中央アジア近代史研究は、1991年のソ連崩壊に前後して、地域への関心の高まりと一次史料の公開を背景として、近年長足の進歩を遂げている。その過程で、政治、社会面におけるイスラームの動態、ムスリム知識人の思想や活動、ナショナリズム、帝政ロシアの統治と現地社会との関係などが主要な研究対象となってきた。しかし中央アジア南部の定住オアシス社会の維持に不可欠な灌漑の歴史的展開は、ソ連期の一時的な研究蓄積を除いては進展しておらず、一次史料にもとづいた研究によって解明すべきテーマとして残されている。また帝政ロシアの統治と現地社会との関係は、植民地行政のみならず中央政府やロシア人企業家などの動向にも注目する必要があるだろう。そして帝政ロシアの進出以前と以後を通じた現地政権、現地社会の動態の解明が待たれる。こうした課題に対しても、灌漑史というテーマは考察の視点と材料を与えてくれるにちがいない。
 以上のような問題関心から本論は、アムダリヤの下流域に位置するホラズム・オアシス中部のラウザーン運河周辺における灌漑事業の変遷に注目し、同オアシスに成立したコングラト朝ヒヴァ・ハン国(1804–1920年)の興亡を、ホラズムの灌漑史の展開に位置づけることを目指した。
 第1章「19世紀前半のラウザーンにおける灌漑政策―対トルクメン政策の視点から―」では、17世紀以降ヒヴァ・ハンたちが、ラウザーン運河周辺に堰を建設し、水供給を制限することでトルクメンを服従させる一貫した政策を行ってきたという先行研究の議論を、現地語(テュルク語)史料および同時代の旅行者、使節の記録を網羅的に利用して再検討した。その結果、以下の事実が明らかになった。ラウザーン運河は、18世紀後半から19世紀初頭の間に建設された小運河に起源を持ち、1830年ごろに起きたアムダリヤの決壊により、この運河一帯は湖沼となった。1830–1840年代のヒヴァ・ハン国政権は、この自然環境の変化を利用し、ラウザーン周辺から16世紀末以来荒廃していたハン国西部へと灌漑事業を拡大し、新たな灌漑地にトルクメンを中心とした諸集団を移住させ、彼らの軍事力を背景に周辺地域への軍事遠征を実施した。この結果、ヒヴァ・ハン国の周辺地域への影響力が拡大するとともに、ハン国西部におけるトルクメンの定住化が進展した。しかし軍事遠征の過程でトルクメンのヨムート族と新たに移住してきたジャムシード族との対立が生じ、前者の反乱へとつながった。これに対してヒヴァ・ハン国政権は、1850年、1857年の二度にわたりラウザーン運河の本流に堰を建設し、水供給を制限することでトルクメンを服従させる政策への転換を行ったのである。
 第2章「保護国期ラウザーンにおける灌漑事業―アムダリヤの転流計画とその帰結―」では、現地語史料、帝政ロシアの植民地行政文書、さらに同時代のロシア人灌漑事業家・技師たちの論文を利用し、18世紀からロシアが追求したアムダリヤのカスピ海への転流計画が、ホラズムの現地社会に及ぼした影響を考察した。1873年ロシア軍のヒヴァ遠征、その結果としての和平条約締結とヒヴァ・ハン国の保護国化に並行して、アムダリヤの旧河床(ウズボイ)調査が開始された。1878年夏アムダリヤがラウザーン運河の本流へと決壊すると、ロシア政府(中央)や灌漑事業家・技師たちは、転流の起点としてこの地に注目し、転流実現を最終目標とした灌漑事業の実施をハン国政権に要求し始める。しかしこれらは、アムダリヤの水利用の実態を踏まえたものではなく、資金、労働力の負担、新たな灌漑地のロシア領への移管をハン国政権に求める内容であった。1894年、この計画の延長線上に、ハン国政権の負担により建設された運河(新ラウザーン運河)は、ハン国内の定住民の賦役によって維持されながらも、十分な水量を確保できなかった。このため、運河の利用を開始した一部のトルクメンは、1899年から騒擾を起こし、以後ハン国政権への服従を拒む一勢力を形成していった。さらにこの騒擾への対応をめぐって、ハン国政権内ではイスラーム・ホジャを中心とした改革派勢力が台頭することになった。
 第3章「ハンと企業家―ラウザーン荘の成立と終焉1913–1915」と第4章「帝政末期アムダリヤの水管理をめぐるロシア=ヒヴァ・ハン国関係」では、1913年新ラウザーン運河沿岸においてロシア人企業家たちが計画した大規模灌漑と農園設立事業の消長を、現地語史料、植民地行政文書に加え、ロシア国立歴史文書館所蔵の露亜銀行関連文書を利用して検討した。第3章ではロシア人企業家とヒヴァ・ハン国政権の視点、第4章ではロシア政府を含めた三者の視点から考察している。1913年6月から12月にかけての M. M. アンドロニコフ公と A. I. プチーロフによるハン国領内の土地取得は、投機的な土地取引と評価されてきたに過ぎない。しかし露亜銀行の諸史料にもとづけば、この土地取得は、1909年ハン国に支店を開設した露亜銀行(頭取はプチーロフ)、当時トルキスタン各地で灌漑計画を立案していた M. N. エルモラエフ技師、そして宮廷貴族アンドロニコフ公を主体とした農園(ラウザーン荘)設立事業の一環であった。彼らは、動力灌漑設備を導入して灌漑事業を実施し、商品作物である綿花、アルファルファを栽培して、敷設予定の鉄道で中央ロシアにそれらを輸出する計画を立案していた。一方で宰相イスラーム・ホジャの指導のもと1910年から改革に着手していたハン国政権は、その一環として納税を条件にラウザーン荘の企業家へ国有地を分与し、地税収入を確保しようとした。しかし1899年以降自立傾向を強めていたトルクメンの一勢力はこれに反対し、1915年夏には新ラウザーン運河一帯を占領したため、ラウザーン荘の構想は挫折したと考えられる。
 一方、1905年から土地整理農業総局長 A. V. クリヴォシェインを中心にロシア政府は、企業を誘致して灌漑事業を推進し、トルキスタンにおける綿花栽培とロシアからの移民の入植拡大を図る新たな開発政策に着手した。しかし同時にロシア政府は、企業家の利益を国家の利益に従属させるべく、1913年5月にかけて企業の土地所有権、水利権の制限、ロシアからの移民促進、および政府の事業介入などの立法化を企図し、企業家の反発を招いていた。ラウザーン荘の企業家は、こうした規制がなかったハン国領内に灌漑事業の機会を求めたのである。これに対して、ロシア=ヒヴァ・ハン国関係を直近で監督するアムダリヤ分区長官 N. S. ルィコシンは、1913年7月から1873年の和平条約を拡大解釈することでラウザーン荘の事業への介入を試みた。さらに1914年3月の大臣会議でロシア政府は、ロシア領トルキスタンの企業活動への規制をハン国領内に拡大するとともに、ロシア政府のアムダリヤの水に対する高権的処分権を規定して、ハン国政権の灌漑の自主裁量を否定した。この結果、ラウザーン荘の試みは頓挫することになる。これ以降、ロシア政府(中央ならびにトルキスタン総督府)は、軍事、灌漑の両面でハン国への介入を強め、一方でトルクメンはジュナイド・ハンのもとに結集してハン国政権と衝突を繰り返し、その板挟みの中でヒヴァ・ハン国は崩壊していった。
 ラウザーン運河周辺の灌漑事業の展開に注目することで、以下の点が明らかになった。まず、19世紀前半のヒヴァ・ハン国政権は、トルクメンを服従させるために彼らへの水供給を制限する一貫した政策を行っていたというよりも、むしろ彼らの軍事力提供と引き換えに、灌漑地を与える政策を実施していた。この政策は1850年まで継続され、18世紀以前にはハン国内の内訌、灌漑地の不足により進展しなかったトルクメンのホラズム・オアシスにおける定住化を促進した。また、その計画のユートピア的性格が強調され、ソ連期まで実現されなかった灌漑開発の前史として位置づけられてきた帝政期のアムダリヤのカスピ海への転流計画が、現地社会に与えた影響はこれまで明らかにされてこなかった。しかし転流計画の起点となったラウザーンに着目すると、1890年代その延長線上に計画された運河建設は、現地(ヒヴァ・ハン国)政権とトルクメンの一勢力との対立を引き起こした。このようなホラズムのウズベクとトルクメンの「民族」対立は、1924年ソビエト政権が断行した民族共和国境界画定、すなわち歴史的なホラズム地方の一体性の解体の一要因なったと考えられる。さらに、投機的な土地取引という評価のためにその全容が明らかにされてこなかったラウザーン荘の事業は、資本(露亜銀行)と技術(動力灌漑の導入)を背景とした大規模灌漑と農園設立事業であった。この事業は1899年から自立傾向を強めていたトルクメンの抵抗により実現しなかったが、その失敗の背景には、1913年に本格化する土地整理農業総局を中心としたロシア政府のトルキスタンの開発政策とそれに伴う企業家への規制の強化、アムダリヤの水を利用したヒヴァ・ハン国政権の灌漑の自主裁量の否定へと向かう、帝国の統合強化の試みがあった。以上のように、1830年ごろ、続いて1878年夏のアムダリヤのラウザーンへの決壊という自然現象は、ホラズムの政治、社会全般に変化をもたらした遠因となっていたと考えられる。また先行研究においては、保護国期のヒヴァ・ハン国ではロシア政府(中央ならびにトルキスタン総督府)の不干渉政策のもと、統治体制の変化はなく、社会経済の停滞が進んだとされてきた。しかし灌漑をめぐっては、ラウザーン運河周辺へのロシア政府の様々な干渉が、ヒヴァ・ハン国政権の灌漑政策と齟齬をきたし、現地政権内の勢力関係の変化、現地社会内部の対立を生みだすとともに、ホラズムにおける灌漑の「近代化」を阻む構造を作り出していたのである。