本論文は、第二次世界大戦後の日本における〈大衆〉音楽に関する言説編制の歴史的変遷について検討するものである。大衆の語に山括弧を付すのは、何らかの実体を備えた「大衆音楽」という所与の対象の存在を前提していないことを明示するためである。戦後日本の〈大衆〉音楽史を、しばしば行われるようにジャズ、ロック、ヒップホップといった欧米(とりわけ英語圏)由来の諸音楽ジャンルの受容史の総和と捉えるのでなく、大衆的・日常的な文化環境のなかで特定の音楽実践を意味付け、文化的な真正性を創出しようとする多様な言説実践がせめぎあう場と捉え、〈大衆〉と音楽が取り結ぶ関係がいかに言説的に構想・構築され、具体的な音楽的形象と関連付けられていったかを通時的に記述する。
 第1部では、昭和初期から昭和30年代まで〈大衆〉音楽をめぐる語りの規範的なモードについて検討する。そこでは、レコード会社制作の大衆向けの歌謡(本論文で「レコード歌謡」と呼ぶもの)を「低俗」「商業主義的」として敵視し、それに取って代わる真正な〈大衆〉音楽を標榜する、という行き方が啓蒙的な知的エリートによって共有され、ある程度実効的な影響力を持った。第1章では、本論文の主題である戦後の検討に先立って、昭和初年におけるレコード歌謡(当時の呼称では「流行歌」)という新たな音楽形態の成立と、まさにその時点で勃発した《東京行進曲》論争について概観し、「流行歌」と「流行歌批判」が、いわばコインの表裏として成立したことを確認する。第2章では、敗戦直後の左派・進歩派による「流行歌批判」の特徴を主に評論家・園部三郎の言説を通じて検証し、そうした批判が占領終結前後の「植民地化」への抵抗を背景とした文化運動として結集し、レコード会社・放送の自主検閲を促すに至る過程を描く。第3章では、前章で論じた「流行歌」への激しい批判者たちが、真正な民衆的な表現として肯定的に位置づけた「民謡」について検討する。左派・進歩派の民謡観におけるソ連の社会主義リアリズムの影響を指摘したうえで、かかる民謡観を部分的に取り入れた三橋美智也の「民謡調流行歌」をはじめ、民謡に取材した大衆的な音楽実践の拡がりについて論じ、昭和30年代の大衆的な音楽環境における「民謡」の象徴的な重要性について指摘する。第4章では、〈大衆〉音楽の能動的な制作主体としての放送について検討する。家庭の「お茶の間」を主たるターゲットとしたメディアである放送と、巷の「盛り場」と深く結びついた既存のレコード歌謡との対立的な関係を指摘したうえで、戦後の放送音楽を基本的な方向性を定めた作曲家として三木鶏郎の事績を検討する。さらに、テレビが創りだした「ホーム・ソング」的な歌謡が、レコードや映画も含む大衆的な音楽環境の全域において決定的な影響力を行使するに至る特異点として1963年に発表された楽曲《こんにちは赤ちゃん》について検討する。
 第二部では、1960年代以降、そうした批判の型を戦略的に転覆させ、旧来の批判者たちが「低俗」「頽廃」とみなしたレコード歌謡の諸特徴を「土着」や「被抑圧者の怨念」といった仕方で読み替え称揚する新たな言説の型が編制し、それが「演歌/艶歌」という具体的な音楽ジャンルを産み出してゆく過程について論じる。それは、第一部で論じた左派・進歩派的な立場から既存のレコード歌謡の低俗性を批判し、それとは別な〈大衆〉音楽を構想する、という行き方に対する意識的に反対の表明でもあった。第5章では、既成の左派・進歩派への対抗意識を明示的に表明し、その「流行歌批判」の型を象徴的に転覆させた先駆的な論者として寺山修司、森秀人、林光を取り上げ、そうした言説と既成の左翼的文化運動のロジックを接合し、歌手・美空ひばりを称揚した竹中労の言説について検討する。第6章、第7章では、反-既成左翼的な立場からのレコード歌謡論をうけて、そうした見方を具現化した音楽ジャンルとしての「演歌/艶歌」が言説的に構築される過程を記述する。第6章では、「演歌/艶歌」という用語の歴史的を概観し、これが明治・大正期の「演説歌」からそれが芸能化した「流し歌」を指し、レコード歌謡とはむしろ対立するものであったことを確認した上で、1965年前後に「古いタイプのレコード歌謡」という用法が徴候的に現れることを示す。第7章では、1966年の五木寛之の小説「艶歌」において、前章で検討した対抗文化的なレコード歌謡論と親和的な意味付与がなされたことを論じ、それが新左翼的なジャズ批評とも結びついてさらに先鋭的に観念化されるさまを描く。続いて、対抗文化的な観念としての「艶歌」イメージを、半ば戦略的に演じた歌手・藤圭子と、それに対する対抗的な文化人の熱狂について言及し、これをきっかけに、新たな音楽ジャンルとして「演歌」が定着する過程を検証する。
 第三部では、第二部で検討した対抗文化的な〈大衆〉音楽観が、より広範な文化的環境のなかに拡散してゆく過程について検討する。第8章では、民族音楽学者・小泉文夫の業績について検討する。彼の発言が、常に同時代の日本の音楽状況に対する積極的な介入であったことを確認し、基本的な学問的方法や問題意識はほとんど変化していないにもかかわらず(というよりむしろそれゆえに)、音楽をめぐる言説の転回に呼応して新たな流通・受容の文脈に組み込まれてゆくことを示す。具体的には、1950年代の左派・進歩派的な民謡観に基づく『日本伝統音楽の研究』に始まり、1960年代後半の対抗文化的な言説空間の中で、日本のレコード歌謡の「伝統的」な側面の肯定と、反文明主義的な「未開」や「起源」としての非西洋音楽の探求へと向かい、さらにそれが1970年代後半以降、「日本人論」と呼ばれる文化ナショナリズム言説と親和的なものへと変容してゆく過程が示される。第9章では、1990年前後に西欧先進国で展開した「ワールドミュージック・ブーム」の日本における受容の過程を検討する。これは前章で扱った「民族音楽」の流行を部分的に引き継ぐ非西洋音楽の消費に関する流行現象であるが、「ワールド・ミュージック」ではより都市的かつ混淆的な側面が注目された。欧米においては古典的な「西洋とそれ以外the West and the Rest」という区別を再強化する側面が強かったこの現象が、日本においては、近代以降の日本の音楽状況を根本的に変えうる現象として、いわば過剰に意味付けられたことに特に注目する。第10章ではロック音楽について検討する。1970年前後のごく短い期間に活動したロック・バンド、はっぴいえんどが、1990年代以降「日本語ロックの起源」と目されるにいたる過程に注目し、ロック音楽の日本における受容とその自明化の過程について検討する。1970年代以降、ある面ではかつての西洋芸術音楽と同様の、教養主義的対象としての規範的な「洋楽」の地位を獲得したロック音楽が、1980年代末から1990年代以降、日本の日常的な音楽環境において自明化し、その過程で、それ以前にはほとんど構想されることのなかった「日本ロック史」という意識が生じ、そこではっぴいえんどが遡及的に「起源」の位置に据えられることを示す。第11章では、1980年代以降の西洋芸術音楽の受容の特徴について検討する。第1部においては普遍的な価値を有する規範であり絶対的な目標であり、第2部においては打倒すべき抑圧的な他者であった西洋芸術音楽が、1990年代以降、大衆的な消費に供される過程を描く。バブル経済を背景とした、(当時の流行歌でいう)「ハイソ」なクラシック音楽消費が、「ワールド・ミュージック」と共通するエキゾティシズムや「癒し」と結びついて受容される消費財へと変化し、さらに「Jクラシック」と呼ばれる国内演奏家によるイージーリスニング的な音楽ジャンルを生み出し、それと呼応して西洋音楽化された日本製の音楽をある種の「伝統」として称揚する傾向が現れる過程を描く。
 補章では、英語圏における「ワールド・ミュージック」現象に関する学術論文を整理し、現代のポピュラー音楽研究と民族音楽学の動向を概観し、非西洋地域の近代化と〈大衆〉音楽を通じた文化的アイデンティティ形成をいかに記述し、研究するか、についての方法論的な議論を補う。
 以上の議論から次のことが明らかになった。第二次世界大戦後の日本の大衆的な文化環境の中で音楽を意味付ける仕方について、1960年代に大きなパラダイム・シフトが存在した。そのパラダイム・シフトは、戦後初期の左派・進歩派による西洋近代(およびその「発展形態」としての社会主義諸国)をモデルとした文化的上昇志向から、60年安保以後の新左翼的な心性を有した若い知識人による主に「黒人ジャズ」をモデルとした土着的な民衆性への下降志向への移行として説明しうるものであった。60年安保以降現れた対抗文化的な知識人・文化人たちは、旧来の左派・進歩派がレコード歌謡に向けてきた美的・政治的・道徳的な非難を象徴的に転覆させ、それが現実の流行現象と接続することで「演歌/艶歌」という音楽ジャンルが言説的に構築された。70年代以降、対抗文化的な下降志向に基づく〈大衆〉音楽観は、文化ナショナリズム言説としての「日本人論」と接合し、一方では「非西洋」音楽を自らの文化的真正性を構築するための資源として流用しつつ、他方では西洋的な音楽語法を自明なものとしながらそこに日本的な真正性を読み込む、という新たな言説と実践のパターンを生んだ。