本論文は、近世都市における神社と神職の構造把握および社会関係の究明を行うものである。
Ⅰでは、神主・神職身分の内部構造について、江戸における状況を分析する。
第一章では、江戸に展開した神主―社家―零細な神職という複合の様相を、それぞれが奉仕する神社の実態と踏まえて明らかにするとともに、そのなかから立ち現れる社会的関係についても指摘する。第二章では、具体的な神主層の集団編成とそのもとにおかれた奉仕神職―実態としては町方に居住する神職層との関係について、一九世紀前期の状況をもとに検討する。第三章は、当該期において町方にひろく展開した『道場』と呼称される宗教施設を検討し、町方神職及び彼らと親和的な位置にあった修験や陰陽師らが町人の信仰を集めた拠点の実態を明らかにすると同時に、彼らの生業を支えた当時の町人による信仰の様相や、町方の宗教者を取り巻く社会集団、幕府の宗教統制政策も見据える。第四章「は、第三章で取り上げた幕府の統制政策、とくに天保十三年以降の町方修験・神職の被下地移住により、状況がどのように変化したのか、移転以前から幕末維新期まで見通す。
Ⅱでは、おもに江戸の古跡地神社とそれをとりまく周辺社会との関係について検討する。
第五章は、佃島とその鎮守である佃島住吉神社を対象に、島内社会の構造のなかで住吉社がどのような関係を構築していたのか、また島外にあたる江戸の社会とどのような関係を取り結んでいたのか、諸社会集団との関係をもとに分析する。第六章では、日本橋界隈の椙森稲荷社や浅草蔵前の第六天神社(現・榊神社)をなどの古跡地神社と、その主要な存立基盤である氏子域の社会との間でどのような関係が取り結ばれていたのかを、祭礼の事例を中心に検討していく。第七章では、江戸最大の祭礼であった神田明神社・日枝山王社、および古跡地神社である四谷天王・稲荷両社(現・須賀神社)の祭礼がどのように営まれていたのかをもとに、神社と町・町人の関係について考察する。
Ⅲは、地方都市における神社とその関係について考察を加えるものである。
第八章は、駿府の惣鎮守であった駿府浅間社における社家編成の過程を中世末期の状況から遡り、神社内でどのような集団編成を行っていたのか、また町や村および他の社会集団との間でどのような関係を取り結んでいたのかについて考察する。第九章・第十章は、南信下伊那地域における飯田城下町の宗教的な位置および周辺社会との関係について考察するものになっている。第九章では藩の寺社統制に関する職制を明らかにしつつ、飯田城下町に展開した寺社および宗教者の実態について検討し、第十章では「寺院社会」と近似的な位置にある嶋田村(現飯田市)の鳩ヶ嶺八幡宮と村および門前町である八幡町との関係について検討し、飯田藩の影響も組み込んだ地域的な実態について明らかにしている。
江戸の中に展開する神社のうち、将軍家と関係の深い神社が、境内地内に神主・社家・社僧の屋敷や門前町屋を抱える大社として存在し、その下に古跡地や除地として寺社奉行所により登録された神社が続く。これらの神社は伊藤毅が指摘した「境内」型寺院と「寺町」型寺院と構造的に類似した関係にある。
この他、町人地内や武家地内へ設けられる小規模な神社も一八世紀頃から次第に現れはじめる。こうした小社は町や町人の手により設けられ、修験や神職といった宗教者へ奉仕を依頼されるものから、一八世紀末から一九世紀にかけて宗教者の居住する表店を堂社化するものと二種類に分けられる。原則的に僧侶などの町方居住は禁止されていたにもかかわらず宗教者が居住できたのは、親類や講組織のメンバーが名義人となって店を借り、「旅宿」など一時滞在を名目としたからである。こうして地方の寺社が都市内へ入り込み信仰を獲得することが可能な状況であった。これに対して幕府は、寛政三(一七八一)年に触を出すなど対策を講じるが、実質的に拘束力を持ち得なかった。こうした状況に加え、宝暦期以降潰れ百姓の増加に伴う都市への人口流入や流行神による民衆宗教の活発化するという時期にあって、容易に設置の出来る「道場」がこうした民衆の願望を充足する拠点として位置づけられ、天保元年には江戸市中に六〇〇近い「道場」の形成をみるに至ったといえる。のみならず、「道場」で祭日や縁日まで行われ、祝祭の空間が増加することにより、「道場」の集客力に寄生した小商人へ生業の場も提供することになった。「道場」と民衆世界との関係が、信仰の局面とともに下層民の生業にも直接関係するようになるのである。少なくとも「道場」や宗教者自身の取締りが本格化する天保元年までは、町方居住の宗教者にとって勧進・配札行為に留まらない安定的な生業を営むことが出来た時期であったといえる。神主株や「祠守」株の形成も、以上のような背景があり、勧進の場の問題だけには留まらない性格を帯びている。
さらに、一九世紀に古跡地神主の組合が形成され、天保改革期に議定を定めて神主としての職分を相互に保障し合った事例も、右の背景を前提とすれば理解しやすい。町方の神職らが力を付け、場合によっては神主職を買い取り、家職を侵害する場合が現れはじめたからこそといえる。さらに神事祈祷依頼を滞りなく行うために町方神職らの力は必要であった。そのためにも、社人として雇用する根拠を組合の組織化および神主の権威化に求めざるを得なかったとみられる。
こうした町方神職らの状況は、天保元年以降の取締りにより一変する。違法をはたらく宗教者の取締りはもとより、より宗教者や民衆世界に影響を与えたのは「道場」の取締りであった。信仰の場が一変したことに加えて、宗教者にとっては生業の場が減少したことになり、江戸を離れるなどの理由で勧進宗教者も減少したとみられる。たとえ神職らに被下地へ屋敷地などが与えられても、退転する神職等が後を絶たないのは、以上の理由からであろう。さらに幕末維新期において、動乱による人口の減少=勧進場の減少と、神仏分離令に伴う僧籍復飾による神職増加は、もとから窮迫した神職にとってさらなる打撃となった。結局は明治六年の神職廃止と府社・郷社の設定により、近世的な神職はここで制度上姿を消すことになったのである。
以上の点から、土地制度上の寺社地に留まらない宗教的色彩の強い空間の創設が、近世後期江戸市中に広く展開されていたことがいえる。都市における宗教者の問題を考えるとき、吉田の提起した社会=空間構造が欠かせない視点として立ち現れるといえる。
社領を持たない江戸の古跡地神社の場合は、境内地・門前=商人地主的土地所有と、氏子および氏子域外の寄進や祈祷依頼=勧進収入という関係構築がより鮮明に現れてくるといえる。しかし、個別の神社が抱える地域的個性を考慮しつつ望まねばならない。氏子域と神社の関係についても、その時々に置かれた状況によって変化を来すことは、住吉社の四つ手頭の事例から明らかである。こうした分析から、ひとつの町や一定地域内における社会構造の一端をとらえることも出来ることを実証できた。
駿府浅間社では中世末以来の社家編成が前提にあり、浅間神主新宮氏による指導的な立場が確認されていたものの、それが武家のイエのような主従関係には結びつかず、神主とのあいだで度々争論が勃発するという形で表面化することになった。こうした位置は寺院社会における寺院と房の関係に類似的といえる。ただ、早くから梵舜という吉田神道の主要人物と接触を持つ機会を得た神主新宮氏は、吉田家神道を積極的に受容することで社家に対する優位性を担保しようと試みたといえる。また神主の神事―「天下泰平・武運長久」の祈祷奉仕の役を補佐する面では「社領」給付の社家と「配当料」給付の社家に差異はないが、「配当料」神職のほうがより神主に隷属的な位置にあると考えられる。さらに、浅間社社家のイエとしての位置は在方神主や地役人層といったところと親和的である。こうした中世以来の系譜を引き、社家や社僧を抱える神社は、社家編成のあり方がほぼ一致しているとみてよかろう。
いっぽう南信下伊那地方と城下町飯田の場合、当該地域における寺社の先行研究がほとんど無い状況にあったため、まず藩の寺社統制や支配のあり方から、藩領域内における城下町内の寺社の位置について確認する作業から始めざるを得なかった。それでも、藩主への御目見や触の伝達を通した序列化が行われていたこと、また寺社方の職掌を記録から追っていくことにより、城下町の寺社が藩領域内外において果たした教学の伝播など役割の一旦を把握することが出来た。
また、鳩ヶ嶺八幡宮とその門前町である八幡町の場合、まず社領としての八幡町は八幡宮領と別当領とに分別され、人別帳の作成など行政的な面でも区分されていた。こうした寺社に直接付属する領分と、別当や神主へ配当される分では行政的にも剔夬される点は、駿府浅間社と同構造である。また八幡町の場合、遠州街道と秋葉街道の分岐点に位置するという在郷町に位置する関係から、近隣の飯田町の優位性を脅かしかねない位置にあり、つねに飯田藩による指導と介入にさらされた点が特徴的である。寺社も朱印状を受けている領主であるにもかかわらず、政治的には近隣の私領主の指導下にある点について、検討の余地があると思われる。また、領内に抱える山林資源利用の問題は、とくに下伊那地域では刈敷や榑木の問題とからみ、避けて通れない問題である。八幡宮や大宮諏訪社の事例を提示したとおり、山の用益をめぐる神社内の争論が一六世紀後期と一七世紀初頭に勃発しているのは、ほかの下伊那地域の山論と同様、森林資源に関するヘゲモニー争いと考えるのが自然であろう。