本博士論文は日本中世の地域社会における集団統合原理の在り方を、主に〈領主の一揆〉に注目することによって、考察したものである。南北朝内乱以降、中世は本格的に「一揆の時代」を迎え、あらゆる階層、あらゆる地域において一揆が結ばれた。そして多種多様な一揆の中でも、最初に時代を牽引したのは年貢公事の徴収者にして地域社会の治安維持者であった在地領主による一揆、つまり国人一揆=〈領主の一揆〉であった。したがって〈領主の一揆〉は南北朝期以降の地域社会を規定する中心的な要素と言え、これまで多くの研究が積み重ねられてきた。本稿はその蓄積の上に、〈領主の一揆〉の構造・機能・結合論理を解明し、新しい国人一揆論を提示しようと志すものである。
序章では国人一揆研究の歴史を概観し、研究史に内在する問題点を析出した。農民闘争研究から分離する形で始まった国人一揆研究は、領主制の展開過程を明らかにするという問題関心を当初から胚胎しており、荘家の一揆や土一揆などとの「一揆」としての共通性を探るという指向性は微弱であった。
勝俣鎮夫氏による一連の一揆研究を契機に、社会史的な一揆論が隆盛するが、国人一揆研究には社会史的な手法は浸透しなかった。勝俣氏の主張の内、〈国人一揆から戦国大名へ〉という部分だけが継承され、国人一揆研究は地域権力論として深化していった。
上述の研究動向は、当時学界を席巻した「社会史ブーム」も戦後の日本中世史研究の“本丸”たる「領主制論」を“攻略”することはできなかったことを意味する。国人一揆研究は“勝俣以後”も「領主制論」的な研究視角を堅持した。このため国人一揆が「一揆論」の主要な研究対象となることはなく、専ら在地領主研究の“道具”として扱われたのである。
そこで本稿では、従来の「領主制論」的な方法論とは異なる、申請者独自のアプローチを導入することで、〈領主の一揆〉の新たな側面を浮き彫りにすることを試みた。具体的には、①地域権力論の相対化、②社会史研究の成果の批判的摂取、③一揆契約論の展開、の3点を課題として掲げ、“一揆論としての国人一揆研究”に取り組んだ。
第一部「国人・侍の一揆の構造と機能」では、国人や侍といった領主層の一揆=〈領主の一揆〉の構造と機能を考察した。第一章「伊勢北方一揆の構造と機能」では、「国人」身分以下の「侍」身分の領主たちによって構成された伊勢北方一揆について検討し、一揆を結ぶことで「一揆」という組織全体は「国人」身分として幕府に把握され、厚遇されることを明らかにした。第二章「隅田一族一揆の構造と展開」は、隅田八幡宮に集う隅田一族による祭祀の運営方法を検討することで、一揆の結集の在り方を解明したものである。隅田一族一揆の中核とみなされてきた葛原氏の存在形態について再考し、葛原氏は他氏に超越する惣領家的存在ではなく、小西氏や上田氏などと結んで集団指導体制をとっていたことを示した。第三章「松浦一揆研究と社会集団論」では、最も著名な国人一揆である松浦一揆に関する論争の経緯を整理し、国人一揆研究の新たな地平を切り拓くための指針を示した。勝俣氏以来の「一揆専制」論が、一揆の主体性・自立性・絶対性を過剰に強調し、国人一揆をあたかも近代的な権力体のように見せてしまっている点を指摘し、社会集団論的な一揆研究を相対化するために、「一揆契約論」という視角に基づいて国人一揆研究を展開する必要性を訴えた。
第二部「国人・侍の一揆と一揆契状」では、一揆契状の古文書学的考察を行った。第四章「奉納型一揆契状と交換型一揆契状」では、一揆契状を大きく二つに分類した。その一つは、充所がなく神に捧げるという起請文的な性質の強い〈奉納型一揆契状〉であり、もう一つは、充所を有し人に送るという契約状的な性質の強い〈交換型一揆契状〉である。そして、契約状としての側面に注目した場合、一揆契状を「『一味同心』を目的とする、神文を備えた契約状(契約起請文)」と定義できることを明らかにした。第五章「親子契約・兄弟契約・一揆契約」では、一揆契状の発生論を考える上での一助となるべく、親子契約・兄弟契約から一揆契約が派生していく過程を論じた。その上で、一揆の結成とは、神仏の前での「無縁」空間の創出というより、旧来の「縁」をいったん切断した上で新たな「縁」を生み出す行為と把握すべきであることを主張した。第六章「契約状と一揆契状」は、鎌倉期の「一味同心」を誓う契約状から南北朝期の一揆契状への展開過程を追跡したもの。鎌倉期からの連続性を重視する小林一岳・田中大喜両氏の「一門評定」論を批判し、南北朝内乱の画期性を文書様式論・機能論の立場から論証した。補論「白河結城文書の一揆契状」は、南北朝~室町期東北の一揆契状の中で大きな位置を占める「白河結城文書」所収の一揆契状を検討したもの。白河結城氏とその庶子家小峰氏は同じ一揆に参加したことはなく、各々別個に、周辺国人と「一対一」の一揆契約を結んだ。しかしそのことは、必ずしも両氏が互いに無関係に活動していたことを意味せず、むしろ、惣領家の築いたネットワークと、庶子家の築いたそれが連結することで、白河結城一族は南奥国人の中心の位置を占めることに成功したと説いた。
第三部「戦国大名・惣国一揆への展開」では、国人・侍の一揆の戦国期への展開を考察した。久留島典子氏の提起により、〈領主の一揆〉は戦国期には戦国大名(家中)乃至は惣国一揆(同名中)へと展開するという見通しが定着した。とはいえ、展開過程の具体的な様相は必ずしも明らかになっていない。第七章「領主の一揆と被官・下人・百姓」は、一揆契状など領主間協約に見られる従者・百姓関係の条項を再検討することで、〈領主の一揆〉が被官・下人・百姓との関係において、どのように機能したのかを捉え直したもの。特に研究史の厚い「人返」規定を中核に議論を展開した。〈領主の一揆〉が最も意を払ったのは、侍身分を有する被官層の統制であり、時代が下るにつれて、被官層に留まらず中間・下人層への統制をも行うようになるが、百姓層に対する統制にまでは至らなかったことに論及した。付論「三方起請文と大原同名中与掟」では、同名中に関する著名な史料二点を新たな観点から解釈することで、同名中と村落との関係について再検討した。戦国末期の近江国においては村落内で「若党并百姓計之与」が結成され、〈領主の一揆〉たる同名中の意向とは関わり無く、同名中の支配領域外の村落と連合するという動向が見られた。同名中側の対応策は二つあった。一つは柏木御厨の伴・山中・美濃部「三方」に見られるように、近隣の同名中との日常的な提携(「申合」)によって村落の武力を管理するというものである。いま一つは、大原荘の大原「地下一揆」に見られるように、緊急時において同名中が百姓層と一揆を結び、村落の武力を総動員するというものである。同名中と百姓との関係を上記のように理解することで、惣国一揆論に新たな展望を拓くことができることを主張した。第八章「乙訓郡『惣国』の構造」は、乙訓郡「惣国」を事例として、新しい惣国一揆論を提唱したもの。惣国一揆研究においては、一揆の構造と機能をめぐって、百姓を支配する〈領主の一揆〉と見るか、それとも領主と百姓の“統一戦線”と見るかという見解の対立がある。この論争に終止符を打つべく申請者は、〈領主の一揆〉である平時の「惣国」と、百姓層をも包摂した戦時の「惣国一揆」を区別することを提案した。
終章では、以上の議論を総括し、今後の国人一揆研究の展望を示した。社会史研究の隆盛に伴い、一揆契状の起請文としての性格は、「一味神水」という神秘的な儀式との関わりから過度に重視されてきた。しかし「一味神水」は必ずしも〈領主の一揆〉結成に不可欠の「作法」ではない。〈交換型一揆契状〉の広範な存在から分かるように、「一味神水」を行わなくても、一揆契状の交換によって一揆は成立するのである。一揆の結合原理として「一味神水」による「無縁」空間の創出を強調する通説については、一定の見直しが必要であろう。一揆契状が起請文形式をとったのは、一揆の結成に神仏の権威(信仰の力)が必要だったというよりは、一揆契約に永続的な重みを与えるために契約文書の中で最も伝統と格式のある文書様式である「契約起請文」が求められたからと考えられる。
神仏に充てる形式をとる〈奉納型一揆契状〉も、神秘性ではなく公示性にその本質を見るべきだろう。〈奉納型一揆契状〉はこれ見よがしに掲示され、集団的意志を対外的に明示する機能を果たした。その中には“申状としての一揆契状”と評価できるものもある。したがって、領主たちが集まって連署状を作成し、外部勢力ないしは上部権力に提出するという行動様式じたいが〈一揆の作法〉なのである。こうした〈領主の一揆〉の政治的機能を、自力救済行為をも内包した集団的訴訟と捉える視点が必要である。そのような視野を持つことで、土一揆研究や荘家の一揆研究との接点が生まれるであろう。
では逆に、領主という固有の存在形態に根差した〈領主の一揆〉の機能的特殊性とは何であろうか。それは〈領主の一揆〉がしばしば恒常的に活動する点に求められよう。その要因として、これまでは「所領を保全するという領主としての基本的属性」が指摘されてきたが、それは必要条件であっても十分条件ではない。一揆による共同知行という慣行こそが〈領主の一揆〉の構造化を促す大きな要因であったと言える。そして如上の共同知行地は、上部権力から一揆に充行われた恩賞地に淵源を持つことが少なくない。先行研究では「領主制論」的な視角に囚われた結果、〈領主の一揆〉と上部権力との関係が重視されてこなかったが、〈領主の一揆〉を上部権力との政治的交渉の主体として位置づけることが重要である。
本稿での考察を踏まえると、一揆か否かを判定する基準として、文書を介在させた定型化された「作法」に則って一味同心を誓うという行動様式の有無を挙げることができる。一揆の本質を神への誓約ではなく、文書に基づく人と人との「契約」に見出すべきなのである。