本論文は三部構成であり、序章と終章を含めて12の章から成っている。
 「エスニック・メディア」という国民国家の枠組みのなかで登場したメディアの一形態を対象に、それが台湾という戦後独自の文脈のなかで形成された「多重民族・エスニック社会」においてどのような発展を遂げてきたかを把握しつつ、同時に「エスニシティ」と「マスメディア」という二つの概念の間に生じる矛盾と相克がどのような様相を呈するかを中心に、理論的・実証的に考察した。以下三部の順番で内容のまとめを述べる。
 「エスニック・メディア」の定義とその社会的意味をもう一度問い直すために、まず第一部ではエスニシティ、エスニック集団の社会的位置、そしてマスメディアと放送制度のもつナショナルな側面を取り上げて検討した。そこで台湾のエスニック・メディアを考察する準備として、台湾における放送メディアとその制度的展開を歴史的に辿った。権威主義統治時代の地上波テレビ寡占体制とラジオ局新設禁止、事前および事後検閲等言論の自由を大きく抑圧していた時代の実態検討を通して、1990年代以前の台湾ではマスメディアにおけるエスニック集団のメディア・アクセスは不可能に近く、自由はなかったことが確認できた。 
 そのうえ民主化と自由化の段階に入ってさえも、初期においてはさまざまな法改正と制度改革の波があったにもかかわらず、エスニック集団がメディアを通して十分に実践できるスペースが用意されていなかった。これは、たとえば「党・政・軍の放送メディアの経営からの撤退」、ケーブルテレビとラジオの新設開放、公共放送の設立等一連の改革の動きを考察することによって明らかとなった。
 そこで政府当局の単発的なエスニック番組制作助成計画、あるいは当事者の立場にたつ多文化主義的政策の欠如を指摘し、エスニック・メディアの意味と現状把握を図った。
 第二部では、「エスニック・メディア」を理論的に分析するための概念検討を行った。まずエスニシティのもつ政治的側面を確認・強調するためにナショナリズムの議論を取り上げた。そこでナショナリズムのもつ矛盾――対外的多元性の要求と対内的同質性の強調――およびそれが政治的コンフリクトを刺激する可能性、そしてエスニシティにもナショナリズムのような感情が芽生える可能性があるという点も同時に確認し、論点に加えて議論した。更に放送メディアの公共性を規定する規範概念である公共圏および多文化主義の議論も点検し、エスニック放送におけるマルチ・エスニック公共圏の設営の可能性、多文化主義の思想とその政策上のジレンマもあわせて確認した。規範的な視点からいえば、エスニック・メディアは、社会空間のなかで公共的議論をする場所や、多元的な文化や言語の共生を実現する手段を提供することが期待されているのだが、その際なによりも重要なのは当事者のエスニック集団がそこで自らと深く関わる問題を提起し、ほかのエスニック集団との「協働」を通して公共的コンセンサスを形成していくことであり、そうすることによってこそ多文化的社会の実現の可能性が高まるという結論に至った。しかし、現実におけるエスニック・メディアの発展では、内輪の、仲間内だけの集まりというイメージがなかなか払拭できず、主流社会やほかのエスニック集団との協働関係の構築にもまだ試行錯誤が続く状態にある。また、エスニック・メディアが政府の多文化主義政策を一方的に受け入れ、制度化を目指してくことには問題もあるように考えられる。エスニック集団のメディアがナショナルな枠組みの放送制度と出会う際に、そこにどのような反応が起こり、どのような結末が予想され得るのか。主流ナショナリズムの論理へと包摂されていくのか。それとも別の可能性が想定できるのか。異なるナショナリズム間の競合の可能な様相と仕組みは、第二部の理論的検討を通して整理することができた。このように第一部で確認した問題意識と第二部で検討した理論枠組みを用いて、第三部の事例研究に取りかかった。
 第三部の事例研究では、台湾という独自の歴史のなかで形成した文化と言語環境を中心に、90年代に市民社会から登場した「下からのエスニック・メディア」と21世紀初頭に公的政策の一環として登場した「上からのエスニック・メディア」というエスニックな多元性のメディア実践を取り上げた。無論、それぞれは異なる時代的背景と条件のなかから誕生したものであり、各自の実践にも異なる社会的意味を帯びるため、必ずしも単純に比較できるような事例ではない。しかし、三つの事例は、ともに国民国家という範疇内でエスニシティというものの顕在化を最大の目標として寄与してきたこと、そしてそれがマスメディアという社会制度、国民文化の維持に与してきた放送制度へと入り込むプロセスにおいてコンフリクトを起こしてきたことに共通している。考察の結果として第9章の「宝島客家ラジオ」の事例では組織と放送番組内容を含めた局全体のエスニック性の脱政治化の問題が確認できた。そして、第10章の「客家テレビ」と「原住民族テレビ」の事例では、両局が「ナショナルな政党制」の政治環境のなかで直面した複数のナショナリズムとの衝突、両局を既存の公共放送の枠内へと押し込もうとする主流社会からの統合の動き、およびそれに対する受容妥協と拒否拒絶という異なる反応を主に検討した。エスニシティと政治のせめぎ合い、そして公共放送制度の統合のイデオロギーとの矛盾を露呈した事例であった。
 そこで次の二点が浮き彫りになった。一つは、「下からのエスニック・メディア」が放送制度の内部へと包摂されていく際の政治性の弱体化問題。もう一つは、政治対立と公共放送制度のなかに放り込まれた「上からのエスニック・メディア」が、主流ナショナリズムかエスニシティかの岐路に立たされたことである。
 
1 エスニシティの政治性の弱体化

 社会の周縁に置かれていたエスニック集団が主流社会に対し文化・言語の差異の承認を求めた社会運動。その社会的意味合いは、宝島客家ラジオの事例で明らかとなった。第4章で論じたように「抑圧」と「解放」の二つのポテンシャルを同時にもっているエスニシティの本質は、宝島客家ラジオの事例を通して実証できた。宝島客家ラジオは、外部主流社会に強いられていた言語と文化の抑圧からの解放を求める動きの一つの帰結であり、成果でもあると考えられる。そこでエスニシティのもちうる政治的側面を強調する部分、すなわち主流社会と既存権力との拮抗関係の維持にこそ、宝島客家ラジオの存在意義があると考えられる。そしてそれが多くのリスナーとボランティアからの支持を取り付けたという点は、市民社会における当事者の可視化、ネットワーク化に寄与できる部分として考えられる。また、多文化主義が主張する承認や差異の政治という点からさらに考えてみると、真の文化的多元化とは、与えられるものではなく、また当たり前の環境のなかから生まれるものでもなく、それは当事者の側から求めるものであり、そして常に自分が置かれている社会的位置を意識し、かつ権利の主張を要請しているものである。しかし、当事者のこのようなメディア形成活動は、とりわけ制度化のプロセスにおいては、社会の所与のものである放送制度が内包するナショナリズム思想との対決を避けては通れない。それは同時に政治的行動と言論を伴うものであることはいうまでもない。宝島客家ラジオの非合法ラジオ時代から今日に至る一連の展開をみて、結論としていえるのは、社会的可視化および当事者性に繋がる政治的部分の褪色である。そして、言語や文化の伝統的シンボルを至上の価値として「死守」するあまり、それがかえって政府の統合的多文化主義政策にとって都合のよいものになってしまう、と分析することもできる。そこでは言語と文化は消費主義的な文化的シンボルとなり、主流に受け入れられやすい部分だけが制度化されていくという現象が起こる。また、政治的対立性をもたないエスニック・メディアが政策政令のチャンネルとして活用されると、主流社会の価値観が正統性をもつものとして、マイノリティに無防備に受け入れられていく可能性も考えられる。
 最後に宝島客家ラジオをめぐる事例研究を結論づけるならば、そのもっとも重要な問題は、「エスニシティの政治性」の意識をどのように復活させ、キープし続けていくかという点である。現実では、周縁から中心へと近づいて行くに従って直面する公的政策と財源への期待と依存、放送内容の脱政治化、そしてエスニック文化のエチゾティック化や消費主義化などの現象を確認することができた。
 
2 ナショナリズムとエスニシティをめぐる選択の問題
 台湾社会には、複数のエスニシティが複数のナショナリズムを形成しており、そこにそれぞれの対立関係が交叉し絡み合っているため、個人または団体でエスニックな立場とナショナルな立場の両方にかかわるという現象がしばしば起こる。さらに近年公式ナショナリズムは政権交代のたびに変わるため、台湾の文脈で観察されるエスニシティと公式ナショナリズムをめぐる権力関係の構図は、非常に多変的で捉えにくい場合が多い。
 客家テレビと原住民族テレビの場合でいえば、いずれも台湾ナショナリズムの民進党本省人政権が作ったエスニック放送であったため、中国ナショナリズムの国民党政権はそれに強い不信感を抱いている部分がある。民進党政権時代(2000年~2008年)には、客家テレビと原住民族テレビは台湾ナショナリズムの枠組みのなかで、エスニックな言語と文化を中心に政治的闘争とは無縁の内容を制作し続けている。しかし予算や経営など放送制度としての基盤部分について、多数野党である国民党議員から予算凍結を数回にわたり受けていた。そこで観察できたことは、台湾ナショナリズムと中国ナショナリズム対立の構図に基づいた政党間の対立であった。その際に客家テレビと原住民族テレビが受けていた政治的干渉は、もっぱら次の二つの方向からであることが確認できる。一つは行政側(客家委員会と原住民族委員会)からの干渉。これは主流社会にとけ込み、権力側に付いた同エスニック集団出身者によるもので、それを行政権力による介入と捉えることができよう。もう一つはナショナリズムの政治権力による介入。つまり立法院で多くの政治的資源を持つ野党国民党の中国ナショナリズムからの度重なる財源上の脅威であった。放送制度自体にこれら二重のナショナルな権力による監督・けん制部分が目立つことから、客家テレビと原住民族テレビは、エスニシティとしての主体性の構築がますます困難となり、結局のところ時の政権のもつ公式台湾ナショナリズムへの傾斜を強めていく結果となった。
 しかし二度目の政権交代後の国民党時代(2008年~)には、中国ナショナリズムが再び公式ナショナリズムとなり、行政的権力を握るようになる。公式ナショナリズムと行政権力の二重の転換、そして行政権力を持つ公式ナショナリズムが立法院で圧倒的に多くの政治的資源をもつようになった。これに直面した客家テレビと原住民族テレビは、政治権力に順応していくか、それとも拒否するかという岐路に立たされた。そして前者は順応の道を選択したのだが、後者はエスニシティの主体性問題を提起し、異なる道を歩もうとの決意を表明したのである。ナショナリズムとエスニシティの相容れない部分、一方への接近が片方への放棄を余儀なくされるというジレンマは客家テレビと原住民族テレビの事例考察のなかから明るみにでた問題である。
 以上は本研究を通して明らかになった国民国家の内部におけるエスニック・メディアが抱える矛盾と葛藤だった。