本論文では作家・批評家アンドレイ・シニャフスキーの創作における記憶と表象の問題を扱う。これまで多く書かれてきた歴史的・伝記的側面における作家研究では、記憶と表象の問題はほとんど扱われてこなかった。シニャフスキーは亡命後1980年代にイタリアのインタビューで自らの創作を、地下文学時代、収容所時代、亡命時代の三つに区分している。本論文でも、以上の図式に基づきながら議論を進める。

第一章では、地下文学時代を扱う。60年代に隆盛した「サミズダート」と「タミズダート」の歴史的概観を示しながら、ここではソヴィエト社会における文学中心主義の役割に光が当てられる。タミズダートで出版された『社会主義リアリズムとは何か』は問題提起というよりも、社会主義リアリズムそのものの無効化を宣言した修辞的疑問であった。社会主義リアリズムはロシアの古典的作品の再生産でしかないと指摘しながら、シニャフスキーはその終焉を宣言し、自ら提唱する夢幻的芸術によってそれを超克できると主張した。また、シニャフスキーの学校時代からの友人レミゾフの尋問調書によれば、夢幻的芸術による社会主義リアリズムの超克を唱えた最後の部分は、第一版の国外送付後に書き足され、その部分はレミゾフによりフランスへ移送された。ザランバニによれば、文学中心主義は検閲によって強化され、文学は制限を受けることによって、むしろ権威を増した。そして文学中心主義を背景として、アブラム・テルツの著者の問題は、作家と国家の関係を露呈させた。また、ここではシニャフスキーの短編『プヘンツ』は、ソヴィエト社会に偶然落ちてきて、全世界からの「疎外感」を表象する異星人の孤独という観点から分析される。その名前から作者本人や画家マレーヴィチを連想させながら、主人公アンドレイ・カジミーロヴィチ・スシンスキーは確立した世界の見方を「異化」する。歴史家カルロ・ギンズブルクによれば、シクロフスキーにより文学研究に導入された「異化」は啓蒙主義時代に由来し、権力への抵抗手段として捉えられた。異化の主体はその権力そのものがまるで存在しなかったように見ながら、それを拒絶する。スウィフトの『ガリバー旅行記』を挙げるまでもなく、『プヘンツ』の主題的な類似性は啓蒙主義時代のフランスの作家ヴォルテールの『ミクロメガス』や安部公房の『人間そっくり』などに見出すことができる。1970年10月5日の手紙では、シニャフスキーは収容所内で安部公房の『人間そっくり』のロシア語訳を読みながら『プヘンツ』との類似性に驚いている。また、シニャフスキーは安部公房をカフカの模倣者として捉え、1969年2月27日の収容所からの手紙によれば、彼はまたカフカ『変身』をオウィディウス『変身物語』のアクタイオンの系譜で考えていた。疎外された異星人を鏡にした自分自身に対する視線、自己分析がこれらの作品を結びつけている。現代ロシア文学の作家ウラジーミル・ソローキンは19世紀ロシア文学における登場人物は「歩く思想」であり、20世紀になって初めてロシア文学は「身体」を発見したと語っている。またそこでソローキンはシニャフスキーが自己皮肉の「身体」をロシア文学に対して与えたと語っていた。シニャフスキーは異星人をロシア文学に対して与えながら、そこで自己皮肉の「身体」を表象していた。また、シニャフスキーの芸術および民俗学に関する研究に関して議論する。彼の最初の著書でもある、ロシアで1933年以降初めてのピカソ研究書や、ロシアの北への旅行に関する回想を扱う。ゴロムシトクの回想によれば、シニャフスキーとマリヤ・ローザノワはロシアの北へ1950年代後半から旅行をし始める。それはスターリン死後に初めて北方旅行が解禁された時期であった。1920年代にドミトリー・リハチョフが収容所で過ごしたソロヴェツキー島では、その修道院と収容所はロシアの北の二重性を表象していた。それは修道院の聖性と収容所の陰気さである。その二重性はロシアの北全般の印象として深く刻み込まれる。『北の一年』などの民俗学者セルゲイ・マクシーモフ作品は19世紀の多くの作家たちに影響を与え、レフ・トルストイやネクラーソフは彼の影響下に執筆し、シニャフスキーの『イワンのばか』執筆の際にも霊感を与えた。また、ロシアの北は正教会から追い出されたアヴァクームを中心とする古儀式派の地域であり、シニャフスキーはアヴァクームをロシアにおける収容所言説の中で捉えなおしている。

第二章では1966年から1973年までのシニャフスキーの収容所時代のトラウマが扱われる。1971年6月8日にシニャフスキーは釈放される。アン・アプルボームによれば、「異論派」の大部分は「人民の敵」の息子や娘たちであった。そしてその「人民の敵」という呼称自体はジャコバン派に由来する。『おやすみなさい』第三章では、元社会革命党員の経歴のためにスターリン時代に苦労した父ドナート・エヴゲーニエヴィチ・シニャフスキーのことが語られる。アレクサンドル・エトキントによれば、シニャフスキーの「収容所批評」はソヴィエトや亡命地における批評と異なり、非効率的なソヴィエト・インテリゲンツィアや検閲による制限からの自由や、収容所生活との一体化により作られていた。シニャフスキーが収容所内で『プーシキンとの散歩』を書いていたように、ソルジェニーツィンもグリボエードフ論である『我に返って』を執筆していた。また、ブロークの同名の詩から名前をとった『合唱からの声』は文学的随想を含むアフォリズムから構成され、同時代的な収容所生活の証言を期待していた亡命ロシアの読者の期待を裏切ることから出発する。そこでは1966年3月から1971年6月2日までを含む収容所からの手紙に含まれなかった6月8日と9日の記述が含まれ、そこで釈放後のシニャフスキーはあたかも自分を亡霊として捉え、生と死の中間に存在する者として理解するようになった。「収容所」批評は、ソヴィエト批評とも、亡命批評とも異なっていた。『プーシキンとの散歩』はプーシキンについての言説を扱った最初の本であるとみなすことができる。プーシキンの偉大さとは何か、という平凡な質問から出発しながら、この質問の周囲にある言説に目を向けた。またアガンベンがナチスドイツの収容所を念頭に置きながら使った概念である「ホモ・サケル」、つまり合法的に法の外に存在する共同体から締め出された剥き出しの生、をロシアの収容所言説に結びつけた時、エトキントの語るように、シャラーモフや収容所の画家ボリス・スヴェシニコフはロシアの「ホモ・サケル」として現れる。同じくスヴェシニコフを扱ったシニャフスキーの『白い叙事詩』では彼の収容所絵画の人物でなく背景の「白い野原」に注目し、そこに書かなかった空白を収容所体験と結びつけていた。

第三章では1973年から1997年までの亡命時代を扱う。ここでは回想録や、ロシアの異端思想家ニコライ・フョードロフの復活思想と結びついた20世紀初頭の「アーカイヴ」について分析する。バーリナによれば、変化してゆく外部世界との対話を行う為に、1980年代の伝記作家たちは日記や書簡、メモなどの多様なテキストを用いた。回想録におけるこのような変化は歴史記述の変化に対応しており、現代の伝記作家たちは個人の歴史的体験の感覚に応じて歴史の断片を選択している。デリダによれば、「アーカイヴ」は語源的に記憶の「置場」というだけではなく記憶の「管理人」や「解釈者」としての意味を兼ね備えていた。ペレストロイカ期には作家は多様な「帰還」をし、多様な帰還のナラティヴが存在した。ソルジェニーツィンは「電車で」帰還し、ブロツキーは「本で」帰還した。一方、亡命作家の作品は映画化され、「映画で」帰国する例も見られた。ソルジェニーツィン『煉獄の中で』、アクショーノフ『モスクワ・サーガ』などの他、映画化されたブロツキーの自伝的エッセイ『一部屋半』では、死ぬまで帰国せず、死んでもヴェネツィアに葬られたブロツキーが、現代のペテルブルクに帰国している。また、1990年代にはシニャフスキーのもとにも『リュビーモフ』や『審問』の映画化の話が来ていた。『ちびのツォレス』は『おやすみなさい』の一部として書かれ、主人公と作者は姓や住所、大学名を共有しているが、むしろ全体は虚構によって作られていた。吃音の主人公ツォレスは妖精ドーラとの契約により雄弁な「語り」を手に入れるが、その言葉により5人の兄弟を次々に失う。ボリス・シュラーギンによれば、実在しない5人の兄弟は「ソヴィエト社会」を、そして主人公ツォレスは「作家」を表象していた。シニャフスキー本人の自伝的小説である『おやすみなさい』では、モスクワの路上逮捕から遡行的に進むこの小説を「人間シニャフスキーから作家テルツになるまでの話」とインタビューでは度々語っている。地下文学時代と収容所時代を扱いながら、語り手のいる亡命時代は間接的に語られる。「夢を見る」と語り手が語るその瞬間、まさにソヴィエトの夢からフランスの現実に引き戻され、表題である『おやすみなさい』がソヴィエトとフランスの間の夢と現を移行する合図になる。文中で語られる実在しないポースニコフ少佐のテープレコーダーのように、その後も意識の中に盗聴の恐怖が亡命後も潜在的に残り続け、シニャフスキーの過剰な自己省察と監視の恐怖が、常に言動と作品に矛盾を必然的に含む「作家アブラム・テルツ」の誕生につながる過程が描かれていた。