本論文は江戸時代の戯作者、曲亭馬琴の手による勧懲稗史『南総里見八犬伝』(以下『八犬伝』)の倫理思想について考察したものである。本論文は序章・第一章・第二章・第三章および終章の全五章からなり、序章から第二章までは主に勧懲稗史における「悪」がどのようなものであるかを、第三章と終章ではそうした悪と対立する「善」がどのようなものであるかを考察し、そこから『八犬伝』の倫理思想を明らかにすることを試みた。以下各章ごとにその論旨を述べていく。
序章「稗史という形式について」では坪内逍遥や津田左右吉ら近代以降の『八犬伝』批判から出発し、『八犬伝』が現実の人間の描写を試みたものではなく、歴史上の人物の善悪を峻別し、善人を讃え悪人を貶めるもの、歴史記述の一つの方法であるという点を指摘した。その上でそうした歴史の記述が何故史書としてではなく、史実ならざる虚偽を含んだ物語として書かれているのかという問題を提起し、以降の論述の方向を示した。
第一章「『八犬伝』の伝奇性」は、序章において提起した問題を踏まえ、『八犬伝』のうち史実ではない部分、虚偽の部分の意義を明らかにすることを試みたものである。
第一節「問題の所在」ではまず『八犬伝』の内容を、史実を描いた「歴史的要素」と史実以外を描いた「伝奇的要素」にわけ、このうち「歴史的要素」においては善なる里見家と悪なる扇谷家が対立していることを述べた。その上で扇谷家が善と対立する悪たり得ないことを、つまり『八犬伝』の主眼である勧善懲悪が「歴史的要素」だけでは完全には描かれていないことを示した。
第二節「朱子学と悪」では近世の朱子学者林羅山の学説をもとに、性善説である朱子学においては悪が善の欠落態である不善に過ぎず、善と対立し得る悪が存在しないことを示した。そしてこの朱子学における悪の不在が『八犬伝』の「歴史的要素」において悪が描かれていないことの、つまりは歴史の叙述だけでは勧善懲悪が描き切れないことの原因であることを指摘し、『八犬伝』の「伝奇的要素」が、歴史記述だけでは描けない悪を描く為に存在している可能性があるという見通しを立てた。
第三節「伝奇世界の悪」ではまず歴史に現れた不善者の存在根拠を問う思想として頼山陽の『日本政記論賛』を取り上げ、これが朱子学に基づいた善一元論の天が歴史を動かしていく近世的史観であることを述べた。その上でこうした史観が慈円の『愚管抄』のような怨霊の働きによって歴史が動いていくとする中世の史観とは異なるものであることを指摘し、『八犬伝』においてはこの異なる二つの史観が併存していることを指摘した。そして先に本論考で区分した『八犬伝』の「歴史的要素」と「伝奇的要素」がそれぞれ近世的史観と中世的史観に対応するものであり、『八犬伝』の「伝奇的要素」が近世の朱子学の教説及び近世の善一元論の史観では描くことができない怨霊を描くものであることを示した。
以上第一章「『八犬伝』の伝奇性」においては、『八犬伝』の伝奇的要素が歴史を動かす怨霊の働きを描いたものであるということを明らかにした。
第二章「『八犬伝』の悪」では第一章の行論を踏まえ、『八犬伝』の伝奇世界における悪、すなわち怨霊が体現している悪がどのようなものであるかを論じた。
第一節「玉梓の悪」においては、怨霊となった悪女玉梓を『八犬伝』における伝奇世界の悪の体現者と捉え、何故彼女が怨霊となったのかを辿りながら悪の実態を追った。その結果、彼女が怨霊となったのは里見義実が図らずも彼女の美しさを愚弄した為であり、玉梓は愚弄された自らの美に執着するが故に怨霊となったことを示した。
第二節「悪霊の鎮魂」はその発生過程から悪の実態を辿った第一節とは逆に、怨霊玉梓の成仏がいかにして為されたか、すなわち祟りの終息という側面から伝奇世界の悪の実態を追うものである。結論は、玉梓は様々な形で里見家に祟りを為すものであるということ、そしてまたその祟りが儒教的善の力ではなく仏教的善行によって鎮まるものであるというものであった。
第三節「祭りを求める悪」では前節での考察を踏まえ、怨霊玉梓の為す様々な祟りの根底に祭りの要求があることを最初に示した。その上で新井白石の『鬼神論』を手がかりに近世の祭りの正邪を巡る問題を取り上げ、儒教の正しい祭りである祖先崇拝において玉梓は祭ってはならない神、「淫祀」を要求する神であること、そしてその為にこうした怨霊が儒教的善政においては鎮めることのできない、仏教の善の力によって極楽浄土へ往生させねばならない存在であることを示した。
第四節「悪と嫉妬」は前三節をもとに、改めて玉梓に仮託されている悪の内実を問いなおしたものである。淫祀を求める神である玉梓が殊更里見義実に祭りを要求するのは、彼が玉梓の美を愚弄したからであるが、そうした美への執着はよるべない女たちが男の寵愛を得るために争い合う後宮が生み出すものであり、そうした後宮における女の嫉妬から怨霊が生み出されるということを本節では指摘した。
以上第二章「『八犬伝』の悪」においては、『八犬伝』の伝奇世界において描かれている懲らすべき悪が怨霊であり、そうした怨霊を生み出すものが嫉妬であることを論じた。
第三章「『八犬伝』の女たち」は、第一章および第二章の行論をもとに、『八犬伝』の伝奇世界における悪と対峙する善について考察したものである。
第一節「伏姫の善」では怨霊玉梓に対する伝奇世界の善の体現者を神女伏姫と捉え、彼女の善が理非正邪を判断し得る賢才や、恩愛や未練を断ち切る男性的果断・剛毅であることのみならず、女性的美にあることを確かめた。その上で、そうした女性的美が彼女の内面的慈悲の表れであり、伝奇世界の善としての慈悲が『八犬伝』に存在することを指摘した。
第二節「慈悲と嫉妬」は、これまでの考察で明らかになった伝奇世界における善と悪である慈悲と嫉妬がどのような関係にあるかを論じたものである。本節においては馬琴の随筆『燕石雑志』および『八犬伝』の登場人物である少女浜路を手がかりに、慈悲と嫉妬がともに対象への執着から生じるものであることを示し、その上で根本的に同一である両者が善と悪へと分裂していくのは、執着の対象である男の態度にその原因があることを論じた。
第三節「八犬士とは何者か」では前節で達した見解をもとに、女に執着された男のあるべきありよう、そうした善の擬人として八犬士を捉え、『八犬伝』が八犬士によって描こうとしている勧善懲悪の善とは何であるかを明らかにすることを試みた。八犬士はいずれも仁義八行という儒教的善の体現者であるが、それと同時に亡母伏姫を歓ばせる為に一つに集まろうとしている兄弟であり、そうした死んだ母を歓ばせるという善なるありようもまた八犬士においては体現されていることを、本節では関東管領戦と親兵衛の京物語を手がかりに論じた。
以上第三章「『八犬伝』の女たち」においては、『八犬伝』の善が伏姫の体現している慈悲であること、そしてその慈母を歓ばせている犬士たちのありようにまた善が体現されていることを明らかにした。
終章「母と兄弟の物語」は前章までの考察を元に、馬琴の著作『吾仏の記』および『後の為の記』から馬琴の問題意識を探ろうとしたものである。積善の家であるはずの滝沢家が凋落の一途を辿っていくという馬琴の直面していた現実は善因善果という朱子学のテーゼと必ずしも一致しないものである。にもかかわらず、彼が勧善懲悪という主題を持つ『八犬伝』を描き続けていた背景には兄弟の和合を求める母の遺訓があり、兄弟が一つに集まって亡き母を歓ばせるという『八犬伝』を描くことが、そうした母の遺訓に応じようとする馬琴にとっての善であったということを本章では指摘した。
以上が本論文の各章における論旨であるが、最後にこれらをまとめて本論文の要旨を以下に述べる。
『八犬伝』は勧善懲悪を主眼とした稗史である。そこでは仁義八行という儒教道徳に沿ったありようが善として勧められ、またそうした儒教道徳から逸脱したものが不善として懲らされる歴史世界がある。しかしそうした歴史世界の背後には、死んでなお子を見守ろうとする母の慈悲が善として讃えられ、死んでもなお祟りを為そうとする女の嫉妬を悪として蔑む伝奇世界があった。そうした中で『八犬伝』の主人公である八犬士は、仁義八行という徳を備えた歴史世界の善であるのみならず、死んだ女(母)を歓ばせるという点でもまた善であった。故に八犬士が善、すなわちあるべきありようを示したものであるとする倫理は、仁義八行を是とする朱子学の論理のみならず、それが母を歓ばせているということに基づくのであり、そうした母を歓ばせるということに善を見出すところに、『八犬伝』の倫理思想の特徴がある。以上が本論文の達した結論である。