本来太陽神は、毎日朝東から昇って夕方西に沈み、大地に恵をもたらす自然神であって、自然の中で生きてゆく人間にとって、その生活に大きな影響を与える神として信じられてきた。古代日本の人々が農耕を営むようになってから、五穀の成長と豊穣をもたらす太陽は崇拝の対象となり、やがて「国」という概念が発生し人々を束ねる首長たるものが登場するにつれて、太陽神もそのものを信仰するほかに、首長の祖神というイメージを重ねるようになった。そして各氏族を退けた大和の天皇家によって日本は統一され、天皇家の祖神アマテラスは唯一の太陽神として独占されて崇められ、祀られるようになる。それ故に、日本の太陽神といえばアマテラスと、アマテラスを祀る伊勢神宮を思い浮かべるようになった。ところが、もともと太陽神信仰は大和の天皇家のみの産物ではなく、普遍的なものであった。そのため、日本各地に散在していた太陽神と太陽信仰は、天皇家によって皇祖神アマテラスに一元化され、まつられるようになったにもかかわらず、記紀をはじめ多くの民間伝承にはアマテラスとは異なる太陽神の存在を窺わせる記述が存在するのである。そして太陽神の原像は、自然の太陽神から様々な動物に象徴される太陽神へ、そして太陽神の象徴物からしだいに擬人化し、人のような姿の太陽神となるのである。日本神話に伝わるアマテラスは、こうした擬人化した太陽神であるため、先に擬人化以前の太陽神を語る必要がある。

 一章「古代日本の動物太陽神」の一節「ヤタガラス小考」で論ずるヤタガラスは、神武天皇の東征神話のなかで、先導役として登場する鳥である。烏は様々な民間伝承や熊野大社の例から、古くから日本人の生活に深くかかわりを持つ鳥として認識されていて、太陽の中の三足の烏が住むという大陸からの伝承の影響もあって、神話の中に神の使いとして大きな役割を担う霊鳥として登場するようになったと考えられる。

 ヤタガラスを祖先神として奉ずる鴨氏は、大和国と山城国にわたり大きな勢力をもった豪族であったゆえに、鴨氏の祖先であったヤタガラスをあげて皇祖神アマテラスと結びついたと考えられる。しかし中国の「太陽の中に住む三本足烏」という思想が伝来してから、ヤタガラスも単なる烏ではなく、太陽との関連を考慮するようになり、鴨氏から離れ、大和王権側の存在として重視されるようになる。これは天皇家による太陽神信仰の独占ともいえる。

 二節「古代日本の太陽神の痕跡―動物太陽神としての猿」で述べるサルタビコは、サルの太陽神である。サルタビコは天孫降臨神話の中に登場し、太陽神アマテラスの子孫であるホノニニギを降臨地まで案内する。これは、伊勢地方で祀られていたサルの太陽神サルタビコが、新しく浮上する太陽神アマテラスの子孫ホノニニギに、太陽神の地位を明け渡して、巫女であるアメノウズメの案内で伊勢地方に身を隠したことを意味する。

 こうしたサルタビコの伝承は、ヤタガラス、猿神のような動物の太陽神から擬人化した太陽神へ移行する太陽神の交代を示す神話であると考えられる。

三節「蛇神小考」では、記紀に登場する代表的な蛇神であるオホモノヌシを中心に、その神の伝承と天皇家との関係、そして奉祭氏族の大神氏について論ずる。三輪山に鎮座する蛇神オホモノヌシの本来の姿は、光り輝いて、海を光らしつつ来臨し、聖なる山の上に祀られた太陽神であったと思われる。そして三輪山には古くから祭祀が行われており、それが太陽崇拝であって、その祭祀が当時の天皇家と深くかかわっていたと考えられる。

 この神を奉祭する大神氏は、王朝交代期に新しく登場した氏族であり、渡来人系、若しくはそれにゆかりの深い陶器製作の工人出身であった。そして、この氏族は三輪山のオホモノヌシの神裔と称し、その祭祀権をもって天皇家と結びつき、大和朝廷で長い間活躍したが、天武・持統朝の伊勢中心の政策により、政治の表舞台から姿を隠したと思われる。

 二章「アマテラス成立以前の日本の太陽神」の一節「天照日女之命―日並皇子挽歌」では、アマテラス成立以前の女性太陽神「ヒルメ」について述べる。「日女の命(ヒルメ)」は『日本書紀』の記事からみると、その神格は太陽神であり、アマテラス成立前の太陽神の神名である。そして、「ヒルメ」の神名と対をなす「ヒルコ」もやはり太陽神であって、記紀にその痕跡を伺える。

 人麻呂の『万葉集』巻二・一六七からは、「ヒルメ」から「天照らす(さし上がる)ヒルメ」に発展し、「アマテラスオホミカミ」に到るまでの太陽神の変遷の過程がうかがえる。従来の太陽神の霊格は高くなく、自然神の一柱にすぎなかった。王権にふさわしく、神々の上に君臨する至高の姿が必要だったではなかろうか。そのため、アマテラスには様々なイメージ「太陽神・皇祖神・織姫・至高神・穀霊・男神」が重ね合わされたと思われる。

 二節「古代日本の太陽神―アマテル神」はアマテル神について論ずる。アマテルはその名称の如く、天地を照らすという太陽神らしい神の名に冠する名称であり、自然の太陽をそのまま神格化した神と考えられる。平安時代の物語や諸文献において、アマテル神に関する記事を見出すことができる。菅原孝標の女が書いた『更級日記』の中の「わが念じ申す天照御神」という表現は、アマテラスだけをさすのではなく、紀伊国造家の紀直氏によって祀られる紀伊国の日前国懸神とすくう神と呼ばれた神までを含む、アマテラスとは異なる太陽神格のアマテル神をもさす言葉であると思われる。伊勢の太陽神アマテラスも、こうした「アマテル」の神の一つであったが、天皇家によって皇祖神として仕立てられるようになったとみるべきであろう。

三節「太陽神の渡来伝承」では、朝鮮半島とかかわりを持つアメノヒボコ・神功皇后と応神天皇の伝承をとりあげ、海の彼方から来臨する太陽神の渡来伝承について述べる。

アメノヒボコは、太陽神を祀る渡来人一族のもたらした太陽を象徴する呪物、祭具の擬人化した太陽神、またはその祀りを司る司祭の反映であろう。

 神功皇后と応神天皇の伝承は、典型的な他界訪問神話と母子神の来臨という構造を持っている。巫女の母とともに来臨した太陽神の御子は、死と再生の儀礼を経て禊と名変えを通じて、太陽神の性格をもつ祖神アメノヒボコの霊を継承し、天皇として即位するのである。

四節「太陽神の呪器小考」では、『出雲国風土記』に登場する太陽神サダノオホカミの伝承に伝える「弓矢」を太陽神の呪器と見なし、考察する。

サダノオホカミの伝承は、天皇家の皇祖神アマテラスとは異なる出雲の太陽神の誕生を物語っている。これは日出時の太陽は黄金の弓矢に象徴され、その太陽光線(弓矢)が射しこむ加賀の神埼の洞窟に女神が住んでおり、洞窟を女陰または母胎として太陽神が生まれたと信じた古代出雲に伝わる太陽神誕生の伝承であろう。

加賀の潜戸の洞窟は、日出時の太陽光線が洞窟の内部を照らす自然洞窟であり、キサカヒヒメの名にみえるカヒのように、女性の陰部を象徴している。その洞窟に黄金の弓矢を射ることによって光輝いて出雲の太陽神サダノオホカミが誕生した。太陽を射る話や高句麗の始祖朱蒙王の伝承にあらわれているように、弓矢は太陽神の象徴するものである。

 三章「伊勢太陽神の変遷―地方太陽神から皇祖神アマテラスへ」の一節「古代伊勢の太陽神小考」では、元々伊勢の原始的な太陽神であったと思われるサルタビコ、イセツヒコ、そしてイセノオホカミについて論じる。サルタビコは、天孫降臨の際にホノニニギを降臨地まで案内してから、伊勢に身を隠す。これは猿の太陽神サルタビコが、新しく浮上する太陽神アマテラスの子孫ホノニニギに、太陽神の地位を明け渡して、伊勢に退去したことを意味する。また風土記に伝わるイセツヒコの退去の光景は、この神の神格が太陽神であったことを示している。そしてこの神が、神武天皇東征の際に退かれ伊勢を去ったという記述は、伊勢の太陽神変遷過程を示しているといえよう。さらにイセノオホカミもまた、雄略天皇朝から用明天皇朝まで、伊勢の日神として天皇家の皇女によって祀られてきたが、天武天皇の頃にアマテラスへと変わっていったのであろう。

二節「伊勢神宮成立小考」では、伊勢神宮の成立とその歴史的背景について述べる。大和からみて東にある伊勢は日の昇る太陽信仰の聖地であった。度会氏は、ある時期この地域に勢力を伸ばした大和朝廷に服従し、伊勢神宮の成立にともない彼らのもつ太陽信仰は新しく登場する天皇家の皇祖神アマテラスによって一元化されるようになったと思われる。

このように成立した伊勢神宮は、壬申の乱を画期に天武・持統天皇朝において歴史上に全面的に浮上するようになる。そしてそこに鎮座する太陽神アマテラスは天皇の即位式(大嘗祭)や新嘗祭といった国家の祭祀儀礼と宗教思想の核をなす存在になってゆくのである。

 三節「アマテラス誕生」では、これまでの成果をまとめ、それを踏まえて太陽神アマテラスの誕生を論じる。皇祖神アマテラスに一元化される以前に存在した、様々な太陽神の存在が確認できる。そして、アマテラス成立とともに確立されたのが天皇の権威に神聖性と絶対性を付与する国家儀礼が大嘗祭である。天皇は大嘗祭を行うことによって、日の御子として、また太陽神と稲魂の後継者として即位するのである。その際、天皇によってアマテラスと天神地祇に供える初穗の稲は、神そのものを意味し、それを食することによって先帝の御魂を受け継ぎ、太陽神の新しい後継者になるのである。壬申の乱に勝利し、新しく天皇に即位した天武天皇は、本格的な律令国家体制の導入と国家儀礼の確立によって天皇への権力集中をはかった。そしてそのために、太陽神アマテラスと伊勢神宮を全面的に浮上させ、天石屋戸神話と天孫降臨神話につながる大嘗祭の儀礼の確立し、天皇の権威に神聖性と絶対性を付与したのである。