本論は近代西欧における児童文学の成立の歴史を中心に「宗教」との関わりという観点から論じ、宗教教育物語やペロー、グリム、アンデルセンの童話および比較対象として日本の宮沢賢治の童話における宗教性について論及している。
他の文学と異なる児童文学の特徴は、子どもとファンタジーの要素で、具体的には、子どもの心理に特有なアニミスティックな世界観に基づく空想と現実の均衡である。そうした特性はキリスト教以前の宗教として周縁化された神話や伝説、土着的な民俗信仰等、基層文化的なものと親和性が高く、物語のプロットにも多用されている。従来の児童文学研究は、これらを宗教とは看做さずにキリスト教を中心に解釈したので、宗教児童文学研究は作品の文学性を損なう可能性があるものとして敬遠されがちで、ほとんど展開されてこなかった。
本論で試みたのは、宗教児童文学研究の基礎となるような、児童文学という文学領域自体に内包される宗教性について明らかにすることである。そのためには、宗教の枠組みの中にキリスト教だけでなく異教として退けられてきた様々な信仰体系も取り入れて宗教概念を再考するとともに、様々な時代や地域にまたがる多くの作品を通した全体像を俯瞰する必要があった。そこで、一人の作家や一作品ではなく、児童文学という文学領域自体の特徴である子どもとファンタジーの要素と「宗教」がどのような影響関係にあるのかについて着目した。その上で児童文学の成立過程をみていくとそこから導き出されたものは、神も含めた超自然的な存在や現実とは異なる空想的な世界を「信じる」ことに対する様々な態度であった。
宗教と子どもの関係性が深くなった最初期の作品群は、近代初期のピューリタンによる宗教教訓物語である。現実の子どもに高い関心を払った彼らは、夭折する子どもたちを救済しようという思いから、原罪観に基づいた地獄への恐怖という極端な死生観言説を展開し、大流行させた。キリスト教に基づいた非現実的な世界としての地獄やその懲罰者としての神を信じることを強要したそれらの物語は今日では悪名が高いが、アンチテーゼとして児童文学が誕生したことに鑑みれば、胎動期としての意義を認めることができよう。
直接的契機となったのは、西欧の土着的な妖精信仰と深い関わりを持った空想的な民話・昔話で、具体的には、フランスのペローやドイツのグリム兄弟によって近代的なおとぎ話として制度化されたものである。その登場と受容に至るまでの社会的状況や背景、人々の心性に留意しながら、様々な「宗教」に注目すると、彼らの物語の限界点や後の児童文学との決定的な差異が見出される。ペローは、近代的知性を持つ彼なりのエスプリによって、妖精や魔法など超自然的なものが信じられていたかつての世界は、すでに現実には信じるに値しない過去のものであると揶揄・嘲笑している。グリムでは、超自然的なものは子どもの興味を引き付ける物語の素材や機能として用いられているに過ぎず、自らの信じるカルヴィニズムに基づく価値理念とキリスト教的な神信仰が推奨すべきものとして掲げられている。
その流れを受けつつ、その前提を覆してファンタジー児童文学の基礎を作る新たな物語様式を誕生させたのは、デンマークのH・C・アンデルセンである。彼は、人生経験の少ない子どものナイーブな憧憬によって現出するような架空の世界について深い理解を持っていた。そこに豊かな彩りを加え、現実と空想の均衡が保たれたファンタジー児童文学を確立したのである。その中では、キリスト教によって近代以降強調された地獄の恐怖、あるいは選ばれし者だけが行くことができる天国観は否定され、代わりに、アンデルセン自身が固く信じていた、すべてを良いように導いてくれる神の観念と希望とともに未来を志向する子どものイメージが重視された。例えば、代表作『人魚姫』では、水の精霊である人魚に神の救いがもたらされるなど、現実と非現実とが重なり合ったところにキリスト教的な神と土着的な妖精とが調和した世界を顕現させているが、さらに現実の子どもたちが物語の世界を信じることでさらに広々とした時空が現出し、空想と現実の関係により深い味わいをもたらす巧妙な仕掛けが施されている。つまり、アンデルセン童話には超自然的なものが生き生きと躍動する空想的世界を信じることの愉悦が見出されるのだ。そこに独特の神秘的な密やかさがあり、「宗教」の枠に収まらない、ファンタジー児童文学に特有な宗教性を帯びた世界が構築されているといえる。伝統的なキリスト教とも近代的な知性とも異なる、かといって前近代的信仰でもない、子どもとファンタジーを基盤とした独特な宗教性の表出である。
こうしたファンタジー児童文学の宗教性は、決して近代西欧キリスト教文化圏にのみ特有なものではない。日本の宮沢賢治の童話の中で描き出される幻想世界も同じ構造を持っている。賢治の思想的集大成ともいえる『銀河鉄道の夜』は、度重なる改稿を経て、「信じる」対象や態度が大きく変容した。初期形では、法華経的世界観が教示され、物語中の現実でもそれを信じることが求められたが、最終形でそれらは削除され、物語中の現実で信じられているものは、「カムパネルラは銀河の外れにいる」という幻想世界の出来事とその存在である。賢治にとってファンタジー児童文学の創作は、仏の世界も含む、現実とは異なる空想世界を信じるに値するという信念の確立としての宗教的営為であった。
児童文学は、近代における啓蒙という理性優位の立場から切り捨てられたものをすくい上げようとする芸術領域である。ファンタジーは現実から、子どもは大人からそれぞれひとたび切り離された上で再び浮かび上がるようになった。これは裏を返せば、近代的な心性の中では、成熟した大人やいわゆる普通のリアリティが優位となったということだ。そのことと比例して、子どもとファンタジーが特別な領域を形成するに至った。実は、「宗教」も、そうした近代的心性の中で幅を利かせるようになった大人とリアリティの側に収斂されてしまったのだ。確かに、その中に宗教のある部分は適合するものであり、枠内に押し込めることは可能であると一応はいえる。
しかしながら、児童文学が取り込んだような近代以前からの宗教の伝統の中には、その中に留まらないものも少なくなかった。大人と現実の宗教を子どもの世界に持ち込んだ教訓物語がそうであったように、ズレが大きくなればなるほど、内容が次第に先鋭化し、狭苦しくなっていったが、子どもとファンタジーに限定された特区の中では、宗教的なものが大手を振って闊歩できるような広々とした時空の創出が可能となった。例えば、前近代的な土着的宗教にしばしばみられるような、この世離れしているが故に愉しむことができる他界などは、子ども的なもの、空想的なものの側と相性が良く、自然とそちらに流れ込んでいったように、子どもとファンタジーという特区はそれ自身で宗教的なものを限定する機能をもっていたのである。要するに、大人と現実は、宗教から自由な創造的感性を奪ってしまったのであり、そこで失われたものが、子どもとファンタジーの領域において、限定的再構成が施されて新しい生命力を得ることになったのだ。その二つの合流地点が優れた児童文学の中には多く見出される。
20世紀末以降、そうした児童文学の宗教性がさらに広がり、多くの人の心を惹きつけるようになった。いわゆる「子ども向け」であったファンタジーを大人も楽しむようになり、映像化されるなど、エンターテイメントとして大流行し、児童文学の古典的名作も再び脚光をあびている。すなわち、ファンタジーはかつての児童文学が規定していた子どもという皮膜を保ちながらもその殻を破り、時代を超えて、さらに文学という枠組みをも超えて人々を魅了するものになったのである。そのことは、現代人がそこに表出された神秘的な荘厳さや抱擁性にある種の宗教性を感じ、心惹かれていることを物語っている。こうした現象は、ある意味では宗教的なものが、いわゆる「宗教」の中だけに留まっていないという近代の世俗化に足並みを合わせたものと解することもできる。したがって、児童文学は近代における宗教の特徴のあり方を考える上で重要だし、宗教児童文学研究は、芸術や今日的エンターテイメントと宗教との関係を考える上で大きな役割を果たすといえる。
むろん、すべての児童文学作品がそのような機能を内包しているわけではない。それらの中には、現実逃避や一時の慰みで終わるような場合もある。物語の中でアニミスティックなものが許容され、ヒューマニズム的理想も一応は描き出されたとしても、子どもとファンタジーを場面設定として活用しただけにすぎないことも少なくない。しかし、優れた児童文学作品の中にはそれを通して近代社会ではうまく機能しなくなっている「宗教」を再創造する方向に働く場合もある。どちらも同じ子どもとファンタジーが土台になっているが、ペローやグリムの童話のようにその世界の中で閉じ込められる場合とアンデルセンや宮沢賢治、他の優れた作家たちの作品のように、宗教的なものがヒューマニズム的な方向で再解釈されることで大きな飛躍を見せる場合とがあるのである。神や妖精を含めた目に見えないものを信じることに対する態度が空想に現実と同じかそれ以上の地位を与えているか否かがその違いなのだ。児童文学の中で、現実を超えた空想の世界を信じることの愉悦を味わいながら、それらを心の深いところに確立することが可能となるとき、そこには伝統的なものと近代的なものが融合した新たな宗教性が顕現しているのである。