歴史学が史料分析によって過去の事象を再構成し、人間社会の通時的把握を行うことを目的とする学問である以上、史料から如何にして如何なる情報を引き出すのかという史料論・史料批判は、それ自体が歴史家の過去へのバイアスと不可分の関係にあり、歴史学の中心的なテーマとなっている。日本史学ことに日本中世史学においては古文書学が史料批判の方法として重要な役割を果たしてきたが、こうした古文書学のあり方を再検討することによって、日本中世史学のもつ史料批判、ひいては歴史像を再検討することが可能となる。本論文は、歴史学と古文書学との関係のあり方を問い直すことで、具体的には日本中世初期の文書史および訴訟・紛争解決の構造を再検討することを志したものである。

 本論文では、三つの課題を設定する。

 第一の課題は、文書の書式分類を軸とする様式論が主流となってきた通説的古文書学に対して、文書機能論の手法を徹底していくというものである。機能論的分析の重要性は佐藤進一氏によって提唱されていたが、「文書の様式は、文書の機能の表現形式である。」という佐藤氏の提言に象徴されるように、従来の古文書学では文書様式に対応させて文書の機能を検討する《様式論的機能論》が考えられていた。これは過去の公権力の発給文書の分析によって、過去の「制度」を復元する伝統的な法制史研究に連関するものであった。だが、日本の中世文書は、行政文書としての性格を強く有する古代文書の様式の系譜を引きつつも、訴訟における当事者主義的な文書利用の結果、しばしば文書の様式と機能にズレを生ずるところに特徴がある。その点を考慮せず、《様式論的機能論》を追求することで、近代的な制度観が投影され、実態とは乖離した制度史像が構築される恐れはなしとしない。そこで本研究では、文書機能論を軸に据えることで、文書の機能とその変化、様式とのズレなどを《動態的》に把握し、日本文書史の新たな見取り図を示すとともに、文書様式論とも連関してきた中世法制史研究の再検討を企図した。時期設定としては平安期を分析の中心に据え、摂関期・院政期・鎌倉期の各段階を論ずることで、日本史における古代から中世への移行の特徴を捉えることを試みた。

 第二の課題は、文書機能論を通して、訴訟・紛争解決の動態的な把握を試みることである。具体的には院政期の権門裁判に顕著であった裁許者の当事者的性格に注目することで、上位権力の裁判と当事者間交渉との二者択一ではなく、両者の要素が構造的に連関しあう紛争解決の全体像の把握を試みた。これは訴訟の際の法廷の選択について権限や管轄を論じてきた先行研究に対して、上位者から発給された後の裁許状が紛争解決において如何なる機能を果たしたのかという点に注目し、上位権力の裁判と当事者間交渉・自力救済とを連関させて捉えることを目指した。

 第三の課題は、武家法・幕府法を中心に構想されてきた日本法史の再検討である。文書機能論を軸に据えることによって、古代から中世、平安期から鎌倉期への展望を示すことを目指した。

 本論は三部六章から構成される。

 

 第一部「古代文書から中世文書への機能論的系譜の研究」では、本論文において重要な分析手法となる文書の機能論的分析の方法論を提示した。第一章「牒と御教書」では、御教書の発生論を取り上げ、古代文書の牒と中世文書の御教書という異なる様式をもつ文書同士に共通の機能を見出すという方法によって、古代文書から中世文書への転換の見取り図を提示した。第二章「院庁下文と国司庁宣」では、複数の様式の文書同士が如何にして連関して機能することで「文書の流れ」を成したのかという観点に基づき、国司庁宣との関係に注目して院庁下文の機能を分析した。

 第一部の研究では、様式論的機能論では様式分類にそぐわない文書や文書相互の関係が漏れがちであった点を指摘し、具体的な問題として、従来の古文書学で取り扱われてきたような権利文書や命令文書とその変遷ではなく、これらの文書に付随して機能を発揮する副状的な文書に注目することで、各段階における文書利用の体系を把握することに努めた。また、第二章の研究は院庁下文の機能の段階差によって保元前後の院権力の変化を論じ、政治史研究に見通しを示すものである。 

 

 第二部「文書の機能論を通してみた院政期の訴訟と紛争解決」では、機能論的文書研究と法制史研究のリンクを図るため、院政期の権門(大貴族・大寺社)の裁判における文書機能を論じた。

 第三章「院政期の拳状と権門裁判」では、院政期の挙状の機能を分析し、院政期の権門が人々からの訴えを受け取り、関係機関に《口利き》を行う様相を明らかにした。また、本所(権門)裁判とよばれてきた権門の活動についても、何らかの裁判権に基づく行為ではなく、紛争解決のための《口利き》であったことを論じた。

 第四章「権門裁判における「裁許状」の機能」では、訴訟に際して権門の発給する政所下文は、文書様式上「裁許状」として理解されてきたが、紛争解決における機能(当事者の利用の仕方)を見ると、権門が自己のクライアントである紛争当事者の権利を破棄する「去文」乃至保護する「安堵状」として機能することを解明した。これは近代的「判決」との類推において漠然と捉えられてきた中世「裁許」の性格に再検討を迫るものである。

 補論「書評 大山喬平編『中世裁許状の研究』」では、裁許状発給者・様式論の視点に立つ従来の研究に対して、裁許状受給者・機能論の視点に立つ本論文の方法論的立場を明確にした。

 第二部の研究によって、提訴先の選択可能性と実際に文書を利用していた文書受給者の動きという《下からの視点》によって、中世社会の当事者主義的な紛争解決において上位権力の裁判なり裁許が果たしていた機能を再検討する見通しをつけた。また、院政期の権門裁判における《裁許者自身の当事者的性格》を論じた。これらの論点は近代法的な世界とは異なる中世社会独自の紛争解決のシステムを解明する端緒であり、日本古文書学・法史研究の双方に問題提起を行うものである。

 

 第三部「院政期訴訟から鎌倉幕府訴訟への展開」では、第二部の研究を踏まえ、院政期以来の流動的な社会情勢のなかから鎌倉幕府訴訟がどのようにして登場し、日本中世法の展開に影響を与えたのかという問題について展望を示した。題材として取り上げる勘文と起請文は、院政期以来利用されつつ、鎌倉幕府との関連において発展する文書である。

 第五章「勘文の機能論的研究」では、院政期以来の明法勘文・記録所勘状の機能を論じることで、鎌倉幕府裁許状の歴史的位置を考えた。院政期~鎌倉前期の勘文は理非判断を示す文書として、当事者の合意形成にも利用され、上位権力の裁許状とは自立的に機能していた。鎌倉幕府では評定衆設置後は理非勘申を幕府内部で行い、勘判引用型の裁許状を発給するようになる。幕府訴訟において勘文と裁許が一体化する背景には、口入や寄沙汰を伴う縁を断ち切って裁許の正当性を確保しようとする幕府の姿勢があり、この姿勢は鎌倉中後期の公家訴訟制度の整備に影響を与えた。

 第六章「鎌倉幕府訴訟と起請文」では、鎌倉中期の幕府訴訟における起請文利用が、理非判断の難しい問題に対して柔軟な判断を下すためのものであり、鎌倉後期以降は証人・使節の請文に起請之詞を求めるシステマティックな運用がなされているように、理非判断とは必ずしも対立的なものではなく、補完的な関係を構築していたことを論じた。院政期には荘園の預所や在地のレヴェルにおいて起請文の利用は始まっており、幕府の起請文利用は院政期以来の本所法の系譜上に見通すことができる。公家政権では律令を原則としたために起請文の利用が忌避されていたが、鎌倉幕府の影響によって、後嵯峨院政期には公家政権における起請文の利用が始まった。

 

 以上の検討を踏まえて、「終章」では摂関期・院政期・鎌倉前中期の諸段階を論じた。まず古代文書から中世文書への転換の最初の画期となるのは九世紀後半~十世紀前半の時期である。この時期に、文書様式が整理され、当事者が自ら文書を保持・保存して権利を主張する中世的文書主義の淵源が見出される。諸権門の文書が地域社会に発給され、国郡制に基づく律令制的裁判制度が無視され、権門に訴えを寄せる動きが進んだ。摂関期には、国郡への王臣家の非公式の働きかけ(口入)は、国司への家牒・御教書あるいは郡司への告書という新たな文書様式を用いて引き続き行われる。律令制的な国郡制が存続する一方で、権門は紛争において実質的な裁定者となりつつ、形式的には国郡への非公式の働きかけを行うという二重的な関係が存在した。

 これに対して院政期では、荘園制形成に連動した社会的な流動化を背景にして、権門の家政的支配の外延部が拡大し、下文の機能も拡大する中で、摂関期における二重的な関係が解消されていく。裁許状は国郡制的な行政手続きとは原則無関係に訴訟当事者に発給されるようになるが、裁許状を獲得した当事者は、その実現のために、裁許状の獲得とは別に当事者間交渉を得なければならない。こうして裁許とその施行ないし当事者間交渉、あるいは理非判断(勘文)と裁許とが分化し、それぞれの機能に対応した文書も分化した点に、院政期の特徴がある。院政期の権門裁判は、自ら当事者的な性格を強く持ち、法圏の範囲に流動的な部分を有していた。

 こうした院政期の流動的な状況に一定の整除を与える動きは、十二世紀中葉以降徐々に強まっていく。その端緒は保元元(一一五六)年の保元新制である。治承寿永の内乱を経て鎌倉幕府が成立すると、公武の権力の間の管轄を明確化しようとする動きが始まる。鎌倉幕府は自らの裁判において御家人ないし地頭職に関わるもの以外の相論は取り扱わない態度を取り、「御成敗式目」第六条では「本所挙状」のない提訴を受け付けないという原則を示すことで、院政期以来の流動的な状況に一定の整除を与える役割を果たした。ここに独自の法圏と一定の自立性を有する本所・権門が王権の下に緩やかな統合を遂げるという構造が成立する。承久の乱以降は、鎌倉幕府の存在が本所の法圏を存続させつつも、強い求心力を発揮し、鎌倉幕府の主導の下で公武の訴訟制度が相互に影響を与え合いつつ展開する鎌倉後期へ連続していく。