本論文は五章に分けられ、劉捷と黄得時の「文芸復興」に対する認識の分析を始めとし、佐藤春夫「田園の憂鬱」、梶井基次郎「檸檬」、葉山嘉樹「淫売婦」、1930年代の張文環から翁鬧に及ぶ日本統治期台湾日本語文学、40年代日本人女性作家坂口れい子「春秋」、「鄭一家」まで、日本統治期台湾日本語文学と日本文学の間にある相互影響関係について論じている。
 台湾日本語文学が戦前日本文学から影響を受けたことは、序章で述べるように、今までも日本と台湾の先行研究によって論じられてきた。日本統治期の台湾人作家は日本植民地政策下で「日本語」を創作や思想の言語として選び、その作品を積極的に日本の「中央文壇」に投稿した。このような日本統治期台湾日本語文学による日本文学へのアプローチは、言語や文壇メカニズムの問題のみならず、表現の問題でもあった。それでは当時の台湾人作家は、如何にして日本文学の表現方式を継承しながら自らの思想や問題を描き出し、台湾日本語文学ならではの作品を創作してきたのか、という問題を本論文は主に論じている。
 さらに、第四章で引用した『影響の不安――詩の論理のために』(小谷野敦・アルヴイ宮本なほ子訳、新曜社、2004)の中で、アメリカ文学研究者のハロルド・ブルーム(Harold Bloom)は、先人作家というスフィンクスを乗り越えて「自我」の特徴を発見し、はじめて一人前の作家になるという可能性を述べている。ブルームは影響関係における先人作家と作家自身との間に差異を見つけ出すだけではなく、作家にその差異の創出を要請した原因を作家らの属する時代と社会に遡って探求することをもう一つの重要な課題としたのである。
 本論文もまた1930年代から40年代にかけての日本統治期台湾日本語文学と日本文学との間にある影響関係をより詳細に日台湾文芸界の時空において描き出そうと試みたものである
 1934年に劉捷が日本文学からの影響として挙げた「文芸復興の刺戟」という視点は、本論文の出発点である。いうまでもなく、劉の主張は当時の日台文学運動の展開における最新の動きであった。第一章で述べたように、実際には『フオルモサ』の創刊が「文芸復興の萌」とされる『文学界』よりも三ヶ月も早かったのであり、張文環らは『文学界』同人等とほとんど同時に新時代の到来に対して敏感に反応し「呉越同舟」の性格を持った『フオルモサ』を創刊したと思われる。当時の劉は、文芸復興を日本プロレタリア文学の延長線として戦略的に提起していたといえよう。一方、40年代の黄得時が「台湾新文学運動史」を作り上げる際に劉の観点を援用したのは、「中央文壇」と相対する「台湾文壇」を建設する中で、文芸復興を「中央文壇」や「日本文学」の代名詞として使うためであった。
 いずれにせよ、1933年の内地文芸復興が台湾新文学運動の発展に対して重要な影響を与えた、という認識は30年代の劉と40年代の黄の間に共通している。
 文芸復興時代の日本文学が、大正文学と昭和初期文学と並んで台湾新文学、特に当時の東京留学中の台湾文学青年達に大きな影響を与えたのは間違いない。大正文学の代表作家の一人の佐藤春夫には、台湾旅行を題材とする作品を書くのみならず、「田園の憂鬱」という名作があり、同作は自我の分裂によって現れる内面や生命観・宇宙観などの「憂鬱」の表現方法を探求した。やがてこの「憂鬱」という概念は30年代に関東大震災後のモダン都市の表象に転換したため、東京留学中の巫永福や翁鬧らの作中での「憂鬱」は佐藤の自我内面の分裂と30年代都市モダンの表象という両義性を持つに至った。言い換えれば、彼らの30年代作品からは、大正期と昭和初期との重層的な影響関係を見出せるのだ。以上が第二章の主旨である。
 第三章では、梶井基次郎「檸檬」「泥濘」等の作品と一連の台湾人作品とを比較することにより、東京滞在経験を持つ台湾人作家たちが同時代日本人作家と同様にモダニズムの雰囲気に深く影響される一方、梶井の観念的な「憂鬱」とは異なり、植民地台湾の異民族統治や伝統的婚姻という具体的な社会問題を「憂鬱」の原因と認識しつつ、日本モダニズムの創作方法を受容・変容させながら独自の文学を形成していったことを分析した。ここには「佐藤―梶井―台湾作家」という三角形の系譜が浮かび上がってくる。
 第四章では、葉山嘉樹「淫売婦」と琅石生「闇」との高い類似性を通し、無名作家の琅石生が「淫売婦」の物語の構造を借り台湾下層民を描いていることを明らかにした。しかしながら、葉山というスフィンクスのような先人作家の好評を博した出世作に対し、琅石生は「淫売婦」で現れる私小説風の伝統的な一人称の叙述方法を放棄し、それに代わって、三人称の視点を採用することによって映画のような立体的な叙述を実現したのだ。これによって琅石生は独特の台湾プロレタリア文学の表現法を生み出したのだった。
 第五章では、40年代に至ると、「台湾文壇」でデビューを果たす坂口れい子という日本人女性作家を取り上げる。彼女が描いた「春秋」と「鄭一家」との二作は台湾における日本人と台湾人の間の物語であり、二作は共に戦時下に台湾総督府系の『台湾時報』で発表された作品であるにもかかわらず、「融合」と「排除」の間に彷徨う台湾人と日本人の心理上の葛藤や衝突を描き出した。
 30年代に台湾文学青年らは日本留学経験などを踏まえ、日本文学の創作方法を借り、台湾の民族・階級・恋愛・自我などの問題を繰り返し描いていた。彼らはこのような創作行為を通して台湾における近代の問題を考え続けただけではなく、一人前の作家となる道をも探していた。留学が終わってから文学青年らは日本で勉強した結果を台湾に持ち帰り、文学界のリーダーとして40年代には台湾で「台湾文壇」を建設しようと試みる。その一方で、40年代には逆に日本人作家が「台湾文壇」を発表の場として選び「台湾」という土地を創作の中心にし始めたのである。坂口はそのような流れに参加した日本人文学青年と言えよう。
  日本統治期台湾日本語文学と日本文学の間にある影響関係は単なる「越境」の現象ではない。中国と日本との文化的境界線も変動しつつあるという混沌状態の中、植民地台湾は如何にしてその変動に直面したのかという問題は看過してはならない。それは清朝から日本への割譲という政治上の問題だけではなく、ナショナリズム、アイデンティティ、さらに日本帝国主義と科学合理主義下における近代化への葛藤でもあった。序章で詳述したように、藤井省三は『台湾文学この百年』(東方書店、1998)の中でB.アンダーソン「想像の共同体」とハーバマス「公共圏」の論点を援用しながら台湾ナショナリズムを論じる時、「大東亜共栄圏建設」とは「欧米植民地であった東アジアの日本植民地への転換(P.20)」を意味していると指摘している。欧米植民地の日本植民地への転換とは、当時の日本帝国が欧米と肩を並べ得ると自負していたことでもある。植民地台湾の視点から見ると、日本への同化は欧米への同化であり、日本統治期に日本文学に学ぶことは帝国日本への同化であると同時に、植民地台湾が自主的な近代化を進めるための一つの方法だった。つまり、台湾文学青年らが日本文学を近代化のための一つの方法と見なしていたと言えるのであり、文学的模倣は近代化のための模倣でもあるのだ。本論文で論じたように、日本統治期の台湾人作家が日本文学から影響を受けてその表現方式を学んだことは、帝国主義支配下でやむを得ない選択であり、日本文学というスフィンクスを超越し台湾独自の文学を形成するための試みであった。それは、台湾人作家が日本文学への模倣を通して自らを近代化する方法であり、さらには境界線混沌化の中のために失われた「自我」を再発見しようとする努力でもあったのである。