M. ダメットによれば、意味理論探究とは、意味理論そのものではなく、意味理論の完成を目指すという課題の発見によって生じたものであった。このような考えの背後には、他の哲学的探究と異なり、意味概念探究については何をどのように分析すれば意味概念を分析したことになるのかに関して、哲学者間に共通了解が存在しない、という理解がある。「意味」という語で実際には別のものについて哲学者同士が語り合っている、という状況が十分にありうる。
 こうした理解は、ダメット自身による意味とは何かという問いへの答え方が、意味の定義ではなく意味理論という公理的理論を与えることだという事実に表れている。また、知識概念の探究との比較を通し、被分析文の不確定という形での、意味概念探究の方法論的な特徴づけによって、その特殊さは直接言及されてもいる。
 以上の考えが正しいなら、様々な意味概念探究の相違とは、同じ概念に異なる答えを与える立場の違いではなく、異なる対象の異なる方法に基づいた分析を、それぞれ意味概念の最善の探究活動と見なす立場の違いだということになる。本稿の目的は、このような言語哲学的探究の描像を、具体的に展開することである。まず消極的な議論、すなわちある一つのタイプの意味概念探究の否定として、ダメットによる意味のタイプ説批判を取り上げる。次に積極的な議論として、ダメット自身による反実在論的意味理論探究が、何をどのように分析する探究として捉えられるのか、を明らかにする。
 意味のタイプ説批判は、フッサール批判を意図されている。だがこれは、より広範に無自覚に浸透している意味概念への信念を批判するものとして再構成しうる。意味をタイプと捉える立場を、分析形而上学における命題の議論に見られるような、文の意味を抽象的対象と見なすという、より一般的な立場からの自然な帰結として示せるからである。
 まず、抽象的対象としての文の意味、命題の導入自体が、意味に関する我々の素朴な信念からの強い説得力を持った帰結である。このことを示す議論には多くのものがあるが、基本的には文からのその意味の分離と捉えられる。代表的なものとして、文と命題の同一性基準の相違、及び真理値の担い手としての命題の要請といった議論が挙げられる。
 こうした議論によって実体化された文の意味の存在を受け入れるなら、それは客観的で無時間的な抽象的対象でなければならない。この点については代表的なものとして、「思想」(Gedanke)についてのフレーゲの有名な議論を参照できる。そこでは、対象の主観性、客観性の定義にまで遡って、命題の客観性が主張される。また学問的真理の妥当性から、命題の無時間性が論証される。
 このような抽象的対象としての命題に対して、無時間的な対象を時間的な存在である我々がなぜ把握できるのかが全く説明できなくなる、というよく知られた批判がある。だが、「抽象的対象の把握」をそれ自体破綻した観念とするこうした議論は誤りである。こうした主張は、抽象的対象以外の対象について、一般に何かを知るということは知られている内容と知っている人の間に因果的な関係が成立するという事態である、ということを前提している。だが知識に関するこのような因果的要請は自明に正しいと前提できるものではない。因果的要請の具体的内容を、知識主体自身が知られている内容と自らの間の因果関係を再構成できる、再構成できなくても事実として両者の間に因果関係が成立している、因果的な関係を結びうる事態から知られている内容を推論できる、のいずれのいみにとっても、因果的要請の支持者が知識と認めるような例において、要請が満たされない場合が可能だからである。
 それゆえ、抽象的対象の把握自体は可能である。だがそれが、説明されるべき事態であることは確かである。従って文の意味の抽象的対象化は、抽象的であるとともに具体的である命題の二重性格を哲学的に説明する、という課題を引き受けることをいみする。このことはダメットの言う、語の意味の潜在的理解と、文の意味の顕在的理解という区分によって示せる。
 これに対する最も有力な回答と考えられるのが、意味をタイプと見なすという選択である。タイプはまさに、抽象的対象であり、トークンの存在を介して、同時に具体的対象であるという性質を持つからである。タイプのこうした特異性は要するに、抽象的対象であるにも関わらず、それについて語りうるだけでなく、それを特定の機会に「使用」することができる、という点に求められる。これに対し、実際には物理的対象としてのトークンが用いられているだけだ、という反論が予想される。だが、こうした反論を、それはある具体的対象が使用され、そうした具体的対象がある一般的性質を持つに過ぎないといういみでとっても、あるいは、タイプに言及する記述は、トークンのみに言及する記述に書き換えることができるといういみでとっても、これを論駁しうる。タイプは性質と本質的に異なり、また、トークンの物理的性質のみによって、あるタイプのトークンのクラスを形成することは不可能だからである。
 以上の議論から、抽象的対象としての文の意味を受け入れる、自覚的にせよ無自覚的にせよ一般的な「意味概念解釈」は、タイプ説にコミットせざるを得ないように思える。だがダメットはこうしたタイプ説を、悪名高いハンプティ・ダンプティ理論を偽装したものに過ぎないと厳しく批判する。
 ハンプティ・ダンプティ理論とは、表現は話し手に意味を結び付けられることによって意味を持つ、という考えである。これは、個別の発話において、可能な意味のうちどれが意味されていたかは話し手の意図が決定する、ということではない。言語表現は、そもそも人が意味をそれに結びつけることによって、無意味な対象から有意味な表現になる、という考えである。
 なぜタイプ説がハンプティ・ダンプティ理論を帰結するのかについてのダメット自身の説明は簡潔すぎるものだが、それは概ね、タイプの把握を同値関係の把握と見なす考えに基づく。タイプの把握が同値関係の把握であるなら、同値関係によって結ばれる各項は、そうした関係とは概念的に独立したものでなければならない。そして複数の物理的対象がある同値関係の元にあるということが、それらがあるタイプのトークンであるということなのだから、項の関係からの概念的独立性は、トークンとなるものは、それがトークンであることとは独立に理解可能でなければならない、ということをいみする。そしてこれを意味に適用して考えるなら、個別の機会において文が理解されるとき、その文の意味において、それが当の文の意味である(トークンである)ということとは独立に理解しうる対象が存在していることになる。以上のような状況において、表現はどのようにして意味を持つのかという問われたなら、それは表現トークンの担い手が、本来それとは全く関係のない意味トークンの担い手に、言語の使い手によって結び付けられることによって、と答える以外にない。それゆえ、タイプ説はハンプティ・ダンプティ理論を含意するのである。
 このような、抽象的対象としての命題という考え方に見られる、意味を対象化する潜在的な傾向に抗して、ダメット自身が採用する意味概念探究が、意味理論探究である。まず、意味理論の分析対象は、文を使う能力と対比されるようないみでの、言語を話す能力である。それは例えば、一つ一つのドイツ語の文ごとにその意味を暗記しているような人が持つ能力ではなく、実際のドイツ語の話し手が持つような能力である。従って意味理論探究とは、泳げるとか、車の修理ができるといった実践的能力の一例として、言語能力を分析する探究と言える。
 そしてダメットは意味理論を、能力という潜在的な対象の記述だと言う。ここで実践的能力の記述とは、料理をする能力におけるレシピにあたるものである。ダメットはまず、一般に方法知に分類される実践的能力を、更に知識であるものとそうでないものに分類する。前者は料理や機械の操作のような、やり方と呼ばれる命題が存在する能力であり、後者はある種の身体的技能のように、どれだけ反省してもやり方を人に教えられない能力である。知識である能力は、そうしたやり方を行為者が意識している否かに関係なく、当の行為ができることをそのやり方を知っていることと同一視できる。そこにおいてやり方とは、行為遂行過程の外からの記述ではなく、それを知ることで人が実際に能力を獲得するような、能力の所持者にのみ〈見える〉もの、能力の内側からの記述である。
 実践的能力のなかに、知識であるものが存在し、そして言語を話す能力がこのような能力に含まれるなら、それを知ることで言語を話すという行為が可能となるような命題のクラスが存在することになる。ダメットはこうした命題を明らかにすることを、意味理論探究と呼んでいるのである。そして、言語を話す能力が実際に知識であるということは、その学習ぬきの獲得が、経験的にではなく、概念的に不可能であることによって示しうる。というのも、一般的ないみでのやり方とは、学習において知られるものと定義されることができ、従って、学習によってできることとできることが概念的に区別できない能力では、やり方を知っていることが能力の所持そのものだと言えるからである。
 このように、ダメットにとっての意味とは何かという哲学的探究は、意味理論探究であり、そしてそれは、料理をする能力の分析としてレシピを明らかにするように、言語を話す能力を、レシピに対応するような、それを知っていることで数々の言語行為が可能となるような命題のクラスを明らかにすることによって分析することである。