この論文では、科挙の学を中心に黄宗羲の学問を理解し、それを通して明末清初の学術転換の一面を明らかにしようと試みた。その内容を要約すれば、以下のようになる。
明の正徳・嘉靖年間から始まる陽明学の流行は、隆慶・万暦初期、ついに科挙にも波及し、それまで唯一の標準であった朱子学の権威を揺るがした。陽明学の挑戦、朱子学の動揺は、以後、諸子百家・仏教・道教など、それまで異端視されてきた思想が続々と挙業に持ち込まれるきっかけとなった。
このような「学無定論」の状況に対し、明朝政府が手をこまぬいていたわけではなかった。しかし、万暦初期から次々と取り締まりや禁令が出されたにもかかわらず、状況はますますひどくなる一方であった。それに、同じごろから始まる出版ブームは、万暦以降、挙業書の大流行をもたらし、それだけを勉強する「空疎不学」の風潮を蔓延させた。
このような挙業の混乱、挙業書の流行に対応し、受験生たちが作り始めたのが、文社であった。万暦末から江南の各地に次々とあらわれた文社は、崇禎年間にその全盛期を迎えた。明末の文社は受験生たちの受験対策としての性格をもち、その活動は模擬試験を行ってその結果を出版することを中心に行われた。
万暦末、挙業界に頭角をあらわし、当時の文社に大きな影響を与えたのが、艾南英・陳際泰を筆頭とする豫章四子であった。艾南英は、いろいろ試行錯誤のすえ通経学古、すなわち唐宋の古文を用いて《大全》の義理を敷衍することを主張した。一方、陳際泰らは艾南英と別れ、魏晋の王弼・郭象の文体を模範とするようになった。
そして、陳際泰らの影響を受けて天啓初年に登場したのが、応社をひきいる周鍾であり、彼が唱えたのは諸子であった。また、周鍾の後を継いで登場したのが、復社の領袖、張溥であり、彼が新しく持ち込んだのは、《注疏》であった。
このような文社の指導者たちは、各々内容の違いはあるが、同じく古学復興を唱えていた。彼らは新しい文体を求め、あらゆる古学・古典を探し始め、その結果、それまで忘れていた魏晋の思想、諸子百家、《十三経注疏》等々が次々と再発見されたのである。
こうした明末の挙業や文学にみられる、いわば百家争鳴のような状況は、時を同じくしてあらわれた、思想における新しい雰囲気とパラレルしていた。黄宗羲は、明末の文社を宋代以降の書院講学、陽明学の講学活動を受けつぐものと位置づける。明末の挙業は、当時の思想にもつながっていたのである。
それに、張溥の《注疏》提唱に対し、艾南英が《大全》を主張するに至って、挙業は経学や理学とも直接関わってくる。とりわけ張溥による経学の強調、《注疏》の再発見は、経学復興の流れの形成に大きな影響を与えた。
黄宗羲が青年時代を過ごした崇禎年間は、こうした文社の全盛期であり、この時期、彼の交遊・学問・文学・政治活動等々は、いずれも各種の文社を中心にして行われた。
この時期、彼がもっとも関心を寄せたのは、挙業と文学であった。彼は自他ともに許す劉宗周の嫡流であるが、直接学んでいた時、師の思想について何も得ることがなかったと告白する。それは、挙業や文学に関心があったためであった。この時期の彼は、志の挙業にある文章の士であったといえる。
ただ、彼は挙業や文学のほかに、経史子集にわたる幅広い読書にも専念していた。それは、当時の文社や文学などにあらわれた新しい思潮を反映している。彼を含め時代の先端を歩んだ一部の青年たちは、先輩たちが理想としながらも果たせなかった、若くして経史子集にわたる基本的な古典を渉猟した最初の世代であった。このような人々の中から、後に清初を代表する学者たちが登場してくるのである。
ところが、突然、明朝の滅亡という大事件が訪れた。この事件は、黄宗羲の人生や学問に大きな変化をもたらした。以後、彼は科挙を断念し、明の遺民として生きる道を選んだ。そして、20年近く及ぶ蟄居を終え、康熙初期以降、学者として活動した30余年あまり、彼が常々に大問題として指摘していたのは、科挙の学であった。
黄宗羲は、明末の挙業、また自分自身にも大きな影響を与えた艾南英に対し、世の中に時文だけを勉強する空疎不学の風潮をもたらしたと痛烈に批判する。だが、こういう批判は、実は呂留良に向けられたものでもあった。彼は、艾南英のエピゴーネンである呂留良のために、世の中に時文が幅をきかせていると激しく批判したのである。
挙業は、文学においても大きな問題であった。彼は明代の文学は前代に及ばないというが、その最大の理由として、人々がもっぱら挙業に精力を注いだ点をあげる。事情は清初にも同様であった。彼は、模倣に走る時文の士のために古文の道が絶たれようとしていると嘆くのである。
挙業は、彼の理学を理解する上でも、看過できない意味をもつ。康煕の初め頃、王守仁、そして劉宗周の後継者として第一歩を踏み出した時、彼が直面したのは、挙業の士からの「離経背訓」という批難であった。彼は最晩年に至るまで、このような朱子学を信奉する挙業の士と戦い続けなければならなかった。
経学を諸学の根柢にすえる彼にとって、受験用の経書解説書ともいえる講章は、経学の荒廃をもたらした最大の原因であった。当時は、こういう受験生の経学が幅をきかせ、学者の経学が顧みられない状況であった。経学の復興のため、講章は克服しなければならぬ問題であった。
このように黄宗羲は、文学・理学・経学等々、あらゆる学問に共通する大問題として科挙の学をあげて批判している。彼の学問は、この科挙の学に対する批判を通して展開されているのである。
それがもっとも象徴的にみられるのが、講学活動である。彼は、明末の文社が失敗せざるを得なかった理由として経学の欠如をあげ、また、清初の文学や理学における共通の問題として科挙の学に由来する模倣の風潮を指摘する。このような反省から、彼が講学においていつも強調し実践したのが、経学と史学であった。
ところで、黄宗羲は晩年、自分が終生追い求めてきた学問を「佐王の学」ということばで表現している。この佐王の学への取り組みは、暦学や象数学などの実用の学に始まり、《待訪録》にみえる経世の学を経て、最後には経史の学にたどりつく、そうした軌跡をもつものであった。
晩年の黄宗羲はみずからの人生を、党人・游侠・儒林の三つの時代に区分する。おおむね明の崇禎年間、清の順治年間、康熙以降にあたる、この三つの時代に従って彼の学問を要約すれば、次のようなものになろう。
党人の時代、彼の主な関心は、挙業と文学にあった。そして、その活動の中心にあったのが、復社を始めとする各種の文社であった。このほかにも、彼は二十一史や十三経注疏、諸子や文集など、幅広い読書にふける一方で、暦学や象数学などの実用の学にも関心をよせていた。そして、明亡以後、游侠の時代になると、挙業を断念し、暦学や象数学など実用の学に取り組んで完成をみる一方で、経世の学をめざして《明夷待訪録》をあらわした。だが、儒林の時代に入ると、直接政治について語ることをやめ、経史の学を諸学の根本にすえ、その実践に専念するようになった。彼の学問は、科挙の学からはじまり、経世の学を経て、最終的に経史の学へたどり着いたといえる。
このような黄宗羲の学問的変遷は、顧炎武のそれと多くの共通点をもっている。若い頃、顧炎武の関心は主に挙業と文学にあり、それは復社を中心に行われた。その後、科挙を断念した彼は、明亡の前後から直接現実の諸問題に取り組んだ。だが、康熙初年頃からは、「明道救世」のための経学と史学に専念するようになり、その結果として《音学五書》と《日知録》を残した。顧炎武の学問は、科挙の学から始まり、現在のための経世の学を経て、未来のための経史の学へたどり着いたのである。
科挙の学に対する批判においても、二人は共通点を持っている。二人は科挙の学が盛んになったために学術が衰えてしまったと繰り返し主張するのである。黄宗羲と顧炎武を明末清初を代表する学者と評価することに、異論の余地はなかろう。二人にみえる以上のような共通点は、単なる偶然の一致とは考えられない。
《明史・儒林伝》は、「科挙が盛んになって儒術は衰えてしまった」という論者のことばで明代の学術を総括している。儒林伝のいう論者が誰なのか、今は知るすべがないが、清初を代表する学者、黄宗羲と顧炎武がそれと同じ主張を繰り広げていたことは確かである。二人の主張は、おそらく儒林伝に反映されたであろう。
《四庫總目》でも、明代の学問はすべて科挙の学にその根柢があり、それが盛んになったために経学が亡んでしまったとのべる。四庫官にいわせれば、科挙の学は明代の学術の盛衰を考える上で関鍵的な問題であった。
宋代から明代にいたるまで、中国の学術の主流は理学であった。清朝に入って主流となったのは、考証学である。この学術史上の大転換の背景には、様々な要因があったに違いない。一つの要因だけでこの大転換のすべてを説明しようとするのは、もとより無理な態度である。だが、この学術上の転換を理解する上で、科挙の学が重要な要因の一つであることは、確かなことといえよう。