それ自身二重の作用としてあり、概念・言説としての生産的な否定性は、知の極限において、非生産的な「使い途のない否定性」へと回帰することになる。そして、生産の時間である歴史的時間、すなわち、過去・現在・未来が相互に従属しあう時間性は、この極点で、その従属的な関係を解かれて、純粋持続・瞬間・好運という至高の時間性へと変容するのである。

 こうして、「主体が知によって世界の総体を「可能なもの」として領有し、管理運営すること」――これがバタイユのエコノミーであることが明らかとなる。これに対して、内的体験において、エコノミーの外部で出会われる「不可能なもの」が贈与である。したがって、至高の瞬間、浪費、贈与を考察する、バタイユの「一般エコノミー」とは、エコノミーの外部をも考慮に入れ、エコノミーの成立根拠を問い質す、いわば超越論的なエコノミーの学であると言える。

 第4章「エコノミーと贈与」では、『呪われた部分』での議論を基にして、モース、マルクス、レヴィ=ストロース、デリダらの議論を参照しつつ、第3章で得られた一般エコノミーの見地から、贈与・交換・供犠についての問題を発展的に考察する。一般的な理解としてもバタイユ研究としても、これまで贈与・交換・供犠はしばしば混同されてきた概念である。また逆に、贈与と交換が対立物として理解されることもある。しかし、これらの交錯した関係を選り分けるならば、贈与と交換・供犠との差異、および、交換と供犠の共通点が示される。共通点とはつまり、交換が反照規定によって商品の価値を表現するのと同様に、供犠は執行者と犠牲との反照規定によって聖性を表現するということ、また、交換も供犠も、贈与をその内に包摂することによってはじめて成立するということである。

 この交換と供犠をめぐる議論は同時に、区別と不等性の差異を論じることにもなる。すなわち、悟性的な区別が対象を規定するがゆえに同一性の原理と対応しているのに対して、不等性は区別によらない差異であるがゆえに両義性として現れる。聖なるものは、区別された世俗的な諸対象に対して、異質なもの、度外れなものだからこそ、「神聖なもの」と「呪われたもの」という両義性として現象するのである。そして最後に、交換・供犠による贈与の包摂機能の分析に従って、「不可能なもの」としての贈与から「可能なもの」の総体としてのエコノミーが生成する仕組みが明らかにされる。至高者とは贈与する主体であり、その贈与の内容とは自らの主観性、すなわち「贈与すること」である。したがって、至高者は贈与することを他者へと贈与する。贈与された者はまた別の他者へと贈与する。このような至高者から至高者へのコミュニケーションが共同体へと繰り込まれることで、主人としての主体のエコノミーが成立する。このように、贈与はエコノミーの成立根拠であると同時に、エコノミーの内につねに開かれた「傷口」なのである。