リルケ作品が語られる際のキーワードの一つとして内面性が挙げられる。例えば1922年に完成した『ドゥイノの悲歌』を例にとれば、そこでは「恋人よ、世界はどこにもないだろう、内面以外には」と言われている。さらには、『ドゥイノの悲歌』の中心思想とでも言うべき「変容」とは、事物を目に見える領域から目に見えない領域へ移すことなのだが、その場所は「私たちの中へ」となっている。「内面」や「私たちの中へ」といった表現は、私たちの心を連想させる。心の内とは、目に見えず、私秘的な場とされ、他者に対しては閉ざされている。その上、内面以外には世界はない、といった表現を考えるならば、他者の存在さえをも疑う独我論的な世界が姿を現すように思われるかもしれない。しかしながら、リルケが「内面」や「内的」といった表現を用いる場合に、そうした表現は、私たちが日常生活の中で思い浮かべているような「心の内」といった意味に限定されているのだろうか。むしろ、通常の意味での「内面」を問題化することがリルケの意図なのではないか。こうした考えを裏付けるように、後期のある詩の中では次のように問われている。「内部、それは何であるのか。/高められた空でないとするならば」。このような詩句を読むとき、一般的に考えられている内と外といった自明の区別は役に立たない。「私」という個人へ集中し閉じてゆく「内面」として捉えることもできないだろう。というのも、上で引用した詩句は、「私」に収斂してゆく閉じられた空間ではなく、広々と開けた空間をイメージさせるのだから。
 このように本論が目指すのは、閉じられた内面とは別のリルケ像を提示することなのだが、その際の手がかりとして、後期作品における呼びかけが考察の対象となる。『ドゥイノの悲歌』と『オルフォイスへのソネット』での呼びかけのあり方を問うのが本論の後半部分であるのだが、それに対して前半部分では中期作品の『新詩集』を中心的に扱う。ここで『新詩集』を論じる理由の一つとして、この詩集がリルケ作品における「内の優位」を強く示している作品であり、本論が提示する後期作品の立場とは対照的な位置づけにある点が挙げられる。中期の評論である『ロダン』の中で描かれた「芸術事物」という理念は、自分自身以外のものを含まず、ただ自分自身とのみ関り合う「完全な自己従事」によって特徴づけられており、そうした事態は、全てを自らの内に取り込む「円」として表象されている。ただし、こうした「自己従事」がテクストにおいて具体的にどう示されているのかに関しては説明が必要となろう。例えば『新詩集』の「ローマの噴水」という作品は、途切れることのないただ一つのセンテンスから構成されるきわめて特殊な統語法で書かれており、そこには明確に規定される主語もなく、また使用されている動詞もほぼ現在分詞となっている。そのような表現形式は、その詩が描き出す噴水の水の流れに対応していると解釈できる。そこでは表現内容が言語形式に反映される。そのことによって言語形式に関する解釈が詩の主題へと回帰してゆく意味空間が形成される。こうして私たちが見出すのは、表現と形式との一致であり調和である。この一致において詩は自分自身とのみ関り合う。というのも、詩は現実という別の尺度によって測られるのではなく、自己の内部での整合性によって特徴づけられるのだから。このような自己回帰として、『ロダン』論における「円」は解釈され、この意味において全ては「内に」ある。確かに、ここでの「内」は心理学的な内面ではないが、全てを内に含む自己完結性という点で、閉じられた内面のヴァリエーションの一つとして理解することができよう。
 しかしこのような調和的な自己完結性は、『新詩集』に続く長編小説『マルテ』においてもはや成立していない。それは、この作品がそれぞれ主題の異なる非連続的な手記の集合による開かれた作品である、という点だけにはとどまらない。というのも、『マルテ』で描かれているのは、内と外との境界も含む様々な境界の侵犯であり、自明のものとして機能しているコードから逃れようとする運動、自己完結するのではなく、そこから常に逸脱してゆく運動なのであるから。『マルテ』の最後の節は聖書に由来する放蕩息子を素材としており、とりわけ放蕩息子の家出と帰郷とに焦点が当てられている。放蕩息子は閉じられた家から抜け出し羊飼いとなるのだが、最後に再び故郷に戻る。家出が内から外への方向を示すとするならば、帰郷とは、外から再び内へ帰ることを意味するだろう。それゆえ放蕩息子の家出と帰郷とは一つの円環を描き、閉じられた物語を形成しているように思われる。しかし、外から内への帰還は、内に回収されることを意味するのではなく、むしろ家族の共同体に吸収されることのない異質な存在として、いわば内部における外部という様相を呈するものとして解釈される。帰郷の場面は内か外かの二項対立なのではなく、内における外というパラドクス的な存在へと放蕩息子を変えている。
 このような逆説は後期リルケ作品の表現の中に頻出する。まず挙げられるのは、『ドゥイノの悲歌』における天使への呼びかけである。『悲歌』研究ではすでに「呼びかけ構造」という術語でこの作品が特徴づけられているのだが、その場合、読者の感情移入を促す修辞学的な呼びかけという意味合いで用いられている。それに対し本論では、「私」にとって絶対的な隔たりをもつ天使への呼びかけが考察される。第一悲歌の中で「私」には到達不可能な天使との距離が描かれるのだが、そのような天使への呼びかけはねじれを含むことになる。つまり、それは、呼びかけられるものと呼びかけとの隔たりを主題化するような呼びかけになる。第七悲歌での天使への呼びかけは、求めることと求めないこととの共存であり、呼びかけながら拒むという逆説的な身振りによって特徴づけられる。
 さらに『オルフォイスへのソネット』では、呼びかけられる対象が、「私」の内へ回収されるのではなく、「私」の了解から逃れる「おまえ」として描かれている。本論ではこうした呼びかけを対話という観点のもとに考察するのだが、ソネット2-1では、たんに「おまえ」に向けて呼びかけがなされているというだけではなく、「私の内部」の優位を否定するものとして「おまえ」が現れ、一方的な関係ではない「私」と「おまえ」との流動的な絡み合いが表現されている。つまり、同一化による予定調和的な対話、同質的な<一>へと収斂してゆくような対話ではなく、常に抵抗として、「おまえ」の異質性が強調されるような関係性であることが、ソネット2-1の解釈を通して示される。このような異質性の最も極端な形が、沈黙の中に言語の可能性を見出そうとするソネット2-20である。そこでは「魚の言語」の可能性が語られる。もちろん、「魚たちは押黙っている」と述べられているように、私たちが用いている言語は魚には欠けている。しかし現に私たちが用いている論理や表現だけが唯一絶対であり、別の状態を考えることは不可能なのか。あるいは、私たちの言語とは別の「魚の言語」を思い描くことも可能なのではないか。それは私たちにとって絶対的に他なるものとしての言語、従ってもはや言語とは言えない言語となろう。そのような非言語としての「魚の言語」を目指して語ることの中に、詩作の可能性が賭けられている。内と外、「私」と「おまえ」、言語と沈黙とがすでにコード化され決定されている場所とは別のところで、そのような境界付けそのものを問い直すような言語表現こそが、詩作品のありうべき姿として示されている。そしてこのような立場から、他なるものとしての「おまえ」への呼びかけが発せられているのである。
 このように、リルケ作品の意味とは、内面の空間、心の空間を描いていることよりも、既存のコードを破る言語表現の実践の中にこそ見出されるべきである。リルケの詩作品が開く表現空間とは、閉じられた内面空間ではなく、異質性へと開かれた空間だと言えよう。その場所は、内と外という截然と区別された領域ではなく、内と外とが、「私」と「おまえ」とが絡み合う場である。確かに、それは内へ閉じられた空間ではないが、かといって「内から外へ」というわけでもない。むしろ、内と外という図式を超えたところに開かれる次元こそがリルケ的空間と言えるだろう。本論の表題、「内面性の彼方へ」はこのことを表わしている。